この間、娘が帰郷中の出来事で。
娘に、なんの件だったか、呼びかけるのに、妹の名を呼んだ。
ということなんだけど。
どうも、自分の中で、似てるんだね、感情の動きが。
ボケの始まり、といえば、そんな解釈だって、成り立つけどね。
だって、認知症にしてもアルツハイマーにしても、通常と違うことを、言ったりしたり。
ってことだよね、早い話が。
なんだけど。
それはともかく、自分の中に、沸き起こる情動の結果としての、名前の呼びかけ。
みたいな観点からするとね、なかなかに、興味深くもあり。
その昔、と言っても、ずいぶんの昔の話、柳田國男に、「妹の力」だったか、そんな話があり。
兄と妹が結婚し、みたいなことだったかな。
近親での性的な営みが、近親相姦とかの言葉で、タブー化、禁忌だね、する前の。
そんな時代の話なんだろうけど、娘との、そんな話もあるにはあるよね、今でも。
社会が、今のように、整然と立て分けられる前には、ごく自然のこととして、そんなことも。
あったんだろうね、根拠、確信はないけどさ。
まだ、天皇が大きな国を治める前、小さな国がそこかしこに、群雄割拠してる頃には、一族での婚姻。
なんてのは、当たり前でもあっただろうし。
今でも、娘が結婚するときには、相手の男をぶん殴る、みたいな言説もあったりするし。
名残だね、きっと。
てな訳で、呼び間違いをしてしまうのです、長いね、自分を正当化するまでの話が。
そうだ、昨日は、残りの個人ミーティングがあって、その中で。
針穴写真、という話題が出てきて、まったく、人生はミラクルだ。
って感想を持ったんだけど。
目の前の御仁が、言い出し、70歳をすぎると、やりたいことをやり尽くしたい、という気になるそうで。
箱の内側を真っ黒に塗り、印画紙を挿入し、コンマ何ミリかの穴を開け、10秒から30秒、待つ。
ってわけだ。
すると、ミレーの「晩鐘」のような写真が出来上がる、って次第で。
8kだとか、クリアな、鮮明な競争の激しい、この時代において、あえて、境界のぼやけた写真、もいいね。
よく見かける、明治維新の前の、坂本龍馬や勝海舟が大勢の人たちと写り込んでいる、集合写真ね。
あんな感じかね、出来上がりは。
このところ、Facebookも含め、ネットサーフィンしていると、新しい、とか、今までとは違う、とか。
新機軸、みたいな感じかね、いろんな方が、いろんな言説を、上手に、あるいは、下手に、書いている。
マーケティング、とかの言葉を使う方に多いんだけどね、今のままではいけません、的な。
当方も、すっかり、その気になって、ああだこうだと画策もしたりしているんだけど、ふと。
立ち止まってみると、おいおい、ひょっとしたら、これすら、大きな舌べら、前世紀、いや。
もっともっと前の時代からの、寒冷前線のように、われわれの上に張り出している、大きな舌べらに巻き込まれようとしているんじゃないの。
みたいな感想が、やってくるのは否めず。
実際の真実、真価、真理は、そこにはないかもね、なんてね。
むしろ、何もしない、とか、何も考えない、とか、そんなところに、やってくるもの、かな、と。
坂本龍馬は、死ぬときには、ドブの中でも前のめりに、なんて、ポジティブシンキング病のハシリ、みたいな。
言葉を残している、というようなレジェンドになってもいるけど。
前だけが、存在するんじゃなく、ってことだ。
未来だけがいいんじゃなく、過去もひっくるめて、今があることに、感謝、というのか、ミラクルな、不思議な。
感懐を持とうよ、くらいの話かな。
なんて書きつつ、昨日の言説は、未来志向の瞑想法を試してます、ってんだから、なんともかんとも。
だけどね、いや、ことほど左様に、人間ってのは、自由にして闊達、ってわけだ。
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