に続くのは、この列島、日本だ。
と書くと、ニッポンすんごい運動みたいになっちゃうのも困るんだけど。
パンデミック、ウクライナ、さまざまなデクラスなんて時代に、これも。
一つの文明の終わりの姿なのかも知れず、という論で。
明治の頃に、和魂洋才だっけ、便利な言葉を創造し、その延長で今までやってきて。
とはいえ、和魂がいつの間にか、洋才過多な日々の暮らしぶりとあいなり。
だな。
という具合に、文明というのは混淆していくものでもあるんだろうけど。
洋才を経た和魂がどんな風に、この先展開していくのか、というのが、楽しみでもある。
というのも、ここへ、日本語脳、ってのが登場するんだな、きっと。
これは、どうしようもない必然なんだよね。
9歳までに日本語、あと一つ、ポリネシアのどこかの国の言葉で育った人、それが日本語脳人。
という括りなんだそうで。
母音を右の耳から入れて左の脳で受け取る。
自然の音は、虫でも鳥でも風の音でもほぼ母音だそうだ。
それを言語脳と呼ばれる左脳で受け取る。
しかし、それ以外の国々の言葉で育つと、母音は雑音として右脳で受け取るらしい。
なんて研究を、50年くらい前に、角田さんという学者さんが発表された、というんだね。
意味としての言語としてだけ受け取る脳では、論理の組み立てが早いし、容易だろうけど。
意味プラス情として、情感も一緒に受け取るとすると、そりゃ、論理の組み立て最中に。
さまざまな情感も伴うから、時間かかるよね、組み立てに。
しかも、その情感を捨象するという余計な作業もあるので、精神衛生上良くないし。
なんて感じかな。
論理だけとは言わないけれど、そんな具合の左脳で組み立てられた文明が。
そろそろ、ピークアウト、って構図だな。
というのが、表題からの論です。
これ、アカデミズム界隈では一世を風靡しそうになったらしいけど、なんかのきっかけがあったのか。
いきなりしぼみ、なんてこともあったらしいけど。
そりゃそうだな、自然を征服するもの、と思うか、ともに生きよう、と思うか、ってのは。
一大事というくらいの違いだもんね。
こんな具合の思索は、もう少し続きそうだな、なので、to be continued、だ。