どうもことのところ、小林秀雄づいちゃっている。
あるいは、空気のような会話と文字にした伝達とでも言おうか。
氣という文字が気となってしまったような現代、そんな気配でもあるな。
実は、ある時代まで、氣としか言いようのない、自分自身を取り巻くものたちは、氣のなかの米という形のように、四方八方へ広がったりこちらへやってきたりしていたのではなかったか。
なんて妄想だな。
めちゃくちゃ乱暴に言っちゃうと、小泉純一郎の、A4一枚にまとめろ、なんてことにたどり着いちゃった時代、と。
的確にまとめる、ということが、いかにも真実の表出であるかのような、ね。
まとめる、なんてのは、取捨選択、とも言えて、捨ててしまったものへの哀惜をね。
稗田阿礼はひょっとしたらすべてもっていた、なんてロマンというのか妄想というのか、というわけだ。
語り尽くしたと思った時に、でも待てよ、と残るもの。
そこを哀惜と言わないと、今流行りのポリコレみたいな具合になっちゃう、という独断です。
ワンフレーズポリティクス、とかさ。
あんまりカタカナ語、使いたくないけれど。
もうね、西欧文明と呼ばれていたものが、痛々しくてさ。
彼の地で生活したことないから、あくまでも推断、推測、それこそ、まとめ、で語っちゃってるんだけどね。
なので、稗田阿礼的なものを残しつつの暮らし、ってのは、彼の地でもしこたまあるんだろうな。
どうもこのところ、文学づいちゃってる気配をひきづりつつの火曜日に向かいます。