グランシップで、親鸞展をやってまして。
日曜日、行ってきたのでした。
月影の
いたらぬ 里は なけれども
ながむる 人の
こころにぞ すむ
という歌が、親鸞聖人のものです、と掲示してあった。
いや、師匠の法然さんかな。
この意味が、よくわからなくてね。
ひょっとしたら、この歌が、腑におちたら、親鸞が一生かけてたどり着いた境涯に、こちらも、たどりつけるかも。
なんて、予感もしたんだよね。
この月影、ってのは、ネット検索すると、阿弥陀如来の光明の喩えだそうで。
時間も空間も超えた、無限の光、だというんだけどね。
だから、どんな場所にも、例外なく、射し込んでます、と。
そういうわけで、澄んだ心で見れば、だれのこころにも、住んでいるんですよ。
というようなことかな。
だから、なに?
なんていわないでね。
聞いたわけじゃないから、わかりませんが。
たぶん、親鸞さんは、どこかの時点で、これか、って、気づいたことがあったんだろうね。
だから、法難にあっても、南無阿弥陀仏を称えつづけた。
この法難というのが、古い仏教界からの弾圧で。
たとえば、時の後鳥羽上皇の何番目かの奥様の頭を、出家したいというから、剃っちゃったんだよね。
後鳥羽上皇、いたく、激怒して。
親鸞さんの兄弟弟子、4人だったか、斬首刑になっちゃったわけだ。
親鸞さんと法然さんは、辺地へ、流され。
今の世で言ったら、どんな例があるんだろうね。
茶髪にしたら退学。
なんていうのは、もうないか。
明治時代だっけ、男女七歳にして席をおなじゅうせず、なんてのもあったしね。
今となれば、たわいもないことでも、時代時代で。
そりゃ、たいへんなわけだ。
仏教にも、そんな歴史の数々が、あった、ということですね。