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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

鹿島小学校の運動会

2018-05-12 11:39:18 | Weblog

                            分類:観                                                     鹿島町を見て歩こう(70)       
                           いわき市立鹿島小学校                                                             いわき市鹿島町走熊字中島1                                                                                             ☎ 0246-29-20        
     鹿島小学校の運動会                                              昨日(
11日)は南から高気圧に覆われて暖かい空気が入り、良く晴れて日中は気温が上がって夏日になりました。                                                                                    今朝は幾分肌寒さを感じたが、朝の6時に開催合図の花火が澄んだ空いっぱいに響き渡ると次第に陽射しが出てきて温度も上がり、絶好の運動会日和を迎えました。                                                                       《校庭には子や孫の応援に親たちが集まった》


  鹿島小学校の生徒数は、昭和30年代から40年の半ばまで300名前後で推移してきましたが、その後半から更に昭和50年代を迎えると一時期700名を超えるほどになったことがあります。                                                                しかし、少子化問題や7年2カ月前に起きた原発事故により県外へ避難した家族など、複合的な原因が重なって少なくなってきているのが現状です。                                                                       《入場門で次の出番を待つ元気はつらつな生徒たち》


 数日前から学校の前を通ると、運動会の予行演習が行われていて、明るい表情と活気のある行動が見られましたが、今日はその効果が見事に現れていました。                                   こうして、純粋無垢な子供たちに未来を託しながら応援側に回って観ていたら、生薬よりも効き目がある 「元気薬(ぐすり)」 を貰ったような感覚になって、自然に背筋が伸びました。


  


 かつて、鹿島小学校の敷地に鹿島中学校もありましたが、昭和45年(1970)を最後に鹿島中                                                            学校は、小名浜一中と平三中に統合されて姿を消しました。

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福島さくら農協鹿島支店

2018-05-11 06:23:57 | Weblog

                             分類:観                                  鹿島町を見て歩こう(69)       

                       いわき市鹿島町走熊字坪下3                                                                 ☎ 0246-29ー2051

                                                                                                           福島さくら農業協同組合 鹿島支店                                       鹿島村農業協同組合は、昭和22年11月公布の農業協同組合法により、昭和23年4月9日付の設立になるが、その母体となった団体は、村議会と有限責任鹿島信用購買組合でした。 購買組合に至っては明治24年までさかのぼり、日清戦争に於ける当時の資本主義経済の発展に伴う、中商工業者及び対農業政策として組合組織を奨めてきました。                                                                                                             「村農会」 とは各町村の役場管轄下の団体で、主として役場の勧業に統括されていた組織です。                                                   《福島さくら農業協同組合鹿島支店》

 しかし、現在の農協とは程遠いものがあり、その後、幾多の変遷を経て昭和年代に入り、時代の進展に伴い内容も充実し全農家が加入出費の組合に成長し、農家経済を支えるまでに進展しました。                                                                                              戦後の食糧事情逼迫の中で政府米の集荷など、その他肥料を始め農業生産資材の確保に寄与した農協の役割は大きく、地域農家経済を支えて発展してきましたが社会経済の変化と地域の発展に対応して、昭和39年6月1日を以って、鹿島・小名浜・江名・玉川の4農協が合併して磐城農業協同組合を設立。                                                                        《旧・鹿島街道で右カーブになっているが、正面に見えるのが農協鹿島支店》

 その後に於いても、地域の急速な発展と社会経済の変化に対応し、昭和54年10月30日には磐城・常磐・渡辺・泉の4農協が合併予備契約の調印をして、昭和55年3月1日に、いわき中部農業協同組合の設立となりました。                                                          

現在ではタイトルにあるように 『いわき市さくら農業協同組合鹿島支店』 となって、その位置付けとしては、本店の下に置かれた鹿島・小名浜・玉川・泉・渡辺・常磐の6支店の一つということになります。

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中島山寶林寺

2018-05-10 12:25:11 | Weblog

                              分類:観                               鹿島町を見て歩こう(68)  

                                                                                       いわき市常磐松久須根町(旧・鹿島村)                                                 中島山(ちゅうとうざん)寶林寺                                                              本尊釈迦牟尼仏(座像                                                     創立:天文年間後期                                                 本寺は、天文年間(1532~1554) の後期に、中塩伊庵が大舘青雲院四世の住職・大貫慶虎(だいきけいこ)大和尚を請して開山されて以来、ずっと地区民の崇信を集めてきました。                                                                                                                         《寶林寺》

 昭和17年1月7日、庫裡より出火して庫裡および本堂を焼失。戦時下で物心両面で苦しい時代の中で、檀家一同が総力を挙げて昭和19年に本堂を再興し、昭和28年に至ってようやく本尊を入仏したのでした。                                                        

                                                          《寶林寺へ上る石段》

 開山の慶虎大和尚は元亀元年(1570)5月23日示寂し、開基者中塩伊庵は永禄元年(1558)10月8日に没しました。                   

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いわき市立鹿島公民館

2018-05-09 06:03:28 | Weblog

                             分類:公                                             鹿島町を見て歩こう(67)      
                    いわき市立鹿島公民館
                      いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1                                              ☎ 0246-29-2250                           江名港⇔湯本線(県道48号)の道路沿いにある鹿島公民館は、昭和56年に建てられた鉄筋コンクリート2階建てで、地域住民の融和を図るための交流や各種の要望に対応する事業を次々に取り入れて、存在そのものの重要性を示しています。                                                                                                                                                                
《現在の鹿島公民館》


 鹿島村当時に公民館が設けられたのは社会教育法が施行された昭和29年(1954)の直後で、この頃は鹿島村役場内に形式的にあったのみで、主として関係機関や団体との連絡調整に当たる程度で、特別な施設や専任職員の配置などはありませんでした。                                  昭和30年(1955)、鹿島小学校に初めて施設として公民館が設けられ、昭和32年(1957)に同小学校に講堂が新築されたのと同時に公民館も独立した施設として新築されました。


 昭和39年(1964)、やはり鹿島小学校の敷地内になりますが、鹿島南公民館が建設されました。    ▲この時に鹿島の三地区(三沢・上矢田・松久須根)は常磐市へ編入したので、常磐市管轄の 「鹿島北公民館」 もできました。


 現在使用している公民館は、建坪(延床)508㎡、敷地3,695㎡で、昭和56年1月に建設されたもの。                                                                                        《平成29年(2017)に建てられた講堂》


  講堂建設は地域住民の長年の要望が実現したもので、面積約250㎡、講堂187㎡で、ステージ・音響設備・研修室・トイレが設備されています。                                            《正面が壁面収納ステージになっている講堂内部》     

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熊野神社

2018-05-08 12:00:48 | Weblog

                                                分類:観                               鹿島町を見て歩こう(66)     いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2                                                         熊野神社                                                                      祭神:五十猛命(いそたけるのみこと)素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子で、民に植林を奨め、航海                                                                            漁撈を司った。                                        速玉男命(はやたまおのみこと)=伊弉冊尊の御子                                                                           伊弉冊尊(いざなみのみこと)                                                                                    泉津事解男命(よもつことさかのおのみこと)=悪事も善事も一言のもとに解決する神                       《現在は江名港⇔湯本線(県道48号)の沿道にあるが、元は海抜100mの高地にあった熊野神社》

 延暦23年(804)正月、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征討に際し勧請したと伝わり、爾来産土(うぶすな)さまとして崇敬してきましたが、境内とした戸ノ内87の1番地内は当地区の最高地に位置するために、神事や参道などで意の及ばぬこともあり、昭和32年5月に近隣地の戸ノ内102番地に譽田別名(ほんだわけのみこと)を祀る旧小社三島八幡宮の聖地を拡張整備し、社殿を新たにし熊野の正床を奉遷するとともに八幡さまも合祀して産土神としました。                                                                             ▲志賀家の所蔵の旧記には 「志賀久吉の祖、志賀久左エ衛門の氏神として、弘仁2年(811)」より享和3年(1803)正月まで同人宅地内に在りしを、同年より村の鎮守と為し村社と号す」 と記されています。

 

        

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矢田川の治衛門堰(せき)

2018-05-07 08:47:30 | Weblog

                                              分類:観                                     鹿島町を見て歩こう(65)       いわき市鹿島町久保1丁目                                           矢田川に治衛門堰(せき)があった                                             鹿島ショッピングセンターの側を矢田川が流れていて、その近くに蔵持川と合流する地点があります。そこから下流へ約100m行った辺りが下の写真です。                                 遠方中央に三角型の山が見えますが、あれは磐城三十三観音のうちの17番札所がある走熊の高寺山です。左端の木の下に何やら少し見えると思いますが、ハンドル付きの排水弁です。                       丁度この付近に、昭和50年中頃まで 『治衛門堰』 と名付けられた堰場がありました。                                                                                                             《治衛門堰があった場所の矢田川》

 右側の土手には樹齢300年は経っていたと思われる1本の黒松が生えていて、 鹿島小学校の教室からも見えたので、その土手を歩いている人が誰であるのかを眺めていたような子供時代がありました。                                                             残念ながら昭和53年に河川工事のため、矢田川のシンボル黒松は伐採されてしまいました。                                                                 《昭和53年まであった治衛門堰》

 久保の区有文書に鈴木治衛門なる人物が出てきますが、果たして同一人物かどうかは判明していません。                                      久保邨(村)は耕土の水不足が慢性化していて、水田が作付け不能になることがしばしば発生したようで、田植え時には農民の悩みは深刻でした。                       また、30数町歩ある耕地の潅漑水も需要期に不足する状況を見るに耐え兼ねた治衛門は、耕地の高低を考えた末に矢田川の一番の要所に柴堰を築き上げ、堰き止められた水を耕地に潅漑水として引き入れ、久保の田圃は稲作に適するようになりました。                                          の人たちはその偉業を讃え、その堰を『治衛門堰』と名付けたのでした。                                 

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鹿島の湯殿山信仰

2018-05-05 08:31:32 | Weblog

                                           分類:観                                     鹿島町を見て歩こう(64)      いわき市鹿島町全域                           鹿島の湯殿山信仰                                          鹿島町を歩いていると各地域()ごとに 「湯殿山」 と刻銘した石碑があります。                            古くから行われていた山岳信仰からくるもので、走熊の石碑(写真下=左)の年号には、安政二卯年二月吉辰 村中安全と刻まれています。                                                               全体的に文久や安政時代にこれらの信仰は盛んだったようです。                                                                                                                                     《走熊(はしりくま)地区》        《米田(こもだ)地区》

 山岳信仰は山を崇め奉る信仰で、縄文人が山に対する感謝と畏敬の念を以っていたことが始まりとされています。自然の中で生きる上で山を神として崇拝し、豊かな収穫を祈る対象であったので、山の神が農作業の時期に山から降りてきて田の神になるとも信じられてきました。                                           山岳信仰は、火山系・水分(みくまり)・葬所の3つに分類されます。 水分系は、分水嶺即ち水源の山に対する信仰です。農耕を営む人々にとって山は生命の源であり、かつ水害を引き起こす脅威でもあるので、こうした山に対して感謝の念と畏敬の念が信仰の根源といえます。                

                                          《上矢田地区》           《御代(みよ)地区》

                                                             《下矢田地区》

 写真で紹介した湯殿山信仰の石碑は鹿島町の半分にも満たないが、碑の中に必ず「村中安全」と刻まれているのは、村内(当時は単位)で参詣する同行者が講を組んで行き、帰ってきたところで村人たちの農耕に対する豊作と、安全を記すために建てられた碑です。                   農村らしく地域社会の結合が強く、社会慣習の拘束力が如何に強い土地であったかが立証されています。                                                                                                                                          

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鹿島町と岡小名の境辺り

2018-05-04 16:44:43 | Weblog

                                               分類:観                                                鹿島町を見て歩こう(63)             いわき市鹿島町&小名浜岡小名                               鹿島町と小名浜岡小名の境界周辺                        鹿島街道の平方面から小名浜に向かって、御代坂の一番上に差し掛かった所が下の写真で、 もう少し行って下り始まった場所までが鹿島町御代の地域になります。                                                その先に大きな十字路の信号があり、角に 「コスモ石油セルフピュア小名浜SS」 があります。右折すると大原街道の住吉交差点に出ます。左折すると小名浜生協病院前を通り神白(かじろ)へ出ていきます。                                                                                                                     《御代から岡小名へ向かう御代坂の頂上付近》                

 昭和35年前後までは、まだ岩肌が露出している狭い山道で、夜になると人っ子ひとり通らない真っ暗な道で、池からは牛蛙(食用ガエル)が地響きするような鳴き声をするので、とても薄気味悪がられていました。                                                              《エピソード》 小名浜の工場に勤めていた人が、ある日たまたま帰宅時間が遅くなり仕方がなく1人で御代坂を越えようとして歩いていました。 闇夜で鼻を摘まれても解らないくらいくらいの暗さの中を歩いていると、後方で自分の足音とは違う音がするのに気付き立ち止まると、その音もピタッと止まってしまう。                                                                気のせいかと思い直して歩き出すと、また等間隔で別の足音がする。何度か繰り返している内に意を決して 「誰か居るのかい?」 と見えない方へ向かって問いかけると、実は同じように鹿島に帰っていく人で、恐さの余りその人の後にずっと付いてきたというのでした。 それで、お互いに安心して御代の山道をを下ってきたそうです。 (めでたし、めでたし) で締めましょうか。                《岡小名トンネル(手前)を抜けると、もう1つの相子島トンネルがある》

 

 

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鹿島ショッピングセンター

2018-05-03 09:11:04 | Weblog

                            分類:観                                    鹿島町を見て歩こう(62)    
       鹿島ショッピングセンターエブリア・ヨークベニマル                                                            いわき市鹿島町米田字日渡5                                                                            ☎ 0246-46-0100                     鹿島ショッピングセンターエブリア・ヨークベニマル                                        浜通り地区の商業拠点として鹿島ショッピングセンターが果たす役割は大きい。平から小名浜まで約13kmある県道小名浜・平線 (通称、鹿島街道) 沿いに並ぶ小売店舗を含めると、面積割合で平・小名浜を抜いて全市の40%を占めるといわれています。                                                                                        鹿島街道の区間は4車線で、全幅員25mの広々とした快適な道路で近隣の市町村から気軽にショッピングにやって来る人たちがいる理由にもなっています。                                                                  県道48号(江名港⇔湯本線)から見た鹿島ショッピングセンター


                                                                    買い物客で賑わう夕方の店内風景》                        


 鹿島ショッピングセンターエブリアは市内80以上(現在)の小売業者が、地元小売業の発展のために平成7年(1995)に開業し、ヨークベニマルはダイエーが撤退した後の平成18年(2006)に新規開業しました。                                                                  営業時間 エブリア専門店       10:00~20:00                                              ヨークベニマル・ダイソー 10:00~21:00                                                       5月5日のイベント ちびっ子ビンゴゲーム大会 先着100名(小学生以下)にビンゴカードを配布。ビンゴになると商品がもらえます=14時からエブリア広場。   


                                    《エブリア北駐車場》        《エブリア屋上から米田方面を見る

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鹿島町=中央台の抜け道

2018-05-02 12:27:20 | Weblog

                                               分類:観                                 鹿島町を見て歩こう(61)        いわき市鹿島町走熊地区                              鹿島街道=中央台への抜け道                                           いわき市では昭和46年に 「いわき市総合開発計画」 を策定し、まちづくりの指針が決定され 「明るく住みよいいわき市」 の建設を目指した各種プロジェクトが進められ、その中の代表的なものにいわきニュータウンがありました。                                                    自然とのふれあいの中で、小中学校及び大学、県立公園などの文化施設が完備されていますがその分、鹿島街道と中央台の交通量も増えてきて朝夕、車のラッシュ現象が起こっています。            鹿島街道へ出入りするには正規のルートで、①上矢田の「ブルックリンコーヒー」と「関彰商事ガソリンスタンド」がある信号からと、②下矢田の「渡辺ゴム」がある信号から、の2つがあります。                                                                                                    《上矢田の信号》            《下矢田の信号》 

   ところが本道以外の近道として最初の内は車で通行する人は稀だったのですが、最近では昼夜を問わずに通る車が多くなりました。                                                 いわゆる常習化した抜け道で、「鹿島小学校」から「かしま幼稚園」を経由して、道なりに進んでいくと大きな貯水池があり、そこを上り詰めると「中央台南小学校」の前に出るルートです。                                                   《鹿島小前の信号》           《かしま幼稚園前の道路》 

 途中に信号がなく混まないという利点があるからなのでしょうが、この道はかつて農道で道幅が狭く、朝の7時から8時までは通学時間帯で車は通行禁止になっているので、この地域に住む者の1人として、いつも運転マナーの遵守を願っています。                   

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石段になった老松

2018-05-01 06:34:28 | Weblog

                                             分類:観                                   鹿島町を見て歩こう(60)       いわき市鹿島町船戸字林下65          石段になった老松                                     若宮八幡神社(旧・村社)⇒俗称:船戸の若宮八幡さま                                                    祭神: 大鷦鸛尊(おおささぎのみこと)

 若宮八幡神社は、鹿島街道の「タイヤ館」と「かしまレディースクリニック」がある真向いを約100mくらい行った場所にあります。                                                     現在では周囲を公営住宅船戸団地群にすっかり囲まれた形になってしまいましたが、昭和30年頃まで辺り一帯は田圃と畑に包まれた静寂な杜そのものでした。周囲の環境が変わっても平坦地にある小山の高台で、 しかも雑木が生え繁っているので、近くを通ると雰囲気からして若宮八幡神社の存在が分かります。                                                                                                                                                         《この石段を上りきった所に若宮八幡神社がある》

 昭和41年に船戸団地造成に当たって境内の一部が削られてしまいましたが社屋はその地に止まり石造鳥居を建立し、子供神輿を造りました。毎年5月3日の例祭には近隣から多数の子供たちが参加します。                                                               昭和10年代までは社前で別火の行事を、更に昭和30年代までは神輿を小名浜湾に渡御させましたが、残念ながら途絶えてしまいました。

                 《老松を石段にした碑》        《手すりの右端にあるのがその石碑》

 かつて境内には老松が生え繁っていましたが、松食い虫に侵され枯死寸前になったために止むを得ず、昭和57年に伐採し、老松代価を以って石段を造り、氏子一同がその樹魂を慰めました。

  【石碑文】                                                           この地に樹齢三百数十年余の黒松亭亭と生え、里人に親しまれてきた。しかるに壬戊の晩秋松食虫におかされ枯死寸前に至りしため、やむを得ず昭和五十七年十二月四日伐採 し老松代価をもって石段を造り、氏子一同樹魂をなぐさむものである       昭和五十七年十二月吉日 若宮八幡神社氏子一同     草野日出男撰文 山崎定治 書 

                                                 《若宮八幡神社》                                                                                               

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