分類:観 鹿島町を見て歩こう(72) いわき市鹿島町走熊字鬼越 蔵持尋常小学校の跡地 鹿島の小学校は、明治時代の12ケ村(現在の大字名にあたる)に三つあり、校名も場所も目まぐるしいほどに変わっています。 明治6年6月、鹿島町久保(当時は久保村)の金光寺を借り受けて久保、飯田、上・下蔵持の生徒、男14名、女2名の総計16名を抱え啓蒙小学校が開校しました。 その後、久保小学校、下蔵持小学校、蔵持小学校と改称されて、明治13年に火災によって焼失しています。 《ファミリーマート角の七本松信号そばに上り口がある(中央)》
成徳小学校(後の矢田小学校)は、明治6年に上矢田村神宮寺に開校し、明治7年には下矢田村の真浄院に移転して矢田小学校に改称されました。ここに米田、走熊など全部で6ケ村の児童が通うようになりました。 御代、船戸の両村は住吉村(現・小名浜住吉)の銑心小学(旧・住吉小)へ通学していました。 明治14年、矢田小は下矢田村字細作の新校舎に移転し明治16年、蔵持小は以前の校地に校舎を新築、移転しています。 同年、行政区の改正に伴い学区も改正され、走熊・御代・船戸村は、ともに蔵持小の学区になりましたが、矢田小や住吉小へ通う生徒もいました。 《上の写真をアップするとこうなる。右の道路は江名港⇔湯本線》
明治20年4月~同22年4月の間は授業料を徴収されない簡易小学校となりましたが、その後、下矢田、蔵持の両小学校を共に尋常小学校と改めています。
昭和10年に現在ある鹿島小学校(走熊字中島)に木造平屋建て瓦葺きの小学校が完成しました。 今の鉄筋3階建て校舎ができたのは昭和54年です。
《坂を上りきった場所》 《学校の名残はなく只の雑木林だった》