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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

小名浜へ歩いて本買いに 2

2009-04-14 07:24:16 | Weblog
                  《少年時代に読んだ本》

 先ず一旦、家に帰ってお金を貰わなければならない。
 母親に言うと「簡単に百円というけれど、お父ちゃんが苦労して働いてくることを考えたら、お金は大切に使っていかなければ駄目」と、つれない返事。
 母が動くたびに一緒になって後ろに付きまとい、粘った末にやっとゲット。
 本当にバスに乗る必要がある場合以外は、バス利用は誰もしなかったので、それを込みでお金を強請ることは、本を購入することさえ完全に否定されてしまうのをわきまえていたのでバス賃のことは口にしなかった。

 昭和20年代後半の物価を調べてみると、東京の浴場の入浴料が大人12円、はがき2円、ざるそば19円、たばこ(みのり)45円、ノート10円だったから本というのは割高だったことに気付く。

 小名浜に行く時は、さほど距離感はなかったが帰りの道は遠かった。
“近くて遠きは田舎の道”というが、例えの通りで先は見えているのだが曲がりくねった道は中々、目的地までは近付けさせてはくれなかった。
 
「面白ブック」には創刊記念号の五大付録と銘打って、漫画本が本誌の間に挟まれて輪ゴムで留められていたので付録を抜き取り、M君に貸して別れる。

 秋の夕暮れに一人で家路に向かう。
 家に着いて、囲炉裏の自在鈎に掛けられている味噌汁鍋の匂いに空腹感を覚えたが、手中に収めた雑誌の魅力には勝てなかった。
 一頁めくるたびに、都会の新鮮な情報がこぼれてくるようで目は輝いた。

 M君は、T銀行の役付まで出世したのだが40歳の若さで他界してしまった。
 私は、あの頃に二人で歩いた思い出の旧鹿島街道が見えてくると、わざわざ本道から逸れて旧道に入っていく。
 M君が何か話しかけてくるような気がするからです。 

 
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小名浜へ歩いて本買いに

2009-04-13 07:15:22 | Weblog
                  《旧鹿島街道の岡小名あたり》

 鹿島街道の正式名は「主要地方道いわき・古道線」といい、一般には平の国道6号線(十五丁目交差点)から、いわき市役所小名浜支所までを含んでの表現のようですが、鹿島を通過するために「鹿島街道」の呼称になったものです。
 写真は昔の面影が全くない岡小名の旧道。

 私は、団塊世代と云われる人達よりやや先輩にあたり、防空頭巾を被ったり学童疎開を経験した人達よりは後輩になるという、イソップ物語のコーモリ的な存在の中で生きてきました。
 ですから私が話したり書いたりすることには、どちら側の人達も何らかの共通感を抱いて戴けるという特典があります。
 
 昭和27、8年頃のことを記します。
 常磐炭砿の全盛時代で内郷、湯本などの町は活気が漲っていました。小名浜港では遠洋漁業の水揚げが好調で夜ともなれば、ねじり鉢巻きで長靴を履いたヤンシュウ(船乗り)が飲み屋街では大モテ。
 この頃、背広姿で街へ飲みに行っても相手にされなかったという伝説があるくらいです。
 
 そこで鹿島は?というと専ら農業が主体で、生産性の上がらない労働を強いられていました。
 どこの農家も葉たばこの生産をしていましたから、家族で夜なべをして乾燥させた、たばこの葉を伸す作業に追われた時代です。
 そういう中で、楽しみは僅かの時間を見い出しては娯楽雑誌を読むことでした。

 大人は「平凡」「明星」そして「家の光」。
 子供は「少年」「少年倶楽部」「太陽少年」などが通り相場と決まっていましたが、学校へ持っていくと取りっコをしての回し読みが始まります。

 私の兄妹は五人で、男は私一人。父親はサラリーマンでしたから私の希望は大概のことを叶えてくれました。
 友達は欲しいものがあると私に買わせようと言い寄ってきます。
 ある時、M君が「今度、面白ブックという本が出たから買ってみないか」と言って、買いに行くなら一緒に付いていくというのです。
 私が何気なく「その本、面白いのかな」と聞いたら「面白いから、面白ブックと云うんだっぺ」と答えたのには、なるほどそうだよなと感心してしまったのです。

 M君の言うことに一理ありと、私の愚問を反省しつつ二人で放課後に、小名浜まで往復12キロ(3里)を歩いて「面白ブック」を買いに行くことになりました。 《続く》
 

                   
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伝承郷は癒しの空間

2009-04-12 08:26:44 | Weblog
                      《野にある石の地蔵さん》

 昨日(4/11)は、いわき市暮らしの伝承郷へ行ってきました。
 企画展示室のフロア迄はよく足を伸ばすのですが、庭内に入って散策するのは久し振りのことです。

 企画展示室では、キルトの展示会が開催されていて、この日の館内は大半が女性の方でした。

 本日まで、石の宇宙「石への祈り」というテーマで、鹿島12地区に現在でも継承されている十九夜講と、それに纏わる塔や庚申塔の石造文化を地区ごとに分類され、写真つきで展示されていたので興味のあるところでした。

 旧川口家住宅から旧樋口家住宅へ向かう途中の道端に、可愛らしい石地蔵が無造作に置かれたように演出されています。
 これが、かつての農村地帯の風景を彷彿とさせます。

      これこれ石の地蔵さん
      西へ行くのは こっちかえ
      黙って居ては判らない
      ぽっかり浮かんだ白い雲
      何やらさみしい旅の空
      いとし殿御の心の内は
      雲にお聞きと言うのかえ

 子供の頃に映画で見た「花笠道中」で、美空ひばりが歌っていた主題歌の一節ですが、伝承郷のその道は古き良き時代の場面の中へ引きずり込ませるようなロケーションであったことに今更ながら感嘆しました。

 
 

      
 
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エコと健康には自転車

2009-04-10 07:44:03 | Weblog
                    《真浄院入り口にある仁王力士像》 

 昨日(4/9)は、正に春本番の陽気で風も無かったので絶好のサイクリング日和でした。
 長閑な気分を味わい、若草萌える道端をゆっくりと観察しながら、鹿島町下矢田の真浄院界隈とラパーク(ドンキホーテが開店ホヤホヤです)を半日掛けて一巡してきました。 

 私は会社を定年退職後は、車検切れを機にマイカーを保持しておりません。
 その代替用に自転車を購入して活用しています。(現在のもので2台目になります)

 よく他人様から車社会の世の中で、自家用車を持っていないと何かと不便でしょうと云われますがそんなことはありません。
 私は車の必要性がないということを知らせるために片手を差し出して指を折り曲げます。折り曲げるだけでは足りないので次に指を広げていきます。
 
 なぜ要らないのか、なぜ自転車なのかを指の変わりに箇条書きにしてみます。

①身体のために良い運動になる。
②調子が悪い時には足がだるく感じたり、自転車が重い気がするから毎日、自己検診を行っているのと同じ。
③とかく環境問題が話題になるが、エコにも良い。
④どうしても車が必要な時は月に数回程度だから、その時にはタクシー(買い物や病院へはワンメーターで済む)かレンタカーを利用すればいい。
⑤それでも急を要する時には、近くに妹夫婦がいるので事情を説明して借用する。
⑥車の減価償却、対人対物の保険、車検、車税、修理、ガソリン代、などを勘案して金額を月割りにすると使用回数が少ないので自家用車は割高になる。
⑦海を眺めたり、公園の芝生に寝そべったりしている時など安心して酒が飲める。
⑧家の庭に駐車場のスペースが無くて済むようになった。

 以上のように私にとっては良いこと尽くめなので、足腰が利く内は自転車からは離れられないと思います。

 今日、Aレストランで食事の前にビール(ジョッキ)をオーダーしたら、ウエートレスさんが「お車の方は大丈夫ですか?」と心配そうに聞いてきた。
 「車といえば車ですけど、実は自家用自転車なんですよ」と返したら、これが受けて大笑いされた。


  本日の催し  19:00~ いわき遊宴倶楽舞  於・鹿島公民館 




 
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おまるさんで育ってきた

2009-04-09 07:28:16 | Weblog
                    《駄菓子屋おまるさんの跡地》

 写真は七本松から鹿島小学校へ向かう途中の道ですが、道路はまるで突き当たりで行き止まりかのように見えます。
 ところが、道はこの先から山裾にへばり付くように、何度もS字形の曲線を描きながら、平方面に伸びている鹿島のメインストリート(旧鹿島街道)だったところの一部です。 ◇左側には一軒の家もなく狭い畑と田圃だけでした。
 
 前方に空地が見えますが、道路側の一角が駄菓子屋「おまるさん」があった場所で、学校はその先200メートル位の所で現在も同じ場所にありますが、当時は木造校舎で校庭内には中学校もありました。

「おまるさん」とは店の老婆の名前で本名は「マル」といい、鹿島小学校創立110周年記念誌の旧職員名簿を調べると、明治41年に蔵持小学校(別の場所)で教師をした経歴がある人です。
 店は子供たちの登下校時の溜まり場で、いつ行っても必ず何人かは居たものです。

 寒村ですから社会情勢を一早くキャッチすることに疎く、会話でデパートとアパートを即座に判断できた子供は少なかったような時代背景の中で、華やかな都会に憧れ早く大人になりたいという願望だけが先行し、それでいて誰もが小学生の高学年になっても、まだ洟をたらしていた時代でした。

 漫画でいえば、西岸良平の「三丁目の夕日」の昭和30年前後に該当する頃でしょうが、鹿島版?!の私たち小学生の目線からでは、せいぜいこの程度の生活環境の中で育っていました。

 「おまるさん」にはメジロ獲り用の「トリモチ」や、べえゴマ、ペッタ(めんこ)、釣竿、山遊びに使える「肥後守」(ナイフ)、ゴムを巻いて飛ばすグライダーのキット等々、小遣いを手にしたら何かは欲しくなる品が、いつも手招きをしながら待っていました。
 誰かが物を買うと羨望の眼差しで見つめていた子もいたが、買った子も他人にあげるほどの余裕はないから見せたり、貸してあげたりしたものです。

 いま思うと、あそこ(おまるさん)は子供のデパートそのものでした。
 

 

 
 
 
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飯田地区と十六坂

2009-04-08 07:46:30 | Weblog
                   なだらかになった十六坂

 鹿島町の「飯田」の由来は、結田(ゆいだ)からきているとされている。
 今でこそ農作業は機械化が進んで、田圃も耕作から田植え、そして稲刈りまでを人手を頼らずに済ませてしまうが、かつては農繁期ともなれば「ネコの手も借りたい」の例えがあるように農家は人手が欲しくて大変な苦労をした。
 
 小、中学校では冬休みや夏休みの他に、春と秋も各10日位の農繁休暇があったと記憶している。(昭和20年代後半頃まで)
 正に、家族全員が駆り出されて農作業に従事したことになる。勿論、隣や遠くは高久や平窪あたりからの応援もあった。
 田植え時期を、地区ごとに巧く調整して労働力の貸し借りをしたのである。

 この方法は非常に効率の良い作業の進め方で、飯田は早くから採り入れていた。
 現代風にいうと、鹿島のパイオニア的存在だったのでしょう。
 結田(ゆいた)を、辞書で調べると「田植えなど、一時に多くの労働者を要する仕事をする際に、互いに人手を貸し合うこと」とあるから、「結田」が「飯田」になったにせよ地名になったことは、農作業から出た名誉である。

 この飯田から林城へ抜ける境に、十六坂があります。
 昔は、もっと急な伐り通しで、更にその前は林城とはまるで遮断されたような細い道だったそうですが、未だその時代は矢田川の下流地帯が海浜であり、飯田地帯は相当の荒海だったようです。
 たまたま暴風雨の襲来によって、逆巻く怒涛と化した日、この地内に出漁していた漁船が難破して、漁師たちの死体が打ち上げられたのが飯田の辺りで、死者が16人であったことから、それ以来この坂を十六坂と呼ぶようになったといいます。


   本日の催し ~4/12まで  10:30~18:30
    -刺繍・織り・染め-鈴木智美の世界・・・《入場無料》
           場所・ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊)0246-29-3826


 
 
 

 

  

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番刈(ばんかり)という呼び名

2009-04-07 07:48:43 | Weblog
                番刈屋があった跡地

 鹿島町下矢田字榎木内3-2に「番刈屋」という雑貨屋さんで平成の時代までありました。

 実は小学4年生の時に、この店に東京日野市から転校してきた女の子がいて、そこは母方の実家だったようです。私と同級生で私も同じ年に千葉県松戸市からの転校生でした。話は本題から逸れてしまいましたね。  

新常磐交通の「下矢田」バス停近くで、現在の位置とは少しズレた場所になりますがバス停も「番刈」という名で実在しました。

 写真で説明すると、中央の空地部分が「番刈屋」があった所で右端が矢田川です。
 前の側溝は当時はなくて、電柱の左側は鹿島街道の旧道になります。

 番刈とは土地の名ではなく、その場所の俗称です。
 その昔、店の裏の川辺りに水車小屋があって米や雑穀を搗いていました。(といっても私が見た訳ではありません。古老からの又聞きです)
 付近を通るといつも水車が回っていて、搗き音がバンカリ、バンカリと聞こえてくるので、いつの間にかその一帯を「番刈(※当て字)」と呼ぶようになり、いつの間にか雑貨屋そのものを指す呼称になってしまったということです。

 因みに雑貨屋の名は薗部姓でした。


     本日の催し  4/4~4/12  10:30~18:30
      -刺繍・織り・染め-鈴木智美の世界・・・ 《入場無料》
              場所・ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊)0246-29-3826


 ◆訃報 里見庫男さん(古瀧屋代表取締役)が亡くなりました。
 生前、八面六臂の中で「いわきの地名研究会」の会長も務められ、小生のような無名の者にも優しいアドバイスをして下さいました。
 誠に、お人柄が偲ばれます。 里見先生のご冥福をお祈りします。  合掌  
     


 
 
 
 
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トベタナの謎?

2009-04-06 07:32:07 | Weblog
 昔、走熊地区に塩や、たばこを販売していた店がありました。 駄菓子類も置いてありましたが主力は矢張り、生活必需品でした。
「トベタナ」という店でしたが、一体どういう意味なのか子供の頃には全く知りませんでした。
 
 看板が挙がっている訳でもなく、親も村の人たちも「トベタナ」「トバタナ」と言っていたので小さい頃から「トベタナに行ってタバコを買ってきてくれ」と言われれば、ああ、あそこの家だなという感覚だけで何の疑問も抱かずにいました。
 子供は興味心が強いから些細なことでも直ぐに「なぜ?」と問いかけるのが普通ですが、それをしなかった私はなぜでしょう。

 写真(板塀の先)のブロック塀の中が、例のトベタナがあった跡地で現在では畑になっています。右の奥へ向かっている道が旧、鹿島街道で白坂、番刈方面へ続く道です。(山を切り崩して広くなっていますが当時の道幅は半分もありませんでした。
 新、鹿島街道が開通するのに合わせてトベタナは移転したので、私の記憶しているところでは今の鹿島街道沿いに出店の一番乗りを上げたのは、この店の筈です。

 デニーズ、石のカンノがある交差点の一角に「小野商店」がありますが、その店こそ正に、かつての「トベタナ」なのです。
 
 解決を急ぎます。
 村の古い人名帳から小野藤兵衛という人を見つけました。今頃になって湧き上がってきた疑問に、とうとう終止符を打つ時がきたのです。
 店のことを昔は「タナ」と呼びました。「大家といえば親も同然、店子(タナコ)といえば子も同然」のタナです。
 つまり、「藤兵衛の店」が「トウベイタナ」になり、私が耳にするようになった頃には「トベタナ」に変化していたという訳です。 一件落着。


 本日の催し  4/6  13:30~
  事故防止キャンペーン 出動式  
          内容 車両パレードと事故防止の呼びかけ
          場所 鹿島ショッピングセンター・エブリア北入り口広場
          主催 いわき東地区交通関係団体


 
 

 

 
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春だ!桜だ!鹿島でイベントだ!

2009-04-05 07:18:47 | Weblog
 昨日、4月4日(土)は鹿島ショッピングセンター・エブリア北側(矢田川に沿った駐車場)で、「みんなで植えた鹿島千本桜」と銘打って【ふれ愛さくら祭り】のイベントがありました。

 肝心のサクラの咲き具合はというと?大目に見て未だ二分咲きぐらいでしょう。(残念)
 
 PM2:00からPM8:00までの時間を分けて、野外ステージではロック、ムード歌謡、ジャズ、ダンス音楽、マジック、和太鼓など多彩な催しで観客を湧かせました。
 
 写真右側の見えない部分がステージになりますが丁度、小休止の時間なので屋台の方にカメラを向けてみました。
 天候にも恵まれて、比較的に暖かな一日だったと云えるでしょう。

 鹿島地区は「鹿島千本桜」事業として、毎年少しずつ矢田川沿いに桜の若木を植樹してきましたが桜並木が完成したことにより、鹿島の三団体が実行委員会を設立して企画したものです。
 みんなで植えた桜を大事に育てて、名実ともに「鹿島町」と言ったら「サクラ」を合言葉になるよう、実行委員会では意気込みをみせています。
 
 今月の15日(水)までは矢田川に並ぶ桜の木々に夜間、ライトアップされます。
 

  夢・躍動・ふれあいのまち
  
                         鹿島地区地域振興協議会
            実行委員会三団体  鹿島地区区長会
                         ネーブルシティーかしま

              
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丸山公園跡地

2009-04-04 09:35:45 | Weblog
 旧、鹿島街道七本松の十字路角に現在、鹿島公民館がある。
 
 昭和30年に鹿島小学校敷地内に設置されていたのだが、昭和57年1月11日に現在の走熊字鬼越83-1に新築移転が行われた。
 昭和54年には鹿島小学校新校舎が完成しているから、その機にほぼ合わせるようにして分離したことになる。

 この地は元、丸山公園と呼んでいて高さ30メートル前後の頂上が平地で、何の施設もなかったが子供たちの格好の遊び場になっていた。
 ただ一つ、忠魂碑が威高々と据わっていたのを覚えている。上からの眺めは真下に木造平屋建ての、モノサシのような細長い校舎と田園風景が一望できる場所でもあった。

 公民館建設と江名-湯本線を結ぶための目的で、丸山は削り取られてしまったが、呼び名の通り古墳のような丸みを帯びていたので、工事中に関係者は中から貴重なものが出てくるのではないかという期待もあったようだが、残念ながら只の山だったというエピソードがある。

 写真の白い建物が鹿島公民館で、旧鹿島街道寄りに建っているのが丸山公園頂上にあった忠魂碑。


 本日の催し  4/4(土) 14:00~

 鹿島ショッピングセンター・エブリア北側駐車場
 かしまふれ愛さくら祭り 駐車場に設けられた特設ステージでマジックや和太鼓などのイベントが盛り沢山。

     《実行委員会》 鹿島地区地域振興協議会
               鹿島地区区長会
               ネーブルシティかしま

   


 
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平城の門は現存している

2009-04-02 08:36:44 | Weblog
 いわき市鹿島町御代(みよ)の佐原邸と八代邸の正門には、平城で使われていたという門が据えられている。
 見るからに重厚で、歴史を思わせる貫禄のある門です。

 佐原邸の門構え(写真)は旧、鹿島街道の通りに面しているので誰もが簡単に見ることが可能ですが、八代邸は私道を入って行くようになるので、顔見知りでない人が許可なく進入することは不快に思われるかも知れません。

 佐原家は土地の名主で、明治初期頃までは養蚕業と質屋を併業しており、明治九年からは酒造業を営むようになりました。
 昭和30年代まで続いて、銘酒名「御代の鶴」や「みちのく」で販売されていたので記憶にある方も多い筈です。
 又、この家からは鹿島村(当時)の初代村長を務めた佐原久治郎や、明治32年9月に若干32歳で福島県議会議員に当選した佐原久道(※久治郎の長男)が出ています。

 平城は慶応4年(西暦1868)の戊辰戦争において、その殆んどが焼滅し、明治4年に廃藩置県の際に城跡の全てが民間に払い下げられたということなので、門はその頃に運び出されたものと思われます。
 淋しい限りですが、肝心の城址には石垣の一部だけが残っているというのが現状です。


 本日の催し  3/2 午後1;00~
            かしまスポーツ 吹矢  於・鹿島公民館



 


 


 

 
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ハンサムな御代の大仏

2009-04-01 07:32:41 | Weblog

  銅造阿弥陀如来坐像
  市指定有形文化財(昭和43年12月27日)
  所有者・光西寺
  所在地 いわき市鹿島町御代

 俗称「御代の大仏」とか、雨ざらしのことから「ぬれぶつさま」という呼称で親しまれているが、正式には「銅造阿弥陀如来像」という。
 像の高さが3,45メートルだが仏身だけだと2,86メートルで、大仏の坐る蓮華座の直径が2,93メートルである。

 東北では一番の大きさと、銅製の大仏としても珍しいとされている。

 当寺の和尚だった禅法は、宝暦2年(西暦1752)に江戸へ出て人々から浄財を集め、13年後の明和2年(西暦1765)、江戸神田の鋳物師、木村将監たちによって製作が始められ、2年後の明和4年(西暦1767)に完成した。

 しかし、禅法和尚は完成前に上州高崎で毒殺されたという説があるから、実際には着手から完成までの工程を見ていないことになる。
 
 像の完成後の運搬にも相当苦労したようで、江戸から小名浜までは海路で運ばれたが船は小名浜沖で難破し、浜へ打ち上げられた大仏を御代まで運んだというのである。
 安置された、その年が安永5年(西暦1776)と伝わっている。

 寄進者は僧や庶民2,371人にものぼり、地元は勿論、信州・越中など幅広い地域に亘っている。
 昭和48年9月に寺総代の人達によって修復された。

 鎌倉長谷寺の大仏を髣髴とさせる御代の大仏は、幾多の苦難を経て静寂な光西寺の境内に、石積みの基壇の上で優しく見守っていてくれる。
 鼻筋が通った面長で、なで肩のハンサムなお姿を拝顔していると、実に心が癒されます。

 
 

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