《駄菓子屋おまるさんの跡地》
写真は七本松から鹿島小学校へ向かう途中の道ですが、道路はまるで突き当たりで行き止まりかのように見えます。
ところが、道はこの先から山裾にへばり付くように、何度もS字形の曲線を描きながら、平方面に伸びている鹿島のメインストリート(旧鹿島街道)だったところの一部です。 ◇左側には一軒の家もなく狭い畑と田圃だけでした。
前方に空地が見えますが、道路側の一角が駄菓子屋「おまるさん」があった場所で、学校はその先200メートル位の所で現在も同じ場所にありますが、当時は木造校舎で校庭内には中学校もありました。
「おまるさん」とは店の老婆の名前で本名は「マル」といい、鹿島小学校創立110周年記念誌の旧職員名簿を調べると、明治41年に蔵持小学校(別の場所)で教師をした経歴がある人です。
店は子供たちの登下校時の溜まり場で、いつ行っても必ず何人かは居たものです。
寒村ですから社会情勢を一早くキャッチすることに疎く、会話でデパートとアパートを即座に判断できた子供は少なかったような時代背景の中で、華やかな都会に憧れ早く大人になりたいという願望だけが先行し、それでいて誰もが小学生の高学年になっても、まだ洟をたらしていた時代でした。
漫画でいえば、西岸良平の「三丁目の夕日」の昭和30年前後に該当する頃でしょうが、鹿島版?!の私たち小学生の目線からでは、せいぜいこの程度の生活環境の中で育っていました。
「おまるさん」にはメジロ獲り用の「トリモチ」や、べえゴマ、ペッタ(めんこ)、釣竿、山遊びに使える「肥後守」(ナイフ)、ゴムを巻いて飛ばすグライダーのキット等々、小遣いを手にしたら何かは欲しくなる品が、いつも手招きをしながら待っていました。
誰かが物を買うと羨望の眼差しで見つめていた子もいたが、買った子も他人にあげるほどの余裕はないから見せたり、貸してあげたりしたものです。
いま思うと、あそこ(おまるさん)は子供のデパートそのものでした。
写真は七本松から鹿島小学校へ向かう途中の道ですが、道路はまるで突き当たりで行き止まりかのように見えます。
ところが、道はこの先から山裾にへばり付くように、何度もS字形の曲線を描きながら、平方面に伸びている鹿島のメインストリート(旧鹿島街道)だったところの一部です。 ◇左側には一軒の家もなく狭い畑と田圃だけでした。
前方に空地が見えますが、道路側の一角が駄菓子屋「おまるさん」があった場所で、学校はその先200メートル位の所で現在も同じ場所にありますが、当時は木造校舎で校庭内には中学校もありました。
「おまるさん」とは店の老婆の名前で本名は「マル」といい、鹿島小学校創立110周年記念誌の旧職員名簿を調べると、明治41年に蔵持小学校(別の場所)で教師をした経歴がある人です。
店は子供たちの登下校時の溜まり場で、いつ行っても必ず何人かは居たものです。
寒村ですから社会情勢を一早くキャッチすることに疎く、会話でデパートとアパートを即座に判断できた子供は少なかったような時代背景の中で、華やかな都会に憧れ早く大人になりたいという願望だけが先行し、それでいて誰もが小学生の高学年になっても、まだ洟をたらしていた時代でした。
漫画でいえば、西岸良平の「三丁目の夕日」の昭和30年前後に該当する頃でしょうが、鹿島版?!の私たち小学生の目線からでは、せいぜいこの程度の生活環境の中で育っていました。
「おまるさん」にはメジロ獲り用の「トリモチ」や、べえゴマ、ペッタ(めんこ)、釣竿、山遊びに使える「肥後守」(ナイフ)、ゴムを巻いて飛ばすグライダーのキット等々、小遣いを手にしたら何かは欲しくなる品が、いつも手招きをしながら待っていました。
誰かが物を買うと羨望の眼差しで見つめていた子もいたが、買った子も他人にあげるほどの余裕はないから見せたり、貸してあげたりしたものです。
いま思うと、あそこ(おまるさん)は子供のデパートそのものでした。