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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

浅草に磐城屋なる旅館

2009-03-14 08:18:24 | Weblog
 常磐線の上野ー平(現・いわき)間が開通したのは明治30年(西暦1897)2月25日(実際には水戸ー平間の延長開業日のことを指す)だが、この日に合わせるようにして東京浅草に「磐城屋」という旅館ができている。
 主人が磐城出身の人なのか、これからは東北の人達の往来が頻繁になるという商才からなのかは今となっては確かめようもないが、ただ当時の汽車の時間帯や旅館の広告文には興味のあるところなので書き写してみる。
 ※文中の○印は判読困難なもの。一部、現代文に直してあるものあり。

        汽車時刻表(明治30年2月現在)
   
   ◆平より上野迄8時間15分掛ります。
   ◆平より東京迄、下等金1円33銭也。

             上 り                        下 り
午前 7時    平発  午後3時15分 上野着  午前 6時25分 上野発 午後 2時45分 平着
午前 8時55分 平発  午後5時15分 上野着  午前 8時25分 上野発 午後 5時15分 平着
正午12時    平発  午後8時15分 上野着  午前11時25分 上野発  午後7時35分 平着
午後 4時    平発  午後7時40分 水戸着  午後 1時25分 上野発  午後 6時20分水戸着
午前6時45分水戸下り 午前10時30分 平着  午後 4時20分 上野発  午後9時    水戸着

 
        旅店開業広告

◆上野より馬車にて3銭
 ○今般鉄道開通の結果として各位御上京の御便宜を相謀り位置撰定の上左記の場所に於いて従来の旅店(元・尾張屋)の家屋悉皆買請け来る5月5日より旅人宿開業仕侯に付き御出京の際は是非御投宿有之度伏て奉希侯
 一、諸事に改良を加え且つ心切丁寧を旨とす
 一、御客様の御経済向を相謀り精々勉強可仕侯
 一、御滞在中は自宅同様に思召決して御気遣等相掛申さぬ侯
 一、御商用中御滞在の御使及に御見物の御案内は何時たりとも御客様の仰に従います
 一、弊店は確実を旨とし身元不明なる怪しき物は一切御断申侯
 一、弊店不注意の段は御遠慮なくドシドシ御注告を乞う
 一、お風呂もトントンと沸いて居り升
 一、御宿泊料は上等金50銭中等金40銭下等金30銭但し特約の御方は此限りにあらず
     明治30年4月28日

 開業祝として向50日間
   ○ 景 進 呈 可 仕 侯

    東京浅草蔵前片町10番地元天王橋際
               支店 磐城屋 大谷久蔵謹白



 本日の催し 14日(土)  いわき市暮らしの伝承郷
          「民話の語り」 13:30~14:30
           語り手・いわき民話の会のみなさん 休憩コーナー/参加無料
 


   

 
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消えゆく言葉と行事②

2009-03-13 08:03:57 | Weblog
水口まつり 3月の下旬から4月の上旬にかけて苗代に種籾が蒔かれる。
        田の水口(みなくち)榊と幣束を刺し、あるいは神札を青竹に挟んで立て、山吹・つつじ
        ・さくらなどの花を飾って祈る。
        山吹は実を付けないといって嫌うところもあった。(御代地区)
        幣束は正月様にあげた供え物を敷いた紙で作った。
        これをベロノ神というところもある。

お釈迦様(卯月8日) 鹿島では、一軒から一人の女の人が出て団子と煮菓子を持参して、の
              近くの寺院に集まって「ナンマイダンボ」を33回唱えながら数珠を回し供養
              をした。

五月節句(5日) 菖蒲湯をたてて入ると風邪を引かないといわれた。旗(紙)のぼり、鯉のぼりを立
           てる。
           この日は田の仕事をしてはならない。(船戸地区)もし田に入れば夏雷雨を見ず、
           旱天不作になると云われた。
           重箱に赤飯(おこわ)を入れて、柏餅を持って嫁は里へ行く。(下蔵持)

ウツギの花が咲いてくると カッチキドキとなって区長からノノクチアキが触れられる。
                 共同で草を刈る期間のことを「野の口が明けた」といい、刈った草を、ま
                 た草を刈ることを、刈り敷き刈り(カッチキカリ、カッチキグサ)というので
                 ある。

天王様(6月15日) 平の近くでは一之矢天王、鹿島あたりでは津島の天王が有名であった。
             この日までは胡瓜を食べてはならなかった。

土用の丑の日 土用餅を搗いた。世俗的には「うなぎ」を食べるとされているが「ウ」の付くものであ
          れば何でも良いとされ「うどん」でも良かった。

八朔節供(8月1日) 「はっさくのついたち」と云って農家の大荒日とされる。
             5年に一度の間隔で青年を中心に獅子舞踊りを実施した。(下矢田地区)

カキモチと団子 秋祭りには「おのり」を必ず作らなければならない。
          水に冷やした米を臼で搗いたり、新米の粉を水で練ったりして作る。
          「おのり」を作るのは女の人の役目で、搗きこねたものは丸く平たく形を整えた。(
          下蔵持)  



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消えゆく言葉と行事

2009-03-12 07:36:28 | Weblog
山入り 1月6日に山の神を祀ることになっている。
     山の神の掛軸を、お正月様のところに祀る。

 鳥小屋 酉小屋とか、鳥追い小屋とも呼ばれるようだが毎年、旧正月の14日夜から15日の未明にかけての子供たち(男)は山から篠竹を刈ってきたり、各家々から木や炭(すみ)などを貰い集めて空地や田圃の中に小屋を建て、ボンデンに幣を付けて高い竿を立てる。
 小屋の中に神棚をしつらえて、正月様を祀り子供たちはその中で一晩を過ごす。
 爐を作ってここで夜、参詣に来た人達に田楽や焼餅などを馳走する。
     
 現在でも、平の上荒川や神谷、遠野町などの地域では伝統行事として残っているし、常磐湯本町上町商店会が実施主体で、いわき市石炭・化石館隣接の湯本川調節池公園にも作られた。
 この伝統的な行事は、残念ながら鹿島からは消滅した。

農立て 1月11日は田畑の鍬入れで、仕事始めの日になっている。

二十日正月 所謂、正月の終りの日である。
        あらためて神棚に榊と雑煮を供えたりする。この日は農具の整理日でもあった。
        約8メートルくらいの縄を作って梁の上に吊るしておいた。(鹿島地区全般)

十九夜様 毎月一度、19日に行うもので女性が各家に順番に集まり、掛け図を掛けて十九夜念仏を
       行った。「オナブキヤべーロシアナカモタラ、マニハンダラ、ジンバラ、ハラハリタヤウン」と
       二度ないし三度唱える。
       殊に出産間近い人のいる場合には、たのみ十九夜を行った。(鹿島地区全般)

ユイ  「結い」のことで労働力の需給関係を、ある季節だけに限り効率よく消化する方法としての「ユ
     イ」が存在していた。
     ユイは「結合共同」を表す言葉で、労力交換のことでもあるから「結合」「結束」という意味の「
     結」からきている。
     因みに、鹿島町飯田地区の「飯田」の語源は「結田(ゆいだ)」からきているとされる。

コジハン 農作業の合間に「コジハン」といって、おにぎりや、お茶菓子類を食べながら小休止したもの
      だが、これについての語源は、小昼飯(こちゅうはん)のようだ。

三日ぼたもち 子供の誕生を周囲の人々に知らせ、これを承認してもらう最初の機会は生後三日目で
         あった。里ではボタモチ(おはぎ)を作って持ってくる。
         このボタモチを「三日ボタモチ」と云っているところが多いが、鹿島地区では「ミツメモチ」
         と云った。

 
     
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過去のブログ 一覧表

2009-03-11 08:41:33 | Weblog
2008-12-14 私のブログが愈々スタート        2009- 2- 6 小説 カケス婆っぱ⑳
       15 鹿島の由来                       7 小説 カケス婆っぱ 21
       16 史跡七本松                       8 小説 カケス婆っぱ 22 
       17 磐城三十三所観音霊場               9 小説 カケス婆っぱ 最終回
      18 鹿島史年表①                     10 小説 カケス婆っぱ 終了
      19 鹿島史年表②                     11 史跡「七本松」の碑
      20 鹿島史年表③                     12 鹿島の動物、植物に関した地名
      21 鹿島史年表④                     13 青年団のルーツは年齢集団
      22 鹿島史年表⑤                     14 唄で覚えた地名
      23 鹿島史年表⑥                     15 鹿島の担い手、鹿地振協
      24 お里の橋、里也橋(昔話)              16 親切が仇になる
      25 追い剥ぎが出た「くうじ山」              17 晴れた日の雨傘
      26 小井戸の水は、飲み別れの水           18 折角、購入した本なのに
      27 四家姓について(三沢地区)            19 鹿島の、いろは
      28 鹿島の方言①                    20 鹿島村の歴代村長名
      29 鹿島の方言②                    21 人の命と判決
      30 鹿島の方言③                    22 クサッポ?の湯治場
      31 鹿島の方言④
2009- 1- 1 輝かしい年を迎えて                 23 鹿島の人物 八代義定
       2 鹿島の正月を振り返る               24 鹿島の人物 佐田雪心
       3 正月三が日                      25 鹿島の人物 吉田正義
       4 鹿島の方言⑤                    26 鹿島の人物 荒川華関(忠治)
       5 鹿島の方言⑥                     27 鹿島の人物 草野庫太
       6 鹿島の方言⑦                    28 鹿島の人物 箱崎源五郎
       7 旧鹿島村の手毬(てまり)唄           3-1 鹿島の人物 志賀直哉
       8 鹿島の方言⑧                      2 鹿島の人物 鈴木聡次郎
       9 一時は消滅した鹿島の名              3 鹿島の人物 渡邊与三郎
      10 鹿島の大火(昭和4年)               4 鹿島の人物 鈴木大蔵
      11 往古、鹿島は海だった                5 鹿島の人物 高萩祐七
      12 御代坂に洞門があった                6 鹿島の人物 鈴木一男
      13 お別れは誰もが悲しいが               7 鹿島の人物 志賀久吉
      14 鹿島にも温泉宿があった               8 鹿島の人物 佐原久道
      15 鹿島地域の牽引車は?               9 鹿島の人物 永井平右衛門
      16 鹿島地域の地名の由来①             10 吉野せい、と鹿島の縁
      17 鹿島地域の地名の由来②
      18 小説 カケス婆っぱ①
      19 小説 カケス婆っぱ②
      20 小説 カケス婆っぱ③
      21 小説 カケス婆っぱ④
      22 小説 カケス婆っぱ⑤
      23 小説 カケス婆っぱ⑥
      24 小説 カケス婆っぱ⑦
      25 小説 カケス婆っぱ⑧
      26 小説 カケス婆っぱ⑨
      27 小説 カケス婆っぱ⑩
      28 小説 カケス婆っぱ⑪
      29 小説 カケス婆っぱ⑫
      30 小説 カケス婆っぱ⑬
      31 小説 カケス婆っぱ⑭
     2- 1 小説 カケス婆っぱ⑮
       2 小説 カケス婆っぱ⑯
      3 小説 カケス婆っぱ⑰
       4 小説 カケス婆っぱ⑱
       5 小説 カケス婆っぱ⑲
        

 
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吉野せい、と鹿島の縁

2009-03-10 07:41:53 | Weblog
 八代義定(1889~1956)は、考古学の権威であり、また旧鹿島村の村長を努めた事もあるということは「鹿島の人物」の項で前述した通りだが、生前の義定は人脈も広く、小説「洟をたらした神」で昭和50年(1975年)に第6回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回田村俊子賞を受賞した、吉野せい(1899~1977)とは早い内から関わりがあった。

 義定は自ら「残丘舎」と呼んでいた書斎を開放していたが、多数の人々が通う中の一人に吉野せいがいた。
 20歳になって間もない、せいは毎週日曜日になると小名浜から御代坂を越えて残丘舎へ通い、むさぼるようにして片っ端から本を読んだ。
 この頃から、文学の思想的方向を固めていったと云われている。
 
 同じく残丘舎へ好間から足を運ぶ、農民詩人の三野混沌がいた。
 義定は利発なせいに混沌を紹介し、二人は交際するようになり文学論を交し合う仲へと発展していく。

 その後、義定は仲人を引き受けて、三野混沌が26歳、吉野せい22歳の時に結婚をし、やがて二人は好間の菊竹山へ入り荒地を開墾するようになる。

 因みに二人が出会うようになった書斎の「残丘舎」なる命名については義定いわく、書斎の窓から遠く湯ノ岳の南端が眺望できるからということだった。

鹿島街道を、御代坂から小名浜方面に向かって進んでいくと左側沿いに、かつての狭い旧道が人家の間に見え隠れするが、若かりし頃の若松(旧姓)せいが、本を読みたい一心であの道を通って八代義定の残丘舎へ行ったのかと思うと、当時に想いを馳せることがある。


   本日の催し 
  ギャラリー創芸工房  3/7~3/15
  染織家 八巻秀夫さん(宮城県丸森町)の「藍(あい)染展」 入場無料
                      開場時間 10:30~18:30          
             


 
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鹿島の人物永井平右衛門

2009-03-09 07:18:44 | Weblog
永井平右衛門(最後の名主)
           文政10年(1827)4月3日~明治40年(1907)2月2日 享年81歳                                                               
 
 平右衛門は現在の鹿島町飯田字前2番地に居を構えていた。
 幼名を平四郎といったが、幼時の頃から体格がよく長じては1m80cm以上は勇にある身長を保ち、威風堂々たる風貌であった。

 藩政時代は名主(なぬし)を命じられ、名字帯刀を許されて甲冑(かっちゅう)を所持し、乗馬姿で受持ち村である走熊村(28戸)米田村(14戸)三澤村(12戸)飯田村(8戸)を廻って民政をつかさどった。

 明治維新後の行政改革により、明治5年には名主制が廃止となって戸長制が布かれ、そのために戸長となったが、明治7年9月には第一大区小五区戸長という役人名であった。

 その後、戸長役場が飯田、御代、船戸、米田、三沢、林城を管理したが、そのとき役場の所在地になったのは飯田で、庁舎は平右衛門宅板倉の建物が利用されたのである。

 名主として最後を努めた平右衛門の人望は、後々まで語り草となった。


 本日の催し
 鹿島歴史の会講演会 10:00~  於・鹿島公民館


 

 
 
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鹿島の人物 佐原久道

2009-03-08 07:15:13 | Weblog
佐原久道(耕地整理に業績を残す)
        慶応4年(1868)3月 ?日~昭和5年(1930)5月29日 享年64歳 

 磐城國磐前郡鹿島村大字御代字赤坂9番地(現・鹿島町御代)、佐原宗家の久治郎長男として生まれ、幼名を米次郎といった。

 当時の佐原家は繭の仲買をし、伊達地方より糸繰り女(女工)を雇って蚕糸業をし、質屋も併業していた。
 酒造業は明治9年(1876)の創業で、当主久治郎は鹿島村の初代村長になった。
 
 久道は長じて、平の「室塾」室桜関に学び、明治32年3月、若干31歳で福島県議会議員選挙に出馬。初戦は惜敗したが同年知事不信任案の提議が因で山田春三知事による県会解散があり、その年9月の選挙に久道は再出馬し堂々の当選を果たした。

 一期4年間の在職中に於ける業績は県内の土木工事に多いが、地元関係では鹿島地内の県道拡幅工事や御代坂の随道開さく工事などで、このことは当時の鹿島村の産業経済と日々の暮らしの向上に緊要な事柄であった。

 久道の政治力は、その後耕地整理に向けられ、自ら耕地整理組合長となり日露戦争後の不況と凶作にあえぐ農民救済の工事として御代、船戸耕土の耕地整理事業を明治39年から県費負担などで起工させる原動力となり、この工事に出役することで得られる労賃で鹿島村民の日々の暮らしを助けた。

 
  本日の催し 3/8(日)
 いわき市暮らしの伝承郷  10:00~15:00
  「ミニミニ野良着作り」 既に申込み受付は2月16日から行われていますので参加希望の方は電話で確認が必要です。 ℡29-2230
 
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鹿島の人物 志賀久吉

2009-03-07 07:41:43 | Weblog
志賀久吉(庄屋の跡目を果たした)
        弘化4年(1847)9月14日~大正7年(1918)9月 ?日 享年73歳

 久吉は旧、湯長谷藩下蔵持邨(むら)に生まれる。現・いわき市鹿島町下蔵持
 生家は祖先、志賀福右衛門以来、代々名字帯刀を許されて上蔵持、下蔵持、久保、江名、豊間各村の庄屋兼帯割頭の役職を世襲していた。

 久吉が最初に公職に就いたのは明治10年の上下蔵持村什長で、当時30歳だった。翌11年には早くも福島県第二十区区会議員に推され、13年3月には上下蔵持、久保、走熊四ケ村の戸長を拝命した。
 以後、区の学務委員、衛生委員を重ね、明治15年6月には菊田・磐前(いわさき)・磐城三郡選出の県下連合会議員に選出されるという立身の早さであった。

 議員就任と同時に平-中ノ作港間の県道改修に力を振るい、以後任期を重ねて17年11月には小名浜村、他14ケ村の村会議員に選出され、同22年の鹿島村誕生と共に村会議員、続いて助役、収入役にも就任した。

 明治29年、まだ49歳の若さで公職を退き家督を嫡男に譲ったが、公職中に官より賞を受けること10数回という東奔西走の政治活動に徹した。

 引退後は悠々自適を楽しんだ。
 祖から引き継いだ政治宿命を、見事に果たしたことで明治時代を意欲的に生き抜いた傑物の一人として記録に留められている。


 
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鹿島の人物 鈴木一男

2009-03-06 07:34:36 | Weblog
                            《鈴木邸》

鈴木一男(公職一途の生涯)
     明治26年(1893)9月29日~昭和47年(1972)6月24日 享年80歳

 現在の常磐上矢田町草ケ谷1番地、鈴木秀松の長男として生まれたが、父秀松は一男が3歳の時に早世した。 このため後の政客、鈴木聡次郎を鈴木家の後見人に迎え、そのもとに育ち学問と徳義の薫陶を受けたことで大正9年、27歳の時に第一回国勢調査員に選任され一男の才幹を発揮する第一歩を踏んだ。

 その後の要職は死去するまでに32を数え、その中から幾つかを挙げてみると33歳で鹿島村収入役、36歳の時に走熊郵便取扱所長(のち局長で継続11年間)39歳で鹿島村村会議員となり以後10年間村議を続け、昭和17年鹿島村長に推薦され、その時は49歳だった。

 その他、諸々の役職名を列記するのは省略するが、それだけ「鹿島」に対する思い入れが深かったことになる。
 昭和20年12月には鹿島農業会長に就任し、その後の農地解放に当たっては法で定める在村地主の保有限度を進んで割り、小作者の自立を高めるため、積極的に自らの持分まで解放した。

 常磐市(現・いわき市常磐)に合併後も、昭和38年まで連続して公職に身を置き、また崇神の念ことさら厚く、鹿島神社総代を19年間も勤めた。
 こうして一男の公職活動は実に52年にも亘り、その実績は鹿島の中で他に例をみない公職一途なものとして記録に留められている。

 天命を全うした同日付けを以って、勲六等単光旭日章に叙せられ生前の功労を讃えられた。
 


 
 
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鹿島の人物 高萩祐七

2009-03-05 07:28:13 | Weblog
高萩祐七(土地測量の実行者)
        嘉永6年(1853) ? ~昭和9年(1934)9月20日 享年82歳

 祐七は現在の鹿島町米田の前名主、大滝忠左衛門の嫡男、忠吉の二男に生まれる。
 明治元年(1868)16歳にして当時の名主であった高萩祐右衛門の養子となり、高萩家を継ぎ明治12年(1879)役場吏員として勤務した。

 その頃、政令により土地の測量が行われ、米田地区は高萩祐七、草野万次郎の両氏が選任され、日月を費やして字限図を完成した。
 また、土地台帳も作成されて各自の土地所有反別及び境界が明確になった。
 その字限図を基礎に御代の荒川源重が複写したものが、現在市役所と字に保管されている。
 
 昭和34年(1959)頃から全国一斉に実施されている国土調査はすべてこの字限図と土地台帳を基礎としたもので、その功績は大きい。功績と人柄が見込まれて三代目鹿島村長に任命され、退職後は郡会議員に当選している。

 生前中はよく「人が世に立つためには内助の功が大切だ」と、夫婦和合を訓戒した人でもあった。

                          現・世帯主 高萩浩美氏
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鹿島の人物 鈴木大蔵

2009-03-04 07:42:29 | Weblog
鈴木大蔵(政治戦略に富んだ人)
            慶応3年11月14日~昭和25年3月 ?日  享年84歳

 磐城国磐前郡(いわきのくにいわさきこおり)久保村(現・鹿島町久保)に生まれた。

 まさに日本の激動の真っ只中で、大蔵が生まれた翌日の15日には勤皇の志士、坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が暗殺されている。
 また、前年12月25日には孝明天皇(36)が没し、慶応4年は9月をもって閉じ、9月8日から明治と改元し一世一元を制定した。

 こういう世相の中で育った大蔵は、明治11年3月、久保村外、六ケ村組合小学校を卒業し直ちに同校の教師に採用されたが、2年余りで辞職し平窪村(平)の培根塾で漢学を修業。

 農事にも懸命に取り組み明治26年11月、26歳の時に菊田・磐前・磐城の三郡米作品評会において1等賞を受賞し、日ごろの研究振りを発揮した。

 明治27年に鹿島村区長に当選した大蔵は、その後再選を重ねて34年6月に村会議員に当選し、助役や収入役の職にも就き明治40年には石城郡会議員にも当選し、二期目は副議長。そして大正8年11月には鹿島村長にに選任された。

 村長になった大蔵は、それまで体得した数々の役職での経験を生かし、思考は常に何年か先を見通して定め、大胆にも且つ慎重に村政を進めた。その政治手腕に戦略的柔軟両様を見せたのも大蔵が時の村長として、鹿島村が他町村に遅れをとらぬための腐心であった。

 公職を去った後も、地域社会の世話活動や地元寺社の建立に努め生涯、大蔵と社会活動は縁が切れなかった。




 

 
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鹿島の人物 渡邊与三郎

2009-03-03 07:34:21 | Weblog
渡邊与三郎(信頼の収入役として就任最長者)
            弘化2年(1845) ? ~大正8年(1919)4月 ?  享年75歳

 旧、鹿島村走熊字柳作12番地で出生。

 性格は思いやりのある反面、厳格にして公平、常に公共のために意を注ぎ鹿島村政、及び走熊に尽力した人である。
 
 与三郎の活躍した年代は、およそ30~60歳(明治8年~38年)であるが、その間においては区長、消防世話係、什長、用掛、神社総代人、各会計係、各議長等あらゆる役に就任し、己を捨てて発展のために力を注いできた。
                          
特に明治初・中期には、稲作をはじめ農産物の増収を図るため農耕馬を殖やすとともに、その飼料・肥料を確保するため共有林を伐採して萱刈場(かやかりば)を作り、民にこれを解放し、また、農道の整備を行ったという。

 明治33年9月~同37年4月の間、鹿島村の収入役として村政に携わり、歴代の収入役としては最長の就任期間であった。
 現在、鹿島の各に保存されている多くの古文書には、与三郎の名が記されているものが数多くある。
                          現世帯主 渡邊与志一氏


 行事 3月3日 桃の節句(雛祭り)
 ☆桃の節句(節供)は、もとは上巳(じょうし)の節供といい、3月の初めの巳の日(上巳)に行われていた。
 後に、奇数を陽とする陰陽道の影響で、同じ奇数が重なる日がめでたいとされ、江戸幕府が3月3日を上巳の節供と定めた。
             
 
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鹿島の人物 鈴木聡次郎

2009-03-02 07:29:11 | Weblog
鈴木聡次郎(敬神の政客)
   明治6年(1873)7月31日~昭和36年(1961)12月12日  享年89歳
 
 旧、好間村今新田の旧家の二男に生まれ、父吉田軍蔵は篤農家としてまた学者として郡下に、その名の高かった人である。
 聡次郎は明治28年11月、22歳の時に上矢田草飼の鈴木家へ養子として入り持って生まれた資質を伸ばし、大正8年に至って上矢田道上作2番地へ新宅を構えた。
 しかして、聡次郎長じて後の政治遍歴は、まことに煌びやかな足跡をとどめたのである。

   主な要職は次の通り
 ●郡会議員二期。
 ●北海道東北六県郡制視察員嘱託郡農会議員四期。
 ●関西地方農事視察員嘱託学務委員五期。
 ●村会議員五期(在任中郡長表彰)。
 ●村長一期。

 これらの活動により自治功労賞を受けたが、そのほか式内鹿島神社氏子総代を50年間つとめ、國學院大學講師、大塚義一より数回の神職講習を受けるという敬神の念深く、また老いては真楽と号して小謡や和歌に親しみ、詠歌三千余首は格調の高い作品揃いである。

 聡次郎の徳を讃える地元民によって、昭和28年11月28日鹿島神社境内に頌徳碑を建立した。  

 余談になりますが現在の世帯主、鈴木孝芳氏は小生が中学時代の恩師で、先生は早い内に教師の道を退き、ランの栽培と販売に着手し鹿島街道沿いで「常磐ラン園」を営んでおられます。
 当時(昭和30年代)からのラン栽培に於いては、いわきではパイオニア的な存在です。


 本日の催し 3/2(月)
鹿島ショッピングセンター・エブリア2階
ギャラリーエブリア「時代着物・古布展示」
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鹿島の人物 志賀直哉

2009-03-01 07:13:23 | Weblog
志賀直哉(一円融合の提唱者)
           明治20年(1887)6月12日~昭和31年(1956)2月7日  享年71歳
 
 鹿島町下蔵持字嘉睦家(かもか)15番地、志賀林弥の長男として出生。
 鹿島を語るときに、この人を欠くことはできないと云っても良いほど昭和の前半期に於いて偉大な指導者で、後人に遺した教訓は計り知れない。
 昭和4年に村議会議員となり、昭和5年助役となる。
 村長、鈴木大蔵を補佐しその手腕力量を高く評価され、鈴木大蔵辞任後村議会の推挙を受け村長となり二期8年間村政に傾注した。

 その間、一円融合を提唱し、矢田分校を本校へ統合して鹿島村立尋常高等小学校を建設した。 註(現在の、いわき市立鹿島小学校の校地)
 また、県から農業経済指定村の指定を受け、農村振興に意を用いる傍ら灌漑用貯水池・堰の改修等に努力。更に毎月の1日を道路愛護デーと決め、各ごとこれを実施して道路の整備をした。

 一方、百駄刈りを推奨して堆肥作りや家畜の導入を推し進め、食糧の増産と農家収入の増収を図った。常に人づくりに意を配り、村長辞任後は太平洋戦争下の石城郡翼賛青壮年団長として、郡の指導的責任を担ったが敗戦となり占領軍司令官マッカーサー指令により、公職追放となる。
 
 下蔵持の如来山正福院は、昭和4年鹿島の大火で焼失し、昭和5年再建にかかり翌6年完成したが昭和11年6月、豪雨による裏山の土砂崩れにて寺院崩壊。
 これの再建に再び東奔西走し、昭和30年9月、ようやく洋風の寺院を建設。同年10月、二宮尊徳翁百年祭慰霊塔を建立した。


  本日の催し 3/1(日)
鹿島ショッピングセンター・エブリア2階 ギャラリーエブリア
時代着物・古布展示

ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊) 0246-29-3826
「ちっちゃな幸せー私のお気に入りーⅣ」 ☆入場無料
市内をはじめ茨城、石川、広島などの作家58人と2団体が合わせて約600点を出品しています。
陶や金属、ガラスなどを素材に制作した、ぐい呑み、豆皿、動物オブジェなどジャンルを超えた作品が並んでいます。

いわき市暮らしの伝承郷  13:30~14:30
「企画展展示解説」



 
 
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