八代義定(1889~1956)は、考古学の権威であり、また旧鹿島村の村長を努めた事もあるということは「鹿島の人物」の項で前述した通りだが、生前の義定は人脈も広く、小説「洟をたらした神」で昭和50年(1975年)に第6回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回田村俊子賞を受賞した、吉野せい(1899~1977)とは早い内から関わりがあった。
義定は自ら「残丘舎」と呼んでいた書斎を開放していたが、多数の人々が通う中の一人に吉野せいがいた。
20歳になって間もない、せいは毎週日曜日になると小名浜から御代坂を越えて残丘舎へ通い、むさぼるようにして片っ端から本を読んだ。
この頃から、文学の思想的方向を固めていったと云われている。
同じく残丘舎へ好間から足を運ぶ、農民詩人の三野混沌がいた。
義定は利発なせいに混沌を紹介し、二人は交際するようになり文学論を交し合う仲へと発展していく。
その後、義定は仲人を引き受けて、三野混沌が26歳、吉野せい22歳の時に結婚をし、やがて二人は好間の菊竹山へ入り荒地を開墾するようになる。
因みに二人が出会うようになった書斎の「残丘舎」なる命名については義定いわく、書斎の窓から遠く湯ノ岳の南端が眺望できるからということだった。
鹿島街道を、御代坂から小名浜方面に向かって進んでいくと左側沿いに、かつての狭い旧道が人家の間に見え隠れするが、若かりし頃の若松(旧姓)せいが、本を読みたい一心であの道を通って八代義定の残丘舎へ行ったのかと思うと、当時に想いを馳せることがある。
本日の催し
ギャラリー創芸工房 3/7~3/15
染織家 八巻秀夫さん(宮城県丸森町)の「藍(あい)染展」 入場無料
開場時間 10:30~18:30
義定は自ら「残丘舎」と呼んでいた書斎を開放していたが、多数の人々が通う中の一人に吉野せいがいた。
20歳になって間もない、せいは毎週日曜日になると小名浜から御代坂を越えて残丘舎へ通い、むさぼるようにして片っ端から本を読んだ。
この頃から、文学の思想的方向を固めていったと云われている。
同じく残丘舎へ好間から足を運ぶ、農民詩人の三野混沌がいた。
義定は利発なせいに混沌を紹介し、二人は交際するようになり文学論を交し合う仲へと発展していく。
その後、義定は仲人を引き受けて、三野混沌が26歳、吉野せい22歳の時に結婚をし、やがて二人は好間の菊竹山へ入り荒地を開墾するようになる。
因みに二人が出会うようになった書斎の「残丘舎」なる命名については義定いわく、書斎の窓から遠く湯ノ岳の南端が眺望できるからということだった。
鹿島街道を、御代坂から小名浜方面に向かって進んでいくと左側沿いに、かつての狭い旧道が人家の間に見え隠れするが、若かりし頃の若松(旧姓)せいが、本を読みたい一心であの道を通って八代義定の残丘舎へ行ったのかと思うと、当時に想いを馳せることがある。
本日の催し
ギャラリー創芸工房 3/7~3/15
染織家 八巻秀夫さん(宮城県丸森町)の「藍(あい)染展」 入場無料
開場時間 10:30~18:30