渡邊与三郎(信頼の収入役として就任最長者)
弘化2年(1845) ? ~大正8年(1919)4月 ? 享年75歳
旧、鹿島村走熊字柳作12番地で出生。
性格は思いやりのある反面、厳格にして公平、常に公共のために意を注ぎ鹿島村政、及び走熊に尽力した人である。
与三郎の活躍した年代は、およそ30~60歳(明治8年~38年)であるが、その間においては区長、消防世話係、什長、用掛、神社総代人、各会計係、各議長等あらゆる役に就任し、己を捨てて発展のために力を注いできた。
特に明治初・中期には、稲作をはじめ農産物の増収を図るため農耕馬を殖やすとともに、その飼料・肥料を確保するため共有林を伐採して萱刈場(かやかりば)を作り、民にこれを解放し、また、農道の整備を行ったという。
明治33年9月~同37年4月の間、鹿島村の収入役として村政に携わり、歴代の収入役としては最長の就任期間であった。
現在、鹿島の各に保存されている多くの古文書には、与三郎の名が記されているものが数多くある。
現世帯主 渡邊与志一氏
行事 3月3日 桃の節句(雛祭り)
☆桃の節句(節供)は、もとは上巳(じょうし)の節供といい、3月の初めの巳の日(上巳)に行われていた。
後に、奇数を陽とする陰陽道の影響で、同じ奇数が重なる日がめでたいとされ、江戸幕府が3月3日を上巳の節供と定めた。
弘化2年(1845) ? ~大正8年(1919)4月 ? 享年75歳
旧、鹿島村走熊字柳作12番地で出生。
性格は思いやりのある反面、厳格にして公平、常に公共のために意を注ぎ鹿島村政、及び走熊に尽力した人である。
与三郎の活躍した年代は、およそ30~60歳(明治8年~38年)であるが、その間においては区長、消防世話係、什長、用掛、神社総代人、各会計係、各議長等あらゆる役に就任し、己を捨てて発展のために力を注いできた。
特に明治初・中期には、稲作をはじめ農産物の増収を図るため農耕馬を殖やすとともに、その飼料・肥料を確保するため共有林を伐採して萱刈場(かやかりば)を作り、民にこれを解放し、また、農道の整備を行ったという。
明治33年9月~同37年4月の間、鹿島村の収入役として村政に携わり、歴代の収入役としては最長の就任期間であった。
現在、鹿島の各に保存されている多くの古文書には、与三郎の名が記されているものが数多くある。
現世帯主 渡邊与志一氏
行事 3月3日 桃の節句(雛祭り)
☆桃の節句(節供)は、もとは上巳(じょうし)の節供といい、3月の初めの巳の日(上巳)に行われていた。
後に、奇数を陽とする陰陽道の影響で、同じ奇数が重なる日がめでたいとされ、江戸幕府が3月3日を上巳の節供と定めた。
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