志賀久吉(庄屋の跡目を果たした)
弘化4年(1847)9月14日~大正7年(1918)9月 ?日 享年73歳
久吉は旧、湯長谷藩下蔵持邨(むら)に生まれる。現・いわき市鹿島町下蔵持
生家は祖先、志賀福右衛門以来、代々名字帯刀を許されて上蔵持、下蔵持、久保、江名、豊間各村の庄屋兼帯割頭の役職を世襲していた。
久吉が最初に公職に就いたのは明治10年の上下蔵持村什長で、当時30歳だった。翌11年には早くも福島県第二十区区会議員に推され、13年3月には上下蔵持、久保、走熊四ケ村の戸長を拝命した。
以後、区の学務委員、衛生委員を重ね、明治15年6月には菊田・磐前(いわさき)・磐城三郡選出の県下連合会議員に選出されるという立身の早さであった。
議員就任と同時に平-中ノ作港間の県道改修に力を振るい、以後任期を重ねて17年11月には小名浜村、他14ケ村の村会議員に選出され、同22年の鹿島村誕生と共に村会議員、続いて助役、収入役にも就任した。
明治29年、まだ49歳の若さで公職を退き家督を嫡男に譲ったが、公職中に官より賞を受けること10数回という東奔西走の政治活動に徹した。
引退後は悠々自適を楽しんだ。
祖から引き継いだ政治宿命を、見事に果たしたことで明治時代を意欲的に生き抜いた傑物の一人として記録に留められている。
弘化4年(1847)9月14日~大正7年(1918)9月 ?日 享年73歳
久吉は旧、湯長谷藩下蔵持邨(むら)に生まれる。現・いわき市鹿島町下蔵持
生家は祖先、志賀福右衛門以来、代々名字帯刀を許されて上蔵持、下蔵持、久保、江名、豊間各村の庄屋兼帯割頭の役職を世襲していた。
久吉が最初に公職に就いたのは明治10年の上下蔵持村什長で、当時30歳だった。翌11年には早くも福島県第二十区区会議員に推され、13年3月には上下蔵持、久保、走熊四ケ村の戸長を拝命した。
以後、区の学務委員、衛生委員を重ね、明治15年6月には菊田・磐前(いわさき)・磐城三郡選出の県下連合会議員に選出されるという立身の早さであった。
議員就任と同時に平-中ノ作港間の県道改修に力を振るい、以後任期を重ねて17年11月には小名浜村、他14ケ村の村会議員に選出され、同22年の鹿島村誕生と共に村会議員、続いて助役、収入役にも就任した。
明治29年、まだ49歳の若さで公職を退き家督を嫡男に譲ったが、公職中に官より賞を受けること10数回という東奔西走の政治活動に徹した。
引退後は悠々自適を楽しんだ。
祖から引き継いだ政治宿命を、見事に果たしたことで明治時代を意欲的に生き抜いた傑物の一人として記録に留められている。
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