高萩祐七(土地測量の実行者)
嘉永6年(1853) ? ~昭和9年(1934)9月20日 享年82歳
祐七は現在の鹿島町米田の前名主、大滝忠左衛門の嫡男、忠吉の二男に生まれる。
明治元年(1868)16歳にして当時の名主であった高萩祐右衛門の養子となり、高萩家を継ぎ明治12年(1879)役場吏員として勤務した。
その頃、政令により土地の測量が行われ、米田地区は高萩祐七、草野万次郎の両氏が選任され、日月を費やして字限図を完成した。
また、土地台帳も作成されて各自の土地所有反別及び境界が明確になった。
その字限図を基礎に御代の荒川源重が複写したものが、現在市役所と字に保管されている。
昭和34年(1959)頃から全国一斉に実施されている国土調査はすべてこの字限図と土地台帳を基礎としたもので、その功績は大きい。功績と人柄が見込まれて三代目鹿島村長に任命され、退職後は郡会議員に当選している。
生前中はよく「人が世に立つためには内助の功が大切だ」と、夫婦和合を訓戒した人でもあった。
現・世帯主 高萩浩美氏
嘉永6年(1853) ? ~昭和9年(1934)9月20日 享年82歳
祐七は現在の鹿島町米田の前名主、大滝忠左衛門の嫡男、忠吉の二男に生まれる。
明治元年(1868)16歳にして当時の名主であった高萩祐右衛門の養子となり、高萩家を継ぎ明治12年(1879)役場吏員として勤務した。
その頃、政令により土地の測量が行われ、米田地区は高萩祐七、草野万次郎の両氏が選任され、日月を費やして字限図を完成した。
また、土地台帳も作成されて各自の土地所有反別及び境界が明確になった。
その字限図を基礎に御代の荒川源重が複写したものが、現在市役所と字に保管されている。
昭和34年(1959)頃から全国一斉に実施されている国土調査はすべてこの字限図と土地台帳を基礎としたもので、その功績は大きい。功績と人柄が見込まれて三代目鹿島村長に任命され、退職後は郡会議員に当選している。
生前中はよく「人が世に立つためには内助の功が大切だ」と、夫婦和合を訓戒した人でもあった。
現・世帯主 高萩浩美氏
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