近代日本における「侵略イデオロギー」
明治以前
16世紀末には豊臣秀吉は朝鮮半島に軍隊を送り、朝鮮を侵略したが、民衆の抵抗と水軍の反撃によって失敗した。
江戸時代(18世紀末)では、林子平は『西域物語』で、「ロシアの脅威に対抗するために、朝鮮の領有」を主張し、幕末には佐藤信淵、橋本左内、吉田松陰などがアジア侵略論を唱えていた。
西郷らの征韓論
本格的な征韓論としては、明治維新の5年後の1873年、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが国内の権力関係を調整し、国内危機を解決するために朝鮮半島の領有を主張した。大久保利通、木戸孝允らは内治優先を主張して征韓論に反対した。
1875年雲揚号が江華島を砲撃し、砲台を占領し、30門あまりの大砲を持ち去った。翌年、江華島条約を結ばせ、釜山、仁川、元山の開港と治外法権、関税免除などを認めさせ、朝鮮侵略の一歩を踏み出した。
自由民権運動の敗北
1880年代の自由民権運動は、「朝鮮・中国を侵略の対象ではなく、明治政府の専制権力の打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放」(杉田鶉山)を主張していたが、その後「日本の近代化のためには中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化」(杉田鶉山)を主張するようになった。大井憲太郎も「韓国独立党への支援」を主張していたが、「西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸を領有することが日本の進むべき道だ」という主張に変わった。
日清戦争への過程
1894年の日清戦争を迎えるころには、内村鑑三は「新文明が旧文明を乗り越える行為」、福沢諭吉は「脱亜論」「日清戦争は文明の義戦」などと日清戦争を支持し、戦後には、もともと「平民主義」を唱えていた徳富蘇峰でさえも「中国の衝突に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない」と『大日本膨張論』(1894年)を展開した。
陸羯南は「アジアの平和は日本を主軸に据えた形でしか成立しない」と主張し、中国への侵略を正当化した。高山樗牛は『日本主義論』の中で、「西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家(注:侵略国家のこと)」の建設を主張した。
このように、自由民権運動の敗北の過程で、明治時代を代表する知識人の多くは侵略思想(大東亜共栄圏思想)に転向し、日清戦争を欧米諸列強から日本を防衛する戦争として、積極的に支持し、雪崩を打つように日露戦争、韓国併合へと突き進んだのである。
日露戦争後
1905年の日露戦争後になると、西園寺公望は施政方針演説で、「満州経営、韓国の保護は共に帝国のために努力せざるべからざる所」(1906年)とし、大山巌は「明治39年度以降における帝国陸軍の作戦計画は攻勢をとるを本領」(1906年)と、大陸侵略をめざした。田中義一は『随感雑録』で、「国利国権の伸張は先づ清国に向かって企画」「中国を侵略するのは帝国の天賦の権利」(1906年)と書き、対中国外交に慎重であった山県有朋も、『帝国国防方針案』では、「わが国利国権の伸張は清国に向かって企画せらるるを有利とす」(1907年)と書いている。
本格的な大東亜論
後藤新平は1916年に『日本膨張論』を書き、それから20年後の1937年には、三木清の『東亜共同体論』、宮崎正義の『東亜聯盟論』、石原完爾の『東亜連盟論』、そして近衛文麿による『東亜新秩序建設声明』(1938年)へと続いていった。
まさに、大東亜共栄圏は自由民権運動、大正デモクラシーなどの人民の闘いの廃墟の上に構築され、巨大な共同幻想体として日本人を侵略戦争に動員し、数千万のアジア人民を殺戮して、敗戦を迎えたのである。
侵略戦争の日本近代史
NHKで放映中の「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)は日清・日露戦争の過程を、アジア(朝鮮・中国)侵略の歴史としてではなく、欧米に対する「防衛戦争」として描き、日清・日露戦争から太平洋戦争への全歴史過程を美化しようと試みている。
参考文献:『侵略戦争-歴史的事実と歴史認識』纐纈厚著
『近現代史の中の日本と朝鮮』山田昭次、高崎宗司、他著
明治以前
16世紀末には豊臣秀吉は朝鮮半島に軍隊を送り、朝鮮を侵略したが、民衆の抵抗と水軍の反撃によって失敗した。
江戸時代(18世紀末)では、林子平は『西域物語』で、「ロシアの脅威に対抗するために、朝鮮の領有」を主張し、幕末には佐藤信淵、橋本左内、吉田松陰などがアジア侵略論を唱えていた。
西郷らの征韓論
本格的な征韓論としては、明治維新の5年後の1873年、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが国内の権力関係を調整し、国内危機を解決するために朝鮮半島の領有を主張した。大久保利通、木戸孝允らは内治優先を主張して征韓論に反対した。
1875年雲揚号が江華島を砲撃し、砲台を占領し、30門あまりの大砲を持ち去った。翌年、江華島条約を結ばせ、釜山、仁川、元山の開港と治外法権、関税免除などを認めさせ、朝鮮侵略の一歩を踏み出した。
自由民権運動の敗北
1880年代の自由民権運動は、「朝鮮・中国を侵略の対象ではなく、明治政府の専制権力の打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放」(杉田鶉山)を主張していたが、その後「日本の近代化のためには中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化」(杉田鶉山)を主張するようになった。大井憲太郎も「韓国独立党への支援」を主張していたが、「西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸を領有することが日本の進むべき道だ」という主張に変わった。
日清戦争への過程
1894年の日清戦争を迎えるころには、内村鑑三は「新文明が旧文明を乗り越える行為」、福沢諭吉は「脱亜論」「日清戦争は文明の義戦」などと日清戦争を支持し、戦後には、もともと「平民主義」を唱えていた徳富蘇峰でさえも「中国の衝突に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない」と『大日本膨張論』(1894年)を展開した。
陸羯南は「アジアの平和は日本を主軸に据えた形でしか成立しない」と主張し、中国への侵略を正当化した。高山樗牛は『日本主義論』の中で、「西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家(注:侵略国家のこと)」の建設を主張した。
このように、自由民権運動の敗北の過程で、明治時代を代表する知識人の多くは侵略思想(大東亜共栄圏思想)に転向し、日清戦争を欧米諸列強から日本を防衛する戦争として、積極的に支持し、雪崩を打つように日露戦争、韓国併合へと突き進んだのである。
日露戦争後
1905年の日露戦争後になると、西園寺公望は施政方針演説で、「満州経営、韓国の保護は共に帝国のために努力せざるべからざる所」(1906年)とし、大山巌は「明治39年度以降における帝国陸軍の作戦計画は攻勢をとるを本領」(1906年)と、大陸侵略をめざした。田中義一は『随感雑録』で、「国利国権の伸張は先づ清国に向かって企画」「中国を侵略するのは帝国の天賦の権利」(1906年)と書き、対中国外交に慎重であった山県有朋も、『帝国国防方針案』では、「わが国利国権の伸張は清国に向かって企画せらるるを有利とす」(1907年)と書いている。
本格的な大東亜論
後藤新平は1916年に『日本膨張論』を書き、それから20年後の1937年には、三木清の『東亜共同体論』、宮崎正義の『東亜聯盟論』、石原完爾の『東亜連盟論』、そして近衛文麿による『東亜新秩序建設声明』(1938年)へと続いていった。
まさに、大東亜共栄圏は自由民権運動、大正デモクラシーなどの人民の闘いの廃墟の上に構築され、巨大な共同幻想体として日本人を侵略戦争に動員し、数千万のアジア人民を殺戮して、敗戦を迎えたのである。
侵略戦争の日本近代史
NHKで放映中の「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)は日清・日露戦争の過程を、アジア(朝鮮・中国)侵略の歴史としてではなく、欧米に対する「防衛戦争」として描き、日清・日露戦争から太平洋戦争への全歴史過程を美化しようと試みている。
参考文献:『侵略戦争-歴史的事実と歴史認識』纐纈厚著
『近現代史の中の日本と朝鮮』山田昭次、高崎宗司、他著