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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20181101 石川県版ダークツーリズム

2018年11月01日 | 歴史観
石川県版ダークツーリズム
2018年11月1日

 ダークツーリズムとは戦争・虐殺・災害・公害・事故が起こった被災地や、人権にまつわる不幸な歴史の残る場所を訪問する観光のこと。死・悲劇などの記憶を共有し、史実や被害者に理解を深め、追悼することなどが狙いである。

(1)兼六園
①明治記念之標(天皇制)、前田慶寧像(金属供出で解体)
②ラジオ灯籠(強兵のための体力増進運動)
③長谷川邸跡(メーデー第1回1929年、第2回1930年、第3回1931年)
④海石塔(加藤清正・朝鮮出兵時の戦利品)




★①明治記念之標は中央に日本武尊像が立ち、左側に石川県戦死士尽忠碑がある。1877年西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である(1880年設立)。皇族がらみなので、金属供出はされず、前田慶寧像は供出され残っていない。
★②ラヂオ体操は国民の体力向上と健康の保持や増進を目的として推進された。ラヂオ体操は、1928年11月、天皇裕仁の「御大礼(即位式等)」記念事業として始まり、1932年には、小学生などを組織した「ラジオ体操の会」は内務省、文部省、帝国在郷軍人会が後援することになり、翌年には4400万人が参加した。後に「ラヂオ体操」は「宮城遙拝(皇居に向かい拝礼する)」と一体化し、天皇制と戦争翼賛の国民運動となった。
★③メーデー集会は兼六園長谷川邸跡でおこなわれた。第3回メーデーの写真に慶寧像の一部が写っている。
★④戦前の絵はがきには、海石塔は「朝鮮征伐の時の戦利品」との説明書きがり、朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰り、後に豊臣秀吉から前田利家に贈られたという説がある。

(2)金沢城公園、本多の森公園
①第九師団司令部、軍法会議(鶴彬、治安維持法違反事件裁判)、第六旅団司令部
②衛戍拘禁所(鶴彬、尹奉吉拘禁)
③石川県歴史博物館(第七聯隊兵器庫)



★第九師団の侵略の歴史―1875年金沢城内に第七聯隊司令部設置/1885年歩兵第六旅団司令部設置/1898年第九師団司令部設置/1904年日露戦争に動員/1910年~朝鮮駐箚軍/1932年上海事変に動員/1937年~日中戦争に動員/
★①②鶴彬は1930年に徴兵され、隊内で「無産青年」を配布した廉で治安維持法違反容疑で逮捕された。金沢衛戍監獄に収監され、軍法会議にかけられ、1931年6月の判決で懲役2年が確定し、大阪衛戍監獄に移監された(1933年1月まで)。
★②1932年4月29日、上海戦勝祝賀会の壇上に爆弾を投げて逮捕された尹奉吉も1932年12月18日に金沢衛戍監獄(法務部という説もある)に移され、翌19日三小牛山で銃殺処刑された。
 第六旅団は金沢城公園に残っているが、軍法会議、衛戍監獄とも今は金沢城公園にはなく、地図や写真で確認出来るに過ぎない。第九師団司令部は石川歴史博物館横に移築中である。

(3)侵略戦争の賛美
①石引町―護国神社(至誠通神の碑、大東亜聖戦大碑、清水澄碑など)
②野田山―野田山墓地に長岡戦争戦死者の14墓
③野田町―覚尊院(小川仙之助尽忠碑、泉屋柳子の碑)
④卯辰山―招魂社(護国神社の前身)、北越戦争の碑
⑤出羽町―石川県立美術館裏法面(聖戦大碑「合法化」のための対策)



★①2000年に建てられた大東亜聖戦大碑には、アジア・太平洋侵略戦争を賛美する文言であふれ、朝鮮出身特攻兵、少女ひめゆり学徒隊、鉄血勤皇隊、水戸市立五軒小学校、金沢市菊川小学校有志などが無断で刻銘され、歴史を偽造している。
★⑤聖戦大碑が建てられた場所は護国神社境内であるが、本多の森公園として石川県が管理していた。石川県が碑建設許可を与え、全国的から抗議の声が上がり、石川県は苦肉の策として、護国神社境内を公園敷地から除外し、県立美術館裏の崖を公園敷地に追加し、責任逃れに汲々とした。
★①護国神社境内には戦争を賛美する記念碑が林立している。清水澄は日本国憲法に抗議して自殺した明治憲法学者。
★①至誠通神の碑とは旧歩兵第七連隊営庭(金沢城公園)から現在地に移設。1932年第1次上海事変の戦死者が刻銘されている。

(4)中国侵略に一撃を加えた尹奉吉
①尹奉吉処刑地(三小牛山)
②尹奉吉暗葬地(野田山墓地)
③尹奉吉殉国記念碑(野田山墓地)



★①1932年4月29日尹奉吉は上海虹口公園でおこなわれた戦勝祝賀会壇上に爆弾を投げ、逮捕され、軍法会議で死刑を宣告され、12月19日に金沢市三小牛山で処刑された。公文書には処刑地は「西北谷間」と記載され、略図が添附されていたので、それをもとに2010年処刑地調査をおこなった。基本射撃場の北側の谷間であることが確認された。2010年調査当時は処刑地(自衛隊敷地)に入る事が出来たが、いまは金網で囲われ、入る事が出来ない。
★②処刑後尹奉吉の遺体は野田山墓地内の陸軍墓地管理室から監視できる通路に暗葬された。1946年3月在日朝鮮人によって発掘され、遺骨は故国に送られたが、暗葬地はそのままにされた。1992年、暗葬地の調査がおこなわれ、金沢市から永代使用許可が出され、同年12月暗葬之跡として整備された。
★③1992年4月暗葬地の近くの高台に殉国記念碑が建立された。2012年排外主義者によって「竹島は日本の領土」と書かれた棒杭を立て、説明板に傷がつけられた。

(5)強制連行・強制労働
①額谷地下軍需工場跡(朝鮮人強制労働)
②七尾港(中国人強制連行・強制労働…一衣帯水の碑、中国人殉難烈士慰霊碑)
③尾小屋鉱山(朝鮮人強制労働、戦前労働運動)
④田鶴浜(相馬)飛行場(朝鮮人強制動員)
⑤総持寺無縁供養塔(門前町)



★石川県内の朝鮮人強制労働現場を摘記すると、七尾海陸運送/山中海軍病院/山中病院地下施設/第3火薬燃料廠畑山地下施設/白鳥地下工場/山中航空機地下工場/海軍工廠大聖寺地下工場/陸軍航空工廠坂尻地下工場/下福田溜池/日本電気冶金白菊工場/三菱重工額谷地下工場/朝鮮農業報国隊(富奥)/第3火薬燃料廠滝ヶ原地下施設/小松製作所小松工場/小松製作所粟津工場/日本鉱業尾小屋鉱山/尾小屋鉱山選鉱場/尾小屋鉱山「慰安婦」/海軍小松基地建設/小松海軍航空隊(軍属)/山陰航空隊/海軍田鶴浜相馬飛行場/中島航空機遊泉寺地下工場など多数にのぼる(竹内康人著「戦時朝鮮人強制労働調査資料集」)。
★②1944年11月200人の中国人、1945年4月に199人の中国人が七尾港に強制連行された。中国人は高さ3~4メートルの木の板で囲われた七尾華工管理事務所(事務所兼宿舎)に閉じ込められた。畳みも布団もなく、わらを敷いた上で寝た。1日に12~14時間労働。399人の内15人が死亡し、重症眼病307人(内失明者64人)、皮膚病179人、胃腸炎124人、ほぼ全員が重症状態であった。
 1945年9月18日~「七尾華工事件」~10月3日七尾警察署占拠事件~4日全員逮捕。11月24日七尾港駅~27日博多~29日出港~12月5日中国タンクー(塘沽)港に到着。
 1994年日本政府は中国人強制連行を認めたが、謝罪も補償もしなかった。2005年7月金沢地裁に提訴(原告4人)。2010年7月最高裁で敗訴確定。
 1977年「一衣帯水の碑」設置、2005年「中国人殉難烈士慰霊碑」建立。
★③尾小屋鉱山での朝鮮人強制労働は1940年141人、1943年597人にのぼる。石川県への朝鮮人募集認可数は1939年30人/40年210人/41年210人/42年660人/43年860人/44年960人。
 「1942年ごろから坑内に入っていく人たちの数は日本人と朝鮮人が半々ぐらいになった。…朝鮮から徴用されて来た人たち」(『尾小屋鉱山写真集』1982年)
★⑤総持寺の無縁供養塔には日本各地の火葬残骨灰が埋葬されている。1996年名古屋市東山霊安殿に保管されていた235人の朝鮮人無縁遺骨のうち77人分が身元確認もされずに粉骨され、総持寺の無縁供養塔に合葬された。2007年9月12日、2008年9月12日に総持寺で77人の朝鮮人無縁遺骨の追慕祭を開催した。

(6)1970年代のたたかい
①金沢駅前バス占拠・籠城(1977年5月7日)
②富来町赤住―志賀原発
③珠洲市―珠洲原発建設計画挫折(住民運動)
④七尾市鵜の浦―トクサ火力発電所建設計画挫折(住民運動)
⑤内灘権現森―火力発電所計画挫折(住民運動)



★①1977年5月7日金沢駅前で、障がい者の乗車を拒否した北鉄バスに実力で乗り込み、占拠し、27時間籠城した。その後4年間のたたかいで、1980年12月には「条件付乗車」を認めさせた。
★⑤1970年北陸電力が内灘権現森に火力発電所建設計画発表。反対派(青年共闘会議)が権現森に団結小屋建設。1972年内灘町長リコール運動。1973年町長選挙で反対派の中村小重町長誕生。
★④1973年1月七尾火力発電所建設計画(崎山半島)発表、三室町、鵜浦町で反対決議。1975年4月守友革新市長誕生。12月鵜浦町に団結小屋、1976年1月三室町に団結小屋。1976年7月トクサ団結小屋建設(現地闘争本部)。1978年4月2日北電調査船強行着工―実力阻止闘争。4月17日一斉弾圧14人逮捕。守友市長、赤崎案→世論はトクサ断念。1979年4月守友市長無投票再選→北電工事再延長を断念。1991年11月不当判決確定。
★②1967年11月、北陸電力能登原発建設予定地発表。1993年7月1号機営業運転開始。2006年3月2号機営業運転開始。
★③1984年3月、関電・中電・北電3社が珠洲原発建設予定地(寺家、高屋)発表。2003年12月凍結。

(7)侵略と戦争の足跡
①今町―八田與一記念碑(台湾植民地統治技官僚)
②金沢市立戸板小学校―金次郎像(1972年金次郎像損壊事件)
③七尾市寺島(七尾湾内)―第二能登丸触雷事件
④加賀市庄町―庄小学校校庭の奉安殿(南郷小学校にも?)
⑤小松市本折町―海軍小松飛行場(朝鮮人労務動員、神雷特攻隊)
⑥小坂町―野間神社(731部隊)



★①日本は1894年日清戦争に勝利して、1995年下関条約で台湾を植民地にした。植民地化に抵抗する台湾人民を100人に1人の割で虐殺して植民地支配をおこなった。台湾総督府の技術官僚八田與一によって、日本の糖業資本のために嘉南水系のダムを建設し潅漑した。台湾農民の抗議・抵抗をねじ伏せて強行した。
★②小学校唱歌には「柴刈り縄ない/わらじを作り/親の手助け/弟を世話し/兄弟仲よく/孝行つくせ/手本は二宮金次郎」とあった。なぜ、金次郎を教材にしたのか。井上哲次郎は「翁は平民にして、而も農夫の子として成長せり。故に農家の子女には、其境遇近く、其境涯相似たり。境遇等しきが故に、教師は学びて怠らず、勉めて休まずんば、農家の子女も、亦能二宮翁の如くなり得べしとの希望を抱かしむるに足る」と説明している。
 二宮尊徳のいう勤勉と従順は、奴隷の思想である。尊徳は「貧にして富之非を見出し喧譏(そしる)するものは不仁なり」(『農家大道鏡』)と書いていて、農民一揆は、農民の方に責任があるという。また尊徳は「知足安分」といって、百姓は百姓、工人は工人として分に応じた生活をせよと、身分制度を擁護している。尊徳の遺訓には「至誠・勤勉・分度・推譲」の4原則がある。
 金沢市内の小学校59校のうち、今も二宮金次郎像が39体残っている(村本さん調査)。小松市では、24体残っている。
★③戦時中の1945年5月25日から終戦までの間に、米軍は七尾湾内に約440個の機雷を投下し、戦後もそのまま残されている。8月28日、第二能登丸は七尾港の矢田新埠頭を出て、能登島の久美で人を下ろし、三室、東島(野崎、日出ケ島など)へ向かうことになっていた。第二能登丸は機雷を避けるために、寺島沖へ向い、機雷に触れ、28人の死者が出た。米軍占領下であり、事件のことは新聞報道されず、事件から38年後の1983年、石川県教組七尾支部の聞き取り調査によって、事件のあらましが明らかになった。
★⑥1932年関東軍防疫班(後に関東軍防疫給水部)が発足した。中国人約3000人を人体実験に使い、細菌兵器を開発。1940年以降中国戦線でペスト菌などの細菌戦を実施。創設者石井四郎は旧制四高卒業→京大医学部→軍医。戸田正三(戦後金沢大学学長)、石川太刀雄(戦後金大医学部教授)、二木秀雄(金沢医科大)が731部隊にかかわっていた。戦後、野間神社に関東軍細菌戦第731部隊の臨時本拠地が置かれ、後始末をおこなった。

(8)プロレタリア文学
①高松町―鶴彬句碑(「胎内の動き知るころ骨がつき」「枯れ芝よ団結をして春を待つ」)
②卯辰山―鶴彬句碑(「暁を抱いて闇にゐる蕾」)
③白山市美川町―島田清次郎(プロレタリア文学=「帝王者」など) 石川近代文学館



★①②鶴彬は川柳作家としてだけではなく、むしろ革命家として評価されねばならない。日帝の戦争と、労働者の悲惨を描いただけではなく、自らそのなかに跳び込んで、たたかい、1931年治安維持法違反で逮捕され、軍法会議にかけられ、懲役2年の判決を受け、非転向を貫いて1933年1月満期出所した。
★③1920年代のベストセラー『地上』はラブストーリーだが、そのなかには深刻な差別を告発している。戯曲「帝王者」(『革命前後』所収)はたたかう労働者の姿を描いている。

(9)戦後戦争への準備と犠牲とたたかい
①小松市安宅新町―小松航空プラザ
②小松市浜佐美町―強制移転されて廃墟となった
③輪島市高州山—航空自衛隊レーダー基地
④金沢市泉町―F104J墜落現場(1969年2月8日)
⑤金沢市平和町―陸自金沢駐屯地・尚古館
⑥内灘海岸―米軍内灘試射場(権現森、内灘資料館)
⑦内灘町鶴ヶ丘―林屋亀次郎像(内灘闘争の歪曲)



★①石川県立小松航空プラザには、戦前の海軍小松飛行場に関する資料もあるが、多くは懐古趣味的展示で、懐古的航空ファンを満足させている。
★②1961年小松基地に第6航空団配備。小松基地の役割は朝鮮侵略のための出撃基地として位置づけられ、旧海軍飛行場を拡張し、2700m(+300mのオーバーラン)を建設した。南側の滑走路直下に位置した浜佐美町は強制的に移転させられた。
★③戦前、輪島天神山(300m)に防空監視所があり、戦後1947年に米軍レーダー部隊(30人)が進駐し、標高567mの高州山に移転した。1950年朝鮮戦争時には250人に増強。1956年空自第23警戒群配備。輪島基地は小松基地と一体のレーダー基地で、半径1000キロ、朝鮮半島全体を守備範囲とする。
★④1964年にF104Jが小松基地に配備され、65年(美川沖)、66年(輪島沖)、67年(金石沖)、そして1969年2月8日金沢市街地・泉町に墜落し、4人が虐殺された。
★⑤陸自金沢駐屯地内に資料館(尚古館)がある。戦前の装備品などが懐古趣味的に展示されている。
★⑥1952年11月内灘米軍試射場を閣議決定。1953年3月試射開始。4月参議院選挙で内灘試射場誘致の責任者林屋亀次郎落選。4月内灘接収反対実行委員会結成。5月内灘村議会試射場使用反対決議。6月継続使用決議。権現森座り込み開始。8月強行出漁。愛村同志会結成。9月中山村長リコール請求、10月中山村長辞職。1957年内灘試射場返還。
★⑦1976年鶴ヶ丘の公園に内灘闘争(林屋亀次郎と住民)のレリーフ設置。反対派と賛成派が向かい合った中で、林屋亀次郎が真ん中に立って、仲裁している構図である。しかし林屋は国務大臣として接収推進の旗頭であり、1953年4月参議院選挙では試射場反対を掲げる井村徳二とたたかい落選している。

(10)石川県の黎明期の労働者人民
①東山町―宇多須神社(1918年8月12日、米騒動)→13日兼六園霞ヶ池
②野町―1921年金沢メーデー(六斗林から野町駅30人)
③1929年第1回メーデーは長谷川邸跡



★①1918年の米騒動は富山県滑川から始まった。背景はシベリア出兵による米不足から米価が高騰していた。石川県では、8月11日高浜町、堀松村末吉(志賀町)、12日金沢宇多須神社(3000人)、13日兼六園霞ヶ池(3000人)、21日宇出津町(能都町)、26日穴水町、松任町(白山市)、その他山中町(加賀市)、美川町(白山市)にも波及した。宇多須神社は1858年(江戸時代)の米騒動でも拠点になった。
★②日本で最初のメーデーは1920年におこなわれたが、金沢では1921年六斗林(現六斗広見)に新人会会員ら30人が集まり、野町駅に向かってメーデー行進をおこなった。一部は途中で分岐して、香林坊までデモ行進して逮捕された。
★③金沢での本格的なメーデー集会(長谷川邸跡)・デモ行進は1929年になってようやく実現した。1929年第1回メーデーには300人以上、1930年第2回メーデーには600人以上、1931年第3回メーデーには400人以上が結集した(80人の朝鮮人女性)。1932年錦華紡横50人(日本人10人、朝鮮人40人)結集、検束。1933年、森山小学校裏に40人結集したが解散、7人検束。

(11)差別・排外主義
①東山―ひがし茶屋、野町―にし茶屋(遊女、性売買)
②野田町―覚尊院(泉屋柳子の碑)
③小松市串町―串茶屋
④犀川河畔―戦後在日朝鮮人集住地域
⑤西荒屋―竹川リン記念碑(献体)
⑥富来町福浦港―渤海国との交流(独島=竹島問題)



★①②ひがし茶屋、にし茶屋が金沢観光の眼玉になっているが、上流階層の芸者遊びと下層民衆の性売買が一体的であった。東北など貧困層から売られてきた女性たちの悲しみの坩堝だった。覚尊院には師匠泉柳子を忍ぶ芸妓などの名前が多数刻まれている。
★④犀川河川敷には遊歩道が整備され、市民の憩いの場になっているが、戦前戦中に土地を奪われて日本渡航を余儀なくされた朝鮮人、強制連行され帰国の機会を失った朝鮮人が犀川河川敷などにバラック小屋を建てて戦後期を乗り切った。
★⑤石川県で最初に献体をした竹川リンの記念碑が建てられているが、竹川リンを主人公にした『白蓮華』には明治期の(藤内)差別の様子が描かれている。卯辰山に「解剖屍体の塚」「解剖遺骸之碑」がある。
★⑥727年から200年間、渤海国から日本へ34回使節(36回、35回など異説あり)を派遣している。日本からも渤海へ13回使節を派遣。渤海から日本への航路は幾通りもあるが、9世紀初めに于山国(鬱陵島)が新羅の支配から離脱したので、渤海船が鬱陵島近海を航行しても安全となり、鬱陵島(983m、洋上120kmから見える)→独島(竹島)→隠岐島→山陰→越前→福浦の航路が採用されるようになった。日本から渤海国へは、対馬海流にのって北上するか、日本海を七ツ島、舳倉島経由で直接横断した。

(12)市民公園
①広坂町―金沢市役所前広場(「不自由な広場」)、
②四高記念公園(緑を伐採、遊歩道はコンクリート)
③金沢城公園―極楽橋(尾山御坊)
④金沢市駅西新町―姉妹都市公園



★①2017年4月に金沢市役所前に広場が完成したが、市役所が企画を「反体制的」と判断すれば、使用を不許可にすることが出来る条例をつくり、表現の場としての「広場」の使命を奪った。
★②2013年四高記念公園は多くの木々が伐採され、芝地が狭められ、土の遊歩道がコンクリートに覆われた。日陰が減少し、照り返しの強い公園になり、市民の憩いの場からイベント会場に様変わりした。
★③長年月をかけて金沢城公園が整備されている。この地は、<尾山御坊(一向宗の拠点)→前田居城→第九師団→金沢大学>を経て、今日に至っている。この地は、時代ごとに歴史的諸相を顕現してきたが、谷本県政はそのなかから見栄えのいい前田居城のみに特化した公園作りをおこなっている。この地は本来歴史公園として、<尾山御坊(一向宗の拠点)→前田居城→第九師団→金沢大学>の諸相を振り返る公園として整備されるべきであった。
★④金沢市駅西新町に姉妹都市公園がある。金沢市と姉妹都市提携をした7の都市、バッファロー市(アメリカ)、イルクーツク市(ロシア)、ポルト・アレグレ市(ブラジル)、ゲント市(ベルギー)、ナンシー市(フランス)、蘇州市(中国)、全州市(韓国)を紹介するコーナーと、交流広場がある。
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