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小松基地問題研究会

20220209 佐渡鉱山のユネスコ世界遺産登録申請―整理メモ

2022年02月09日 | 歴史観
20220209 佐渡鉱山のユネスコ世界遺産登録申請―整理メモ
参考資料:
(A)ウィキペディア〔佐渡金山〕
(B)「佐渡鉱山と朝鮮人労働者」(広瀬貞三、2000/3)〔ネット検索〕
(C)強制連行真相究明ネット緊急声明(2022/1/25)―佐渡鉱山世界遺産登録問題によせて〔ネット検索〕
(D)『まなぶ』(佐渡と朝鮮をつなぐ会1996年)「佐渡金山・朝鮮人強制連行問題の調査活動」
(E)『新潟日報』(1943/8/22)「現地報告⑫登る梯子が針の山 地下五百米の鉱山戦士」
(F)「韓国蔚珍郡から佐渡鉱山への100人の名簿」
(G)『新潟県史 通史8 近代3』(1988年、金沢未来図書館蔵)
(H)『佐渡金山を世界遺産に』(2014年、金沢未来図書館蔵)
(I)『佐渡相川の歴史 通史編 近・現代』(1995年)
(J)『思想月報』79号(内地移動朝鮮人労働者の動向調査1941)

はじめに
 2022年2月1日、日本政府は「佐渡島(さど)の金山」のユネスコへの登録申請を正式決定した。ユネスコ世界遺産とは「文化遺産の解説とプレゼンテーションは、より広い社会的、文化的、歴史的、自然的な文脈と背景に関連させなければならない」(「文化遺産の解説及び展示に関するイコモス憲章」2008年)という原則があり、強制労働などの負の歴史を含めた歴史全体を示し、人類の教訓とするものである。
 1月21日の記者会見で、政府は「佐渡島の金山に関する韓国側の独自の主張につきましては、日本側として全く受け入れられない」(木原官房副長官)と述べ、戦時の朝鮮人強制労働を抹殺した。安倍は「いまこそ、新たな『歴史戦チーム』を立ち上げ、日本の名誉と誇りを守り抜いてほしい」と、岸田首相に圧力をかけ(1/26『夕刊フジ』)、NHKも「歴史戦チーム」という言葉を使って登録に向けた世論作りを開始した(1/27)。そして、2月1日の正式決定に至ったのだ。
 日本帝国主義が戦時の労務動員政策によって、80万人の朝鮮人を強制的に動員していたことは歴史的事実であり、佐渡鉱山への強制動員についても記述せよという韓国側の主張はまったく正しい。それを「韓国独自の主張」として「受け入れられない」とする日帝の姿勢は、強制連行・強制労働の歴史を否定するものだ。

 

『新潟県史』を無視して登録申請
 『佐渡金山を世界遺産に』(資料H)によれば、佐渡鉱山の世界遺産登録の運動は1997年に国への「要望書」が出され、本格的には2004年から始まっている。すでに1988年発行の『新潟県史』で佐渡鉱山への朝鮮人強制連行について記述されておりながら、同書には一言半句も触れられていない。「序章(佐渡鉱山の歴史)」には、安土桃山時代から暦年的に記述されているが、日中開戦後については「1937年に日中戦争が始まると、翌年には金銀銅などの大増産を目的とする『重要鉱物増産法』が公布され、佐渡鉱山も国策による大増産運動が進められることになった。…金の生産は飛躍的に増大し、1940年には年間1537㎏の生産を達成した(注:約25 トンの銀)」と記載されているが、その増産を支えたのが朝鮮人強制労働であったことを無視している。
 『新潟県史 通史編8 近代3』(資料G)には、「五 強制連行された朝鮮人」の項(772~786)があり、「昭和十四年(1939年)に始まった労務動員計画は、名称こそ『募集』、『官斡旋』、『徴用』と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質であった」(782頁)と指摘したうえで、「昭和十八年六月東京鉱山監督局東京地方鉱山部会は、佐渡鉱山を会場に朝鮮人労務管理研究協議会を開催した。その要綱に盛られた佐渡鉱業所の報告は、移入者総計一〇〇五人、死者一〇人、公私傷送還三六人、不良送還二五人、逃走一四八人などで現在員数五八四人にすぎなかった」(783頁)、「たしかに賃金は『内地人同様』とうたわれているが、両者を職種別に見るなら、その悪平等が判然とする。ここでは『半島人』が五八四人、『内地人』が七〇九人稼働していた。ところが前者が圧倒的に多数配属されていたのは、削岩と運搬部門であった」(785頁)と記している。
 また、新潟県相川町(現・佐渡市)の『佐渡相川の歴史 通史編 近・現代』(684P)でも、金山での朝鮮人労働者らの状況を詳述したうえで、「佐渡鉱山の異常な朝鮮人連行は、戦時産金国策にはじまって、敗戦でようやく終るのである」と記している。
 動員された朝鮮人の「煙草配給台帳」(460人以上の朝鮮人名簿)があり(資料I-682P)、1945年に佐渡鉱山に徴用で動員された「慶尚北道蔚珍郡の100人の名簿」も残っている(資料C)。8・15解放後の朝鮮人1140人分の未払金231,059 円の「供託史料」も残っている(資料C)。佐渡鉱山への朝鮮人動員数は1500人を超えるものとみられる。



歴史認識問題研究会の意見広告
 2022年2月3日付け『産経新聞』に歴史認識問題研究会(会長西岡力)による「佐渡金山は朝鮮人強制労働の現場ではない」という意見広告が掲載された。
 一部を摘記すると、「戦時動員期間に、240万人の朝鮮人が内地に渡航したが、そのうち60万人だけが動員で、180万人は自分の意思による個別渡航。佐渡金山では1519人の朝鮮人労働者が動員されたが、3分の2の約1000人は「募集」に応じた者たちだ。…500人は「官斡旋」「徴用」で渡航したが、合法的な戦時労働動員であって、「強制労働」ではない。待遇はみな内地人と同じだった。家族宿舎と独身寮が無料で提供され、会社が費用の一部を負担して安価な食事も出された。…事実に基づく反論だけが祖国と先人の名誉を守る道だ」という内容である。
 西岡らの主張にたいして、2000年に執筆・発表された広瀬貞三さんによる「佐渡鉱山と朝鮮人労働者」(資料B)が完膚なきまでに粉砕しており、該論文を要約する。


近代の佐渡金銀山と朝鮮人強制連行
 以下は「佐渡鉱山と朝鮮人労働者」(資料B)の要約である。

明治期以降の佐渡金銀山(資料2頁~)
 明治初期(1869)に工部省の管轄となり、その後農商務省に、さらに大蔵省へと移管され、宮内省御料局の所管(1889)となり、明治後期(1896)からは民営(三菱合資会社)となり、採掘が続けられた。三菱合資会社の裸掘鉱種は金・銀・銅であり、1897年10月現在の従業員数は2224人である。
 『鈴木部屋古籍調書』、『大塚部屋台帳』によれば、1902年から1929年までに大塚部屋、鈴木部屋に入った「坑夫」、「人足」は合計704人である。この内、出身がわかるのは685人で、朝鮮人は鈴木部屋に14人、大塚組に7人、合計21人(3・1%)となる。朝鮮人21人の出身は、慶南8人、京畿3人、忠北・忠南・全南・慶北各2人、全北1人、不明1人となっている。

 

戦時期の朝鮮人動員(資料7頁~)
 1937年7月の盧溝橋事件により日中戦争が全面化すると、佐渡鉱業所は金増産・銅増産のために朝鮮人を大量に動員した。佐渡鉱業所は1939年2月に、朝鮮人の第1陣「募集」を開始し、1942年3月までに、総数1005人の朝鮮人を「募集」で集めた。年度別で見ると、1940年は646人、1941年は280人、1942年は79人と、1940年の人数が突出している(表2)。
 1938年に朝鮮南部は数十年ぶりといわれる大干ばつに見舞われ、農村疲弊のなか、生活の活路を見出すため、佐渡鉱業所の「募集」に応じざるを得なかったと思われる。
 佐渡鉱山への連行は、1942年3月以降も続き、この間の回数や人数は不明だが、1944年7月新たに数十人が動員されている。これは「労務協会斡旋」によるものであろう。
 敗戦前に佐渡鉱業所が朝鮮で労働者を募集した地域は、忠清南道80%、忠清北道・全羅北道20%だったという。朝鮮人の動員は1945年7月が最後で、労働者だけで「回を重ねて総数千二百名」だったという。これに家族まで加えれば、少なくとも1300人近い朝鮮人が佐渡鉱山で暮らしたと推定される。

過酷労働と差別(資料9頁~)
 1942年5月現在、佐渡鉱山には表3のように、日本人709人、朝鮮人584人、合計1293人が働いていた。職種別に日本人と朝鮮人の割合を見ると、朝鮮人の割合が高いのは「運搬夫」、「磐岩夫」、「外運搬夫」、「支柱夫」であり、主に危険な坑内労働である。日本人の割合が高いのは、「其他」、「工作夫」、「雑夫」、「製鉱夫」である。
 『新潟日報』(1943/8/22)の記事「現地報告⑫登る梯子が針の山 地下五百米の鉱山戦士」によれば、「佐渡鉱山は全体の採鉱二組に分け、(中略)作業は三交代制で朝六時始業午後三時迄を一番方、午後二時半から夜十一時迄が二番方、夜十一時から翌朝六時半迄が三番方」と、「金山の鉱夫は全部毎日残業をし、其の半数は十二時二交代分を働いてゐる」状況だった。

逃亡対策―強制貯金、家族呼び寄せ(資料14頁~)
 佐渡鉱業所では、表2のように、1940年2月から1948年6月までの3年4ヶ月の間に、逃亡者は148人あり、全体の14.8%にも達している。朝鮮人の逃亡を阻止するために、朝鮮人に現金を所持させず、賃金を故郷(家族・行政機関)に送金させたり、強制貯金をおこなった。
 朝鮮人1人当たりの平均月収は1943年4月が83円88銭、5月が80円56銭である。この賃金から労働に必要な道具代等が差し引かれるため、実際手もとに残る賃金はごく僅かであったと思われる。
 1941年4月現在、佐渡鉱業所の朝鮮人労働者は約600人だが、家族を伴っているのは50人に過ぎず、大部分は寮で生活していた。佐渡鉱業所では「これ等の半島労務者をして半永久的に留まらしめる方針の下に、その家族を順次呼び寄せることとなり、今月四十家族約百名、来月八十家族約二百名を迎へるべく準備中」だった。
 佐渡鉱業所では「継続就労手続修了者ニハ対シテハ、適当時期ニ各個ニ個人表彰状ト相当ノ奨励金ヲ授与」することで、朝鮮人の就労「継続」を計った。これらの事実は「募集」形式でありながら、実態は強制労働であったことを示している。
 1944年12月18日に佐渡鉱業所は軍需省から「管理工場」に指定され、「協和会館」で全従業員に「現員徴用令書」が伝達された。これによって朝鮮人労働者に対する強制度はさらに高まった。

労災、事故と病気(資料12頁~)
 朝鮮人に関しては、表2(1943年6月)では10人の死亡者が記録されており、内容が判明しているのは1件だけで、1942年12月20日、朝鮮人坑夫金珠燥他2人が坑内で梯子の架設中、岩石面より滑り落ち、頭蓋骨粉砕などで死亡していることである。同表には、「公傷送還」「私傷送還」の欄があり、合わせると36人である。
 事故による死傷以外に、朝鮮人労働者を苦しめたのが珪肺である。佐渡鉱山は母岩の多くが石英鉱であり、珪酸分が高いことで有名である。そのため、磐岩作業の際に粉塵(珪酸)が肺に沈着し、繊維増殖が起こって咳や痰がでる。呼吸は苦しくなり、胸部に圧迫感を覚え、それが深化していく。

闘争と逃亡(資料13頁~)
 佐渡鉱業所における朝鮮人の闘争は、2件確認される。第1に、1940年2月17日、98人の朝鮮人が働いている現場で発生した。「全員を収容せる合宿所の設備なきため四十余名を暫定的に鉱山職員の経営する新保寮に収容し置きたる所、請負制度なる為め、賄状況不良なりしとて、常に不満ありたるが、二月十七日に至り、止宿者四○名は崔在万を代表として之が改善方を要望し、不穏の状況にありたるも、鉱山側に於て之を容認したる為、即日解決せり」という。
 第2に、1940年4月11日に佐渡郡桐内町の朝鮮人労働者97人が「三月分の賃金支給を受けたる結果、応募時の条件と相違すとなし、賃銀値上を要求し罷業を断行す」。これは相川警察所の「調停により労働条件につき会社側に於て善処すること々為し」、4月13日に「解決」したが、中心メンバーの3人は朝鮮に送還された。
 第3に、1942年4月、相愛寮で李漢鳳など3人が花札で賭博を開帳中、日本人労務課員がこれを発見し、3人を所轄警察署に連行しようとした。同僚朝鮮人160数人は李漢鳳を奪還しようとして、寮の事務室に殺到し、労務課員に傷害を負わせ、事務所の窓ガラス36枚が壊された。このため、相川署員が急派し、中心メンバー8人を検束し、「鎮撫」解散させた。

徴兵と移動(資料17頁~)
 1944年4月第1回徴兵検査で、佐渡鉱業所の朝鮮人10人が甲種合格者した。同年9月、このうちの8人が入営することになった。
 1945年になると佐渡鉱業所では銅採掘の実績が上がらず、朝鮮人労働者は過剰となった。このため、同年8月に第1次挺身隊として埼玉県(189人)に、第2次挺身隊として福島県(219人)に、合計408人を派遣した。福島県組は福島市内の信夫山の中腹を削って、約3万3000㎡の耐弾地下工場(福島工場)を建設する工事に従事した。

戦後~帰国(資料19頁~)
 佐渡鉱山では8月15日現在、244人の朝鮮人が労働に従事していた。第1・2次「特別挺身隊」として埼玉、福島に派遣されていた朝鮮人408人中319人が、8月末までに帰島したが、89人が逃亡若しくは帰島を拒否した。
 最終的には佐渡鉱業所の朝鮮人は日本での永住を希望する数人を除いて、1945年10月から12月にかけて全員帰国した。1947年10月1日現在、新潟県在住の朝鮮人は3225人(男2072人、女1153人)であり、佐渡郡は128人(男76人、女52人)で、これは全体の4・0%に過ぎない。

広瀬さんのまとめ(資料22頁~)
 以上、広瀬貞三さんは戦時期の佐渡鉱山における朝鮮人労働者の動員、労働、生活の実態を明かにした。それらを要約すれば、次の通りである。
 第1に、佐渡鉱山を初めて訪れた朝鮮人は、朝鮮政府が鉱業近代化のために派遣した3人の留学生だった。彼らは宮内省御料局の佐渡鉱山学校で鉱山学を学んだ。その後、1910年代から朝鮮人労働者が佐渡鉱山に就労し始めた。彼らは「部屋制度」(納屋制度)のもとで、部屋頭の厳しい統制を受ける「他国人足」、「他国坑夫」として働いた。
 第2に、日本の戦時体制が進むにつれ、三菱鉱業所佐渡鉱業所は産金・産銅増産のため、朝鮮人男性を戦時動員した。1939年2月から1945年7月まで、「募集」・「斡旋」・「徴用」形式により約1200人が佐渡鉱山に送り込まれた。この内約1000人が「募集」形式であり、彼らの出身地域は主に忠清南道で、敗戦が近づくと全羅北道にも拡大された。
 第3に、朝鮮人労働者は主に「運搬夫」、「磐岩夫」、「支柱夫」として、日本人よりも過酷な坑内労働に従事した。このため10人以上の死者、36人以上の負傷者を出した。労働条件をめぐって2件の争議が発生し、1943年6月までの逃亡者は150人以上で、その後も佐渡鉱山からの逃亡者が相次いだ。
 第4に、佐渡鉱業所の朝鮮人労働者は社宅と寮で生活した。就労中に8人の朝鮮人が徴兵で戦場に送られた。朝鮮人の労働と生活は、三菱鉱業の労使協調機関である協和会、半官半民の鉱山統制会、特高警察が中心の新潟県協和会相川支会によって、三重にわたって厳しく監視された。
 第5に、敗戦後佐渡鉱業所の朝鮮人は、他県からの帰還部隊も含め約570人に達した。彼らは1945年10月から12月にかけて、新潟港から帰国した。
(以上の要約はごく一部であり、広瀬貞三論文はネット検索で読むことができる)


私たちの仕事
 上掲の資料(H)『佐渡金山を世界遺産に』には、1940年に金の産出量が過去最高に達したと誇らしげに書いているが、一体だれによってそれがなされたのか? 「運搬夫」、「磐岩夫」、「支柱夫」として、日本人よりも過酷な坑内労働を強いられた朝鮮人ではないか。にもかかわらず、日本政府は「日本の輝かしい歴史遺産」として、大ウソをついている。
 軍艦島の場合も同じだった。これでは、日本の歴史学は神話の域を出ないだろう。ウソに基づいた誇りなど、私たちにはいらない。安倍や岸田が、そしてNHKまで加わって「歴史戦」を挑んでくるなら、歴史を「神話」にするのではなく、歴史にするために、私たちは「真実の斧」を片手に、立ち向かわねばならない。
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