アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

『一九五三年内灘解放区』 出島権二さん聞き書き

2018年09月27日 | 内灘闘争
 最近(2018年秋)、内灘闘争についてのテレビ番組で、「辻政信が内灘闘争を支援した」などというデマが流された。しかし、事実は、辻政信と東亜連盟が内灘権現森にやって来たのは、座り込みを解除するためであった。『内灘から三里塚へ―出島権二さんの遺志をひきつぐために』(1989年発行)から、出島さんからの聞き書き「1953年内灘解放区」(1970年代末に聞き取り)を再掲する。

『一九五三年内灘解放区』 出島権二

弾丸輸送拒否ストライキ
 北陸鉄道労働組合の弾丸輸送拒否ストライキの事からお話しましょう。
 闘いの真っ只中で、内灘村民のなかに「労働者はワッショィ、ワッショイやって、旗振っとるが、それだけやないか。仕事やといってはタマを内灘に運んどるやないか、言っとることとやっとることが反対や」という声が出てきました。私はその時「嫌なこというなあ、忙しいなかをせっかく応援に来ているし、カンパを充分していただいているし、小言はないはずや。困ったなあ」と思っていました。特に北鉄労組は、内山さんが委員長をしていて、内灘闘争の支援に本当に全力をかけていました。村人の不信の声に答えるように北鉄労組は「弾丸輸送拒否スト」を打ち出しました。
 内灘村民は「ほほー、労働者もやるのう。本気でやる気なんだな」と労働組合を信用し始めたのです。このあと村内の空気はガラッと変り、村民自身の闘いも盛り上がり、村民と労働者の絆がグッと深まりました。
 弾丸輸送拒否ストこそ、内灘闘争のいちばん大きな歴史的な成果といえます。当時の北鉄労組の幹部は本当にハラをくくってストライキに入ったのでしょう。レッド・バージの嵐が吹き荒れたあとの反米ストライキだったんですから。今日の労働組合にはこれほどの大闘争はできないでしょうね。

闘いを支える全学連
 学生さんはいつも二〜三百人ほど浜に常駐していました。宿泊所を世話して欲しいと頼まれまして、青年会館を開放しました。賛成派の村民から随分文句が出ましてね。
 全学連は金沢大学の学生が中心になって、統制の取れた行動をしていました。私らが頼みもしないのに、麦刈り、麦植え、さつまいもの植えつけ、草取りを手伝ってくれました。学生たちは農作業を手伝って、村民と仲良くなり、そのまま農家に泊り込み、食住を共にして闘っていました。
 共産党は今日とちがって「山村工作隊」を組織していて、二十代の青年が七〜八名内灘に入り込んでいました。ある篤志家のワラ小屋を借りて住み、「試射場は軍事基地だ」という政治的なビラを撒いては、村民をオルグしていました。
 当時共産党といえば、村民は「身震いするほど」恐れていて、私も同様でした。私の家へ工作隊の青年が来ても、始めの一〜二回は門前払いをしたくらいです。それでも懲りずに来ましてね。「八木君また来たかい、帰れ帰れ」といっても、なかなか愛想のいい男で、「まあ、おじさん、そう言わんと、一服せんかね」などといってヤワヤワと入り込んで、しまいには仲良くなってしまいました。
 私は豆腐屋ですから、お昼頃には仕事が終ります。この時間に八木君が 「豆腐屋、ままくれや」といってくれば、私は「おう! はいれや」といって食べさせてあげたものです。
 工作隊はこのようにジミな活動を展開して、村民の政治意識を高めてくれました。確か、八木君は松任市柏野のひとで、今は八戸で市会議員をしていると聞いています。

全国から内灘へ
 当時の社会党は左右に分裂していまして、両派とも本部からオルグが来ていました。右派のオルグは途中早々と帰ってしまい、左派のオルグは最後までいたのですが、たった一人では何をするにしても力にはなりません。その人は非常に真面目で精一杯闘っていました。私と非常に気が合いました。左派のオルグがやって来た頃はもう宿らしいところもなくなり、「その辺にひとつ建てようか」といって、一緒にアカシャの丸太を十本ほど切ってきて、あちこちの家からムシロやワラを貰ってきて小屋を作り、彼はそこに九月まで住んでいました。
 日本山妙法寺という宗派がありまして、デンツク・デンツクとうちわ太鼓を叩いて、鉄板道路や権現森の坐り込みに参加していました。そのなかに吉本という男の人がいまして、粟崎の南川さんの家に泊りこんで、連日闘争に参加していました。吉本さんは内灘闘争のあと、立川闘争に参加し、デモの最中にポリ公におなかを蹴られて亡くなりました。
 上京して国会前で接収反対の坐り込みをしますと、必ず日本山妙法寺から何名かの応援がありました。
 私達が権現森で坐り込みをしているとき、三十歳半ばの望月という人が「私にも一緒に座らせてください、この小屋に泊まらせてください」と申し出てきました。権現森の小屋にはかまども井戸もなく、炊事ができないので村人は望月さんに握り飯や蒸した芋、一升ビンに水を汲んで持っていってあげては一緒に闘いました。
 望月さんは、あまりものをしゃべらない人で、もの静かな、情熱を内にこめるような人でした。その後望月さんは、立川基地拡張に抗議して、首相官邸のまえでハラを切って自殺しました。
 私達は世の中に「支援カンパ」というものがあるとは知りませんでた。闘い始めたらカンパ、米、缶詰、衣類などずいぶんと全国から寄せられました。お金は百四十万円を越えました。労働者、市民がないなかからカンパして下さいました。本当にありがたく戴きました。北鉄労租がさらに二十万円のカンパを持ってきたのですが、労働者の貴いカンパを貰っても、闘いは終盤を迎えていて、生かすことができないと思い、役員会に諮ってお返しすることにしました。
 また関さんが主催していた中央合唱団が参りました。関さんの夫は共産党員で、戦前の弾圧で獄死されたということです。一行は十五〜六人でした二人の間に生れた女の子がリーダーになって、坐り込みをしている鉄板道路や権現森に来て、その場で作詞・作曲し、振りつけをして、みんなのまえで披露してくれました。夜になれば、青年会館に村民を集めて、花笠踊りなど色々とやっては闘う村民を激励してくださいました。

手段を選ばぬ闘争破壌
 私が委員長になってから、政府は切り崩しのために私に攻撃を集中してきました。親戚や友人を使って私を崩そうと、莫大な金を積んできた事もあります。また実行委員会のメンバーに対しては「収賄罪」をデッチ上げるなど、本当に卑劣なやり口ばかりでした。しかし結束を固め、どれもこれもはねかえして闘い抜きました。
 初夏にもつれこんで、闘いがエスカレートし、ポリ公たちの手に負えなくなってきまして、津幡警察署幹部の肝入りで「愛村同志会」という右翼分裂組織が作られました。お寺で密議をしているという情報が筒抜けに入ってきました。労働組合でいえば第二組合です。闘っている時にこういうものができると非常に障害になります。愛村同志会の指導者はもともと、とても熱心な接収反対派でした。私は当初、その男は弁も筆もたつし、指導力もあり、親方になりたい素振りが見えていたので、委員長にたてるつもりでした。けれれども村議会の宮本議長や中村副議長は私の意見に反対して「おまえがやれ」といってききません。
 私は根っから「根性吉松」なので、うかっにも委員長を引き受けてしまいました。あんな「おおごと」になると解っていたら引き受けるはずがありません。
 津幡署が愛村同志会を組織させたその人物は巡査をしていたときに大根布に転勤してきて、そのまま村のある家に養子にはいって居着いた人です。闘いのあと、この男は養子先の僅かな財産を売り払って、逃げるように東京へ行ってしまいました。
 愛村同志会の活動資金は林屋亀次郎から出ていることがはっきりしていました。また後ろにはポリ公がついているものだから、乱暴のかぎりを尽くしていました。現在では町役場が建っているところに、山村工作隊が活動の拠点にしている粗末な小屋がありました。この小屋を愛村同志会が梯子、ナタ、マサカリを持って襲撃し、かち壊してしまいました。ポリ公はこの暴挙を見ていでも知らん顔ですよ。
 また権現森で坐り込みを続ける村民の前に、右翼東亜連盟員を引き連れた辻政信が現われ、坐り込みを解除させたのですが、何故私達が辻政信を信用したのか。国会前で坐り込んでいたとき、行動を共にしていた日本山妙法寺の僧侶が、辻政信と懇意であり、前を通る度にねぎらってくれるので、段々信用するようになったのです。その頃はもう「藁をもつかむ」という心境になっていて、うかうかとのってしまったが、結局辻政信は闘いを切り崩すためにやって来たのですね。

決死の実力出漁へ
 村民が何故それほどまでに一致団結したのか。米軍は進駐いらい各所で無茶をしているというニュースがはいり、「おっかない」「娘やかあかが危ない」「子どもの教育上悪い」というのが主たる原因でした。はじめはその程度でしたが、坐り込みに行って労組員と話し合ったり、陳情のための国会前坐り込みをやっているといろんな人が来て「内灘は朝鮮侵略のための試射場だ」などと政治的なことを話してくださって、だんだんと成長してゆきました。
 それでも、東京から来ている社会党、共産党の指導者は、大衆的な基地闘争の経験がなく、接収反対の原則はあるのですが、確たる戦略戟術を持っていないようでした。大規模な反基地闘争は内灘がはじめてで、やむを得なかったのでしょうが、局面が転換してもただ眺めているような状態でした。立川闘争ではその点経験が深まって上手にたたかえたようです。
 他方ポリ公もこれほど大規模な大衆運動への弾圧は初めてのことです。大根布に対策本部をもうけ、お宮・お寺・学校に分宿し、入りきれないものはテントを張って野宿していました。最も多いときには二五〇〇人もいました。いろいろ対策を立てていたのでしょうが、住民運動の爆発にどう対処してよいかよくわからないようでした。
 鉄板道路でデモをすれば、警備のポリ公は「ポリ公帰れ」と罵声を浴びせられ、さらにはバーイ・バーイと砂までかけられていました。
 七月末、警備本部のある円照寺にデモをかけたとき、私はポリ公に引っぱりこまれ逮捕されてしまいました。不当逮捕に怒った村民はお寺をぐるりと取り囲んで、石を拾っては屋根にバラバラと投げつけるもんだから、瓦がどんどん割れていきます。住職は真っ青になって「たのんこっちゃ、出島を放してくれ。このままやと寺の瓦がのうなってしもう」と懇請したほどです。私はそのあと程なく釈放されました。
 闘いが本格的にエスカレートした時、私は革命が起るんじゃないかと思いました。というのは村役場を実行委員会が占拠してしまい、「内灘解放区」の司令部として、闘いの指令をそこから出していたのです。村役場の通常業務は一週間ほど止まってしまいました。
 当時の私達は革命なんていうことは全然解らず、支援に来ていた大学生の影響を受けてそういう気分になったのです。大衆が命がけで闘うときの力は物凄いものです。村のどんなボスといえども手が出せなくなるんですから。その時は村長も村会議員も村にはいられなくなり、雲隠れしてしまいました。
 しかし気骨のある二人が残っていました。現町長の中村小重さんと対立候補だった米林三平治さんです。この二人に村民の怒りが集中し、袋だたきにされました。村長はどこかと、手分けして探したところ、役場の近くの家の押し入れに隠れており、こうして村長・村議の権威は完全に地に落ちてしまいました。
 その頃は最近の学生さんが盛んにやっているような「ゲバ棒」の闘いはありませんでした。しかし村民の中から「海へ行って漁をしよう。そうすれば弾丸を撃つのを遠慮するだろう」という声が上がりました。言うのは易しいが、実際に鉄条網を破って、試射場を横切って魚を取るなどということは生易しいことではありません。鉄条網の所々には「入れば罰する」という札が下がっているし、どんどん弾は撃ってくるしね。そんなおっかない所へ中村のおじいさんが「わしには舟もあるし、網もある。わしがやろう」と申し出て下さいました。中村のおじいさんの考えは「日本男児ここにあり。アメリカがやって来て先祖伝来の浜を勝手にすることは許せん」という素朴なものでした。本当に勇気のあるおじいさんでした。

中山村長と中村副議長のこと
 中山さんの姿勢は「村民があれほどイヤだといってるんだから、むりやり持ってこなくてもよかろう」という消極的なものでした。しかし中山さんは、いはゆる「明治生れの気質」をもっていました。「国には法律があるかぎり、これに反対して行動するものは非国民である」と考えているようで、「安保条約に基づいて内灘が接収されるなら、これに従うべきである」との考えです。また反対運動をある程度やらせて、取るものは取ってやろうとも考えていたようです。
 現在、金沢火電絶対反対を掲げる中村小重町長は、当時村議会副議長をしており、真っ正面からの接収賛成派でした。彼は私の従兄弟にあたり、私の家の近くで魚屋をしていました。自転車に乗って金沢まで行き、二〜三箱の魚を買ってきて、近所に売り捌いておりました。豆腐屋の私と同じように、午前中には大半の仕事が終るので、やみのドブロクを飲んでは内灘の将来を語り合っていました。
 内灘の接収問題が起こった時「あぢち(出島権二さんのこと)、ひょっとしたらアメリカさんが来て、試射場が出来るぞ。おまえはどう思う。金の五億も内灘に流れる仕事なら、これを利用して村を建て直そう」と言い、私も同感でした。
 その後中村小重さんは一貫して賛成の立場にたち、私は反対の側にまわりました。最近小重さんは「あんときは、反対運動をある程度やらせて、必要なときにピシッと収めてくれると思って、おまえを委員長に推したのに、性格が性格だから、そのままミイラになってしまった。大闘争があったから、政府折衝が非常に有利だった」と話していました。
 あれほどの大闘争のリーダーが「この辺で止めます」なんていうことは、ちょっとやそっとでできる芸当ではありません。みんなが稼ぎを休んで坐り込んでいるし、豆腐屋はもう長い間休業状態だし、お金どころか箪笥も長持も空っぽになっています。けれども絶対にひっくり返してはいけないと思って闘っていました。私はやっぱり「根性吉松」だから、中山村長や小重さんのようには振る舞えなかったのです。

接収絶対反対の原則
 当初は永久接収ではなく、暫定使用ということで試射を始めました。政府はうまいもんです。「やってしまえば反対の声もなくなるだろう」と既成事実を積みあげて諦めさせるというやり方です。
 また「冬期間だけやらせてくれれば青森の八戸へ行くから。八戸は結氷期で工事ができないから、それまでの暫定的なものです」と言いながら、今も内灘海水浴場に大きな弾薬庫があるでしょう、こういうでかいものを作ってしまい、そのまま居座ってしまったのです。その後三年半にわたって砲弾の試射がおこなわれましたが、内灘接収の政府のやり方はウソとペテンばかりでした。
 それから、村人は「条件闘争」などという言葉も知らず、「浜を渡さない」「接収絶対反対」しかありませんでした。ところが政府は利口でね、闘いを切り崩すために村内から「条件」を出させたのです。「河北潟を埋め立てて欲しい」「船だまりを作って欲しい」「診療所を作って欲しい」などいろんな「条件」が出されました。
 当時無医村だった内灘に反対派がバラックとはいえ診療所を作って村民との交流を深めており、政府は反対派と村民を切り離すためにさっそく五〜六〇〇万円を援助して村営診療所を作りました。
 一番大きいのは漁業補償でした。政府は試射場を内灘から他所へもってゆくわけにもゆかない、のっぴきならないところに追い込まれており、「条件」を飲むいがいに打開できなかったのです。「条件」が出てくると、村民の考えは変わりました。「浜をこうしてやる」「補償はこうだ」という話はなかなか魅力があり、他方反対派はこれに対する適切な方針を打ち出せず、「条件」によって崩されていきました。
 政府のやり方は本当に汚くて、例えば鉄条網のなかの麦畑の補償は賛成派には出すが、反対派には出さないというウワサが流れました。耕作者がウワサの真偽について確認に来たので「そんなことがあるはずがない。賛成・反対にかかわりなく麦の補償が出て当然だ」と説明したのですが、結局反対派農民には麦の補償は一銭も出ませんでした。
 住民運動も基地反対闘争も団結しなければ勝てません。どこから出てくるのでしょうか、切り崩しの金は莫大に流れてきます。男は「酒いっぱいやらんかいや」といわれて飲んでいるうちに、ヘナヘナといってしまう。しかし女は強い。酒は飲まんし、ごまかされんしね。内灘闘争はだからバアサン闘争と言われたぐらいです。金沢火電反対闘争でも、町内に賛成派がかなりいるなかで、反対派が結束して、中本町長リコールまで闘いえたのは何といっても団結と女性の力です。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20180923【志賀原発訴訟】金... | トップ | 201306xx 小説『建と好子』 »
最新の画像もっと見る

内灘闘争」カテゴリの最新記事