アジアと小松

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小松基地問題研究会

20211028「ミャンマーと日本」についての整理(1)

2021年10月29日 | 歴史観
「ミャンマーと日本」についての整理(1)
(1)日本の過去責任
 15~18世紀にかけて、ミャンマー・ラカイン地区ではアラカン王国(ミャウー朝~コンバウン朝)が繁栄し、多数派の仏教徒と少数派のムスリムが共存していた(宗教的対立は微弱だった)。
 1826年ラカイン地区はイギリスの植民地となり、仏教徒とムスリムの共存関係が崩れた。1886年にビルマ全土がイギリスの植民地になり、仏教徒のビルマ族(人口の70%)を中心に反植民地闘争がたたかわれ、仏教徒とイスラムの分断政治がおこなわれた。
 アジア・太平洋侵略戦争中(1941年)、ビルマに攻め込んだ日本軍は、仏教徒に武器を与え、イギリス軍と戦わせた。他方イギリスもイスラムに武器を与え、日本との戦闘に利用した。イギリスと日本の代理戦争として仏教徒とイスラムが戦い、両者の対立がさらに深まった。
 1945年3月、ビルマ国軍が抗日蜂起し、さらに1948年イギリスから独立し、ビルマ連邦共和国を名乗るが、ロヒンギャ・ムスリムを自国民と認めず、無国籍の民族とした。1962年にネ・ウィンによる軍事クーデターで独裁政権が成立し、1978年、国軍による「民族浄化作戦」(ナガミン作戦)により20万人以上のロヒンギャ・ムスリムがバングラデシュへの移動を強いられた。1982年「国籍法」でロヒンギャ・ムスリムの国籍が剥奪された。

 

根強い民主化運動
 1988年大規模な民主化運動が起こり、ネ・ウィンは辞任した。しかし3000人もの市民が殺され、民主化運動は鎮圧された。ロヒンギャ・ムスリムは民主化運動を支持したために、軍事政権によって強烈な弾圧を受けた。カレン、カチン、シャンなどの少数民族も武装して国軍と戦っていた(2015年一部停戦合意)。1991年、国軍による「民族浄化作戦」(ピータヤ作戦)により25万人以上のロヒンギャ・ムスリムがバングラデシュへ避難した。
 2007年にも民主化運動(サフラン革命)が起き、再び鎮圧されたが、民主化をたたかう人民は沈黙せず、2010年の総選挙で文民政権が発足し、アウンサンスーチーら政治犯が釈放された。
 しかし、軍主導のティン・セイン政府はロヒンギャ・ムスリムなど少数民族への排撃を続けた。2012年、仏教徒の武装部隊がロヒンギャ・ムスリムを襲撃し、ロヒンギャ・ムスリムは抵抗し、ティン・セイン政権(国軍)がロヒンギャ・ムスリムの住居を焼き払い、追放し、20万人以上が難民化した。
 2015年の選挙(ロヒンギャ・ムスリムの参政権剥奪)では、アウンサンスーチーが率いる国民民主連盟 (NLD)が両院で過半数を獲得したが、仏教徒(国民の70%)の反発を恐れて、ロヒンギャ・ムスリム問題解決の道筋を付けられなかった。2017年にイスラム系武装集団が蜂起したのをきっかけに、国軍はロヒンギャ・ムスリムにたいする大規模な攻撃を始め、60万人を超えるロヒンギャ・ムスリムが隣国バングラデシュに避難した。

2・1クーデター
 さらに、2020年11月の総選挙では、NLDが改選476議席の8割を超す396議席を獲得したが、軍部は「不正選挙がおこなわれた」と主張し、2021年2月1日、国軍はウィンミン大統領、アウンサンスーチー国家顧問、市民社会活動家を拘束し、非常事態を宣言した。
 4月16日、民主派(NLD)や少数民族による「挙国一致政府」が発表された。民主化を求めるミャンマー人民と少数民族が連帯し、国内外を問わず、民主化のために、軍事政権と戦い抜いている。

日本での連帯
 2・1クーデターのその日、国連大学(東京)前に在日ミャンマー人1000人が集まり、「国民が望んでいる民主主義を与えろ」と叫んだ。同月21日アメリカ大使館前に3500人、28日にも国連大学(東京)前に2500人が集まった。3月には学生団体「ミャンマー(ビルマ)の民主化を支援する関西学生ネットワーク」が発足し、大阪市のNGO「日本ビルマ救援センター」(BRCJ)も協力している。同月東京外国語大でミャンマー語を学ぶ学生や卒業生の有志が3万8000筆の署名を集めた。
 4月14日には日本ミャンマー協会(東京)の前で80人が「このままなら日本ミャンマー協会を潰す」と叫んだ。同月22日には日本財団ビル前で、「日本財団は国民を殺す国軍を育成している」とデモをおこなった。24日には日比谷公園で100人以上が集会を開き、霞ヶ関をデモ行進した。同月「ミャンマー緊急支援チーム21」(今村真央代表)が発足し、これまでには5500万円の支援金が寄せられた。
 5月名古屋で150人のデモ、6月には静岡市で150人のデモ、7月には富士市の正法寺で、「ミャンマー人道支援パネル展」が開かれている。
 ロヒンギャ・ムスリム問題の発端は日本とイギリスに責任があり、現政権(国軍)の背後には日本などの政財界がおり、日本の労働者市民の責任あるたたかいを必要としている。
                          (参考:2017年12月以降の『北陸中日新聞』切り抜きなど)

つづく
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