トトの絵が昭和な色使いになったので、今度の絵はは色使いに重点を置いて描くことにした。できればアンドリュー・ワイエスのような乾いて渋い色調になると理想だ。
で、いろいろ題材を探していると、我が家の畑のトマトが収穫時期を逃し、いい具合にしなびていたのでこれを描くことにした。パッツンパッツンのトマトの赤から少し白っ茶けてきたところで、背景の草むらはすっかり枯れてしまっている。
色の具合はいい感じになったが、トマトと枯れた葉っぱや蔓、背景の雑草とそれぞれにタッチが違ってしまったのは、まだまだ僕に実力がないので残念な結果になってしまっている。
極論になるが、絵は突き詰めるとどの色をどの分量でどこに置くかですべて決まる。何が描いてあるか、どういうメッセージが込められているかというのは所詮は二次的なものだ。これは絵に限られたものではなく、表現という行為全体が突き詰めると同じ理屈になる。
音楽ならどの高さの音符をどのくらいの長さ、どこに配置するかで楽曲は決定する。その出来不出来がすべてで、それがうまく行かなければいくら言い訳しても駄作である。小説や詩だってどの言葉をどこに使うかですべては決まる。うまく考えたからうまく表現できるというものではないが、その逆にうまく表現することができれば、それはうまく考えることができたということと同じである。