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小説  「人生最後の戦い」(後編)  文科系

2015年05月07日 05時13分44秒 | 文芸作品

 さて、もう一人のお嫁さんのこと、家出の原因になった経理委譲問題は、心配というよりも俺にとっては恐怖と言えるものだ。お嫁さんのアイちゃんもやる気満々で我が家へ通ってきているのに、この数ヶ月でまだ一割も委譲は進んでいない。なんせ、週一日通いがなかなか週二になっていかないのだ。俺が理にあふれた説得を試みてきたはずなのに、彼女がどういう答えを返し、どんなやりとりになってきたか。
「まだ私がやりたいんだよ」 
「やりたいって…… 、何度も言って来たように、万一あなたが脳梗塞とかで倒れたらと思うと、僕は恐怖に駆られるんだけど」
「その時は、その時。彼らがやってくよ………!?」
 と、こんな調子ばかりが続くのである。この問題についてははっきり言うと、賢いはずの彼女が何を考えているのか、俺にはさっぱり分からない。まるで、いつまでも居座る創業社長によくある会社、仕事の私物化か、「我が亡き後に洪水の来たれ」というエゴ丸出しのような。ちなみに息子は、三つの美容院を一つの株式会社組織で経営し、年商一億を越えるお金の出し入れはもちろん、株式会社設立実務などさえほとんど彼女が中心でやってきたはずだ。よって、代表取締役である息子に対してはもう一人の取締役による完全な過保護。だから俺の心配は大きく、このままでは行く先が恐怖なのである。七十三歳の老い先短い俺の余生で最後に残った喉のトゲだ。
〈この人の理解を俺は間違っていたかも知れない。意外に自分本位なところがあるのに、持ち前のような勤勉さに目が曇らされていた?〉
 俺の生まれて初めての家出という奴も、こういう経過を巡るある夜の喧嘩の果てに、売り言葉に買い言葉の結末として起こったものだったのである。 

 この問題に、ある朝三度目だったかの手を付けた。今度は無駄な言い合い、すれ違いなどを避けるため、文書を用意して。秋の朝まだ暗い五時起きで、あれこれ工夫してキーボードを打ったものだ。
──何回か話してきたことを今一度きちんと伝えるのに、文書を書くことにしました。このごろ眠れない夜には、このことが最も大きな原因になっています。
 自営業は夫婦で足らない所を補いつつやっていくのが一番。特に経理などは、家族がやると安心できるわけですよね。今二人は結婚したばかり。アイちゃんは完全にフリーで、ケンを助ける気もあるし、事務の力もあるとあなたから聞きました。こうして僕は「今がチャンス」と思っている訳ですよ。どういうチャンスかという説明が難しい所なのですが、こういうことかと思います。
 会社に関わって貴女が持っている立場、能力を、できるだけ早く彼女に譲って、そのうえで彼女にもっと大きく育ってもらう絶好のチャンスだということです。早く譲るほどケン夫婦の会話も増えるはずです。そして、ここが肝心な所ですが、あなたはと言えば、このように彼女を育てることができる絶好の立場、またとないチャンスのど真ん中にいるのですよね。これが上手く行けば、彼らに必ず起こるであろう商売上の危機、夫婦の危機をも救う財産になるかも知れない。
 さて、この問題を彼女の立場から考えてみましょう。もちろん今は「義母さんの仕事をいずれ私が全部継いでいく」とは思っています。が、今譲るなら砂に水がしみこむように入っていくはずだ。ケンの経歴の中で最も美しく晴れやかな店ができた一つのピークの時でもある。名古屋の一等地にできたばかりのあの店を見た後、アイちゃんがケンを見る目が、ちょっと見上げるようになったというか、そんな仕草さえ見えた気がしました。
 ところが、これが子どもでも生まれたらどうでしょう。新しいことに挑戦するなどとは、なかなかならないものです。若さっていろんな野心もあるもの。それを早く発揮しようと、四ヶ月前から彼女は構えていたかも知れません。三十ちょっとならまだ十分若い、長い人生から見れば一刻も逃してはならない貴重な時です。──
 さて、俺の、この渾身の文書を彼女が読んだ後、二人の話し合いはどうなったか。
「譲っているところだし、子どもが生まれても必要なときには人はやってくもんだよ」
「四ヶ月経っても週一日通いでは、そうは思えないんだけど……」
「委譲が、嘘だというの? そして、私から一つ残った生き甲斐を取り上げるというの?」
 これは言い掛かり。俺の話をねじ曲げている。
「生き甲斐を取り上げるって、……… むしろ、老後の大変な生き甲斐になっちゃってるから心配なんだよ。一刻も早いほうが彼らのためだと言ってるだけだ」
「譲ると言ってるじゃない。今彼女を育てる必要って、そんな大した仕事じゃないよ」
 これは言い逃れである。自覚してはいないのだろうが、自分中心でやり続けて行きたいだけだ。
「大した仕事かどうかも、彼女自身がこれから考えてくことだよ。今の仕事を全部立派に譲ってから、あなたと二人で分担し合っていろいろ手を広げて行ったっていいじゃないか。店の花飾りとか、宣伝や求人の仕方とか、若い人のアイディアが出て来るかも知れない」
「偉そうに口出すのは止めてよ。会社からすっかり手を引いたあなたに、そんな資格はないんだからね!」
 こんな威圧的もの言いも彼女の持ち前の癖の一つなのだが、威圧は威圧でしかないのであって、この場合はさらに内容的にも一蹴できる思慮の足りぬものだ。
「いや、資格はある。借金の担保を出している保証人だ。言わば株主にも等しい最大の発言権だよ」
 言葉で書けばこんな言い合いだが、こんな大声の間には例によって無数の脱線、非難が混じって来る。俺の一言に大音声の三言四言が返って来るといういつもの調子で。次々とあー言えばこー言うは流石だが、このことに関する彼女の言葉は、どう転んでも無理筋ばかりと、俺は感じなおすだけのこと。そのせいで彼女の声も大きくなるのだ。俺はと言えば、心の準備を何度も重ねてきたことだから自分を抑えているのだけど、それでも我が家の北の道路からは俺らの声は丸聞こえだったろう。せっかく文書にしてまで前進を望んだのに、その苦労も台無しになってしまった。こうして、喧嘩が激しくなればなるほど余計俺の心配、恐怖がさらに増えただけで、寝付けぬ寝直しのベッドに虚しく帰って行ったのだ。

 ところが、この論議直後から事態が一変した。この後数日間の二つの重大変化から、分かったことである。一つは、月一回の税理士来訪日に、初めてアイちゃんが同席していたこと。今ひとつは、彼女が通ってくる日が増えて、あれこれと話し合っている時間が増えたことだ。連れ合いが俺の言い分を認めたことは、俺には明らかに思えた。そう言えば、論争の時にこんな弁解をしていたなどとも思い出したものだ。「今の店が軌道に乗ったら、完全に譲るよ」。その時はこの言葉を俺はその場逃れの一つとしか受け取れなかったのだが、どうやら山は動いたようだ。

 それからさらに何日か経ったころ、俺はなにげなく彼女に声をかける。「アイちゃん、来る日が増えたんだなー」。平然と彼女も答える。「うん、ちょっとね」。
 ただ、これらの変化を娘夫婦に話したが、連れ合いの性格や経過を詳しく知っているからか、全く信じくれなかった。が、俺が正しいことは明らかなのである。

(終わり)
コメント (2)
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