病院をでた加代子は、胸の初診のときを思いだしていた。
確かにレントゲンは撮った。「何ともないね」ちらっと見て、七十近いその院長は言った。加代子が診察のために上着を脱ごうとしたときは、
「脱がんでエエ。何ともないんだから。そんなに痛くもないでしょう?」
加代子は、何だか自分が悪いことでもしたように感じたものであった。「すみません」、恥ずかしいような気持で衣服を直しているとき、そのころ習慣になりかけた一言がでた。 それから三週間、痛みはいっこうに引かなかった。それで、加代子の生活は全く変わってしまった。自慢の早足が遅くなった。犬の散歩をさぼる日がではじめ。その距離も短くなった。急な動きを避けるので、動作がのろくなった。これらのことをくよくよするうちに、感情も頭脳も鈍になってきた。心が生気を失うと、人に対しても何か卑屈になってきたようだ。身体、心、交友などが悪循環しながら、自分が破壊されていくように感じた。これに対して、命を賭けるような思いで、加代子は闘ってきたのであった。
痛みがほとんど引かないままに、こんなことが三週間以上も続いたのである。
いま、歩きながら、これらすべてがゴチャゴチャに頭に浮かんだ。これから何かを、どうしようと考えるよりも、取り返しがつかぬものが悔しいという感じだった。とにかく、明日の院長診察日に、行ってみよう。混乱した心のうちで行ったり来たりしながら、思ったことはこれだった。
「骨折だったかね。しかし、肋骨骨折の治療は打撲とそう変わらんから。でも悪かったねぇ」
その院長はそう言うと、うしろ向きになって、カルテを書き始めた。
加代子には、彼の詫びのことばが意外だった。そして、そのことばにほっとしたような思いから、思わず、こんなふうに語り出していた。
「先生、この三週間、必死だったんです。痛さをかばっていて、やろうとしていることが何にもできなかった。犬の散歩も。庭仕事も。速く歩こうとすることも。自分が全くだめになっていくようでした」
院長のペンが止まった。そしてほんの少しの間をおいたあと、ゆっくり椅子を回転させ、加代子の顔を見つめて、たずねた。
「眠れんかったかね」
「はい」
「朝、よく夢でもみるかね」
「はい」
「自分がばかになってくようなふうかね」
「はいっ」
「うん。私も七十四だ。自分が、たったの一日で年取ったなぁと、つくづく感
じる日もあるよ。骨折は早く治さんとな」
型通りの処置を受けて、加代子は病院を出た。
ムクゲの、あふれて落ちてくるような花と葉っぱが、加代子の目にとびこんできて、まぶしかった。