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九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

ドーア本あとがき、「米中関係」で「挑発」   文科系

2016年10月08日 03時04分30秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 今紹介している、中公新書、ドナルド・ドーア著「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(2012年6月第五版)のあとがきほとんどを抜粋してみたい。これを読めば、この本が日本の民主主義信奉者にとっていかに大切な書であるかが分かるというもの。


『「序文に代えて」で書いたように、一九四五年は正に、「終止符を打って再出発」の時期だった。人類同士が7000万人を殺した戦争に対する反省はそれくらい深かった。
 将来、金融化経済の不合理さ、不公平さに対して反省する時期は来るだろうか。同じく7000万人を殺さないで。歴史の教訓があるとすれば、「不可逆的に見える傾向でも、永遠に続くことはない」、であるし「大きな戦争がなければ大きな社会変化もない」である。
 そう考えると、どうしても世界の軍事力、外交力のバランスという現実にぶつかる。本書で描いた日本経済のアングロ・サクソン化は、米国が西太平洋における軍事的覇権国家であり、日本と安全保障条約を結んでそこに基地を持ち、その基地を移設しようとする内閣(たとえば鳩山内閣)を倒すくらいの力がある、という事情と密接な関係がある。
 詳しく論じる余地はなかったが、三、四〇年も経てば、西太平洋における覇権国家は中国になっているだろう。2010年、北朝鮮が韓国の延坪島を砲撃した。世界的な非難が広がる中、アメリカは黄海での韓国との合同軍事演習に航空母艦ジョージ・ワシントンを派遣した。この空母の航入を、中国は一時激しく拒否した。後で認めることになるのだが、この事件は長い冷戦の始まりにすぎないだろう。米ソの冷戦は半世紀近く続いた。熱戦にならず、何千万人もの犠牲者を出さずに終わったのは、ゴルバチョフが東中欧における米国の覇権を認め、「負けた」と手を上げたからだ。
 今度は半世紀も要さないだろうが、中国が勝ちそうだ。なぜそう思うかと言えば、次の条件を勘案しているからだ。
 ○ 今後の米中の相対的経済成長力
 ○ 政治的課税力ー国庫歳入の成長力
 ○ 国威発揚の意思の強さー軍事予算拡大の用意
 ○ 人的資源・・・・・・・・
 西太平洋における覇権の交代はほとんど必然的だと思うが、それについての大問題が三つ。
①アメリカにゴルバチョフがいるか、である。それとも、何千万人もの死者が出そうな実際の衝突、つまり戦争の勝ち負けに決済が委ねられるだろうか。
・・・・・・・・・
③60年もの間、日本を行ったり来たりし、日本人の友達が多い私にとって大変関心が高い問題だが、土壇場になっても、日本は依然として米国に密着しているのか。独立国家として、米中が何千万人を殺しかねない衝突に突き進まないよう、有効に立ち回れるのかどうか。

 「新書」の目的が、挑発的な問いかけで読者を考えさせることだとしたら、挑発はこのくらいで十分だろう。このあたりで筆を置いていいと思う。』


 これまで2度にわたってここに紹介し、後は3度目が残っているこの本によれば、「アメリカではこうだ」という理屈の下に、日本が米国共々経済から外交、軍事にいたるまでいかに危ない橋を渡って行きつつあるか。そのことが、日本経済最新変化の解明を通じてとてもよく分かる本だとつくづく考え込まされている。
 なおこの著者は、「ロンドン大学LSE」を出て、そこのフェローの資格を得ているイギリス人。かつ、若いころの東大留学時代(江戸時代の教育制度を学びに来た)からの日本オッカケでもあって、日本文学者ドナルド・キーンのマクロ経済版のようなお方だ。本書を書き上げたころは85歳と推定されてなお、この「日本語」健筆。本書中には、60年前の日本にこんな生き生きとした「論壇」があったとして、こんな下りもあった。
『一方に、「岩波文化人」(私の親しい友人であった丸山真男や加藤周一や、まだ珍しく元気であった鶴見俊輔をはじめとして)、他方に、彼らを「進歩的文化人」と野次って、その愚かさを攻撃する「保守派」の福田恒存や江藤淳など、その間の論争を懐かしく思い出す』(P109)
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日本の男と女、この文化の異なり  文科系   

2016年10月04日 00時26分18秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 これは、別のエントリーに付けた僕のコメントに書き足したものである。いつものように、補足修正して転載するということだ。

 いらんお節介だが・・・  (文科系)2016-09-30 15:28:10
 この随筆は、同人例会の合評でかなり話題になった。8月2日のここに載せた「随筆 男女文化度の差」の合評である。ただ、書いてある主内容は大変難しいものだ。とくに、以下の結論的下りが。
『 一つは、文化系でしか扱えないものに対する(日本男性の)感性の不足。今一つは、これの裏面として、目に見え手で触れるような物事にしか興味を持てないこと。一例を挙げれば、同じ文章系でも男は歴史、文学は女というような』

「同じ文章系趣味でも、男は歴史、女は文学」と、どうしてなるのだろうか。これは、各国文学系、史学系、哲学系とあった旧帝大系文学部で学んだ時代からの僕の長年の疑問であった。史学系と文学系と、この二つの違いは、「文学はフィクション、歴史は事実」ということのようだ。ところが、この「フィクション」、「事実」が以下のようにいずれも誤解されている場合がほとんどだと思ったもの。

 「文学はフィクション」というのは、文学とSF、推理物、時代劇小説などとを混同し、絵空事という感じ方があるようだ。他方「事実」の捉え方もどうもおかしいと感じる。人間の心も含めた事実を扱うのは、文学者、歴史家、考古学者、心理学者、哲学者らであって、並みの彼らならもの凄く専門化された領域に没頭し、そんな個々の領域だけでは素人には面白くも何ともないはずなのである。よって、人類史の事実を調べ、語っているような人でも、案外その傍らに「変な人間論」を堂々と侍らせていることも多いようなのだ。そして、このことと男の文学軽視とが実は重なるのだと僕は密かに観てきたもの。

 問題は「人間の心」なのである。これは当然、目には見えず、手では触れないという性質を持つ。つまり、言葉、文章でしか表現しようがないものである。本物の文学とは、こういう物を扱う「本物」のことであるという以外に、定義のしようがない。よく読まれるSF、推理物、時代小説などフィクションの典型が、そのままで文学ということではないということだ。

「フィクション(という形式)を嫌って、人の心まで自分から離してしまう」

 これが日本人男性における、文学嫌いの正体なのではないか。としたら、男は心(らしい心)が苦手と、そんなことが言えると観てきた。目に見える仕事と、結果を出すべきとされたという意味で過労死自殺が出るほどの世界一の人間関係との中で、いつの間にかこうなってしまったと言ったら、言い過ぎだろうか?
 以上のことを、同人誌女性諸氏に説明を付けた。そして、はっきりと分かって貰えたと、今は確信している。それぞれの夫を改めて見つめて、かつ文学に通じている女性だからということなのだろう。
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ある書評② 社会、政治、教育も「金融化」   文科系

2016年10月01日 10時22分01秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 ドナルド・ドーア著「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(中公新書、2011年10月初版)を要約している。その第二部は、金融化が社会、政治、教育、そして学者たちをどう変えたかという内容。これがまた4節に分けられていて、各表題はこうだ。①社会を変える金融化、②金融化の普遍性、必然性?(疑問符が付いている事に注意 文科系)、③学者の反省と開き直り、④「危機を無駄にするな」(括弧が付いている事に注意 文科系)。

 第1節では、格差、不安の増大、最優秀人材が金融にだけ行く弊害、人間関係の歪みの四つに分けて論じられる。
・「格差」では、06年のゴールドマン・トレイダーら50人のボーナスが、一人最低17億円だったという例を28日のここで紹介した。こういう強食の背後には、無数の弱肉がいると解説を付けて。(この点については、28日拙稿を参照願いたい)
・「不安の増大」では、こんな例が良かろう。日本の国民年金掛け金未納者が38%にのぼること。日本で新たに導入された確定拠出年金が、10年3月末の110万人調査で63%が元本割れとなっている発表された。これらの人々の老後はどうなるのだろうか?
・人材の金融集中では、2010年8月の日経新聞広告を上げている。
『野村、「外資流」報酬で新卒40人採用へ 競争率16倍 専門職で実績連動 11年春、初任給54万円』
 マスメディアのライターからも、大学人やフリーライターとかジャーナリストらがどんどん減って、金融アナリストが急増している。
・人間関係の歪みでは、情報の非対称性(情報量に大差がある2者ということ)を利用して起こる諸結果から、「人をみたら泥棒と思え」と言う世の移り変わりが説かれている。

「金融化の普遍性と必然性?」の要は、金融に特化する先進国に不当な世界的優位性を与えているということである。そこから、西欧がアメリカを追いかけ、今日本がつづき始めた、と。ただし、主要国の家計に占める株と証券との割合は05年でこうなっている。アメリカ46・6%の6・7%、ドイツ23・7%の9・7%、フランス28・0%の1・4%に対して日本15・0%の4・0%である。
 この程度でもう100年に一度のリーマンが起こって莫大な公金を注ぎ込まざるを得なかったとあっては、これで儲けるしかないアメリカがいくら頑張っていても金融立国はもう駄目だという文脈と言える。上記4国の証券%合計は21・8%となるが、1980年のこれは合計34・9%となっていた。4国で割れば、この25年で8・7%から5・5%へと家計における証券保有率は大幅に低減したという事になる。ただこれは家計に占める率であって、世界から金融業者に掻き集められた金はカジノばかりに膨大に投入されているということである。

「学者の反省と開き直り」は省略させて頂く。作者自身も嘲笑的になりそうになる筆を押さえつつ書いているようだし。

「金融危機を無駄にするな」に括弧が付いているのは、掛け声だけという意味である。アメリカの妨害でちっとも進まないからだ。
 リーマンショックが起こって、「100年に1度の危機」と叫ばれた08年秋のころはアメリカも大人しかったようで、金融安定への不協和音はゼロだったとのこと(ただ、この「危機」の長期的根本的意味が一般には3割も理解できていたかどうか、僕はそう思う。)ところが、国際機構をきちんとして罰則を入れるようなものは全くできなかった。決まった事は、G7よりもG20サミットが重視され始めて、保護主義を排し、経済刺激策を取ろうという程度だった。IMFとこれによる規制との強化とについて、新興国と西欧とがかなり主張して端緒についたはずだったが、その後はほとんど何も進まなかった。
 ここで作者は、世界政府、国際制度作りの歴史などの話を起こすことになる。特定分野の国際協力機関は20世紀初めの国際連盟やILO設立よりも前に12もできていたと述べて、「万国郵便連合」などの例を挙げる。
 同じ理屈を語って日本人に大変興味深いのは、日本の戦国時代統一の例が語られている下りだろう。
『日本が16世紀の終わりに一つの国になったのは、信長、秀吉、家康の武力による統合と、幕府という統治制度の意識的な創出が決定的だった』(P132)
 アジア通貨危機やギリシャ危機は、大国金融が中小国から金を奪い取る金融戦争、通貨戦争の時代を示している。そんな金融力戦争はもう止めるべく、戦国時代の戦争を止めさせた徳川幕府のように、金融戦争に世界的規制を掛けるべきだという理屈を語っているのである。IMF(国際通貨基金)のイニシアティブ強化以外に道はないということである。

 金融の国際制度とこれによる執行力ある万国金融規制についてさらに、前大戦中から準備されたケインズの国際通貨、バンコール構想も解説される。が、これはドル中心にしようとのアメリカの終戦直後の実績と強力との前に脆くも崩れ去ったということだ。ドルが基軸通貨になったいきさつ説明なのである。
 以降アメリカは自国生産量より4~5%多く消費でき、日本や中国はその分消費できない国になったということである。それぞれ膨らんだドルを米国に投資する事になってしまった。その意味では、中国銀行総裁、周小川が09年に「ケインズ案に帰るべし、新機軸通貨、本物の国際通貨の創設を!」と叫び始めた意味は大きい。中国は今や8000億ドルの米国債を抱え、不安で仕方ないのであろう(この8000億は現在では1兆2500億ほどになっている。文科系)。中国のこの不安は同時に、アメリカにとっても大変な不安になる。「もし中国が米国債を大量に売り始めたら。国家、家計とも大赤字の借金大国の『半基軸通貨』ドルは大暴落していくのではないか」と。周小川中国銀行総裁が「本物の国際通貨の創設を!」と叫ぶのは、そんな背景もあるのである。
 なお、これは私見の言わば感想だが、アメリカが中東重視から西太平洋重視へと世界戦略を大転換させたのは、以上の背景があると観ている。中国に絶えず圧力を掛けていなければ気が休まらないのだろう。
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米大企業社長たちはこうして「金融の馬車馬」に    文科系

2016年09月28日 12時45分30秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 以下は、24日エントリー、ある本の要約①の抜粋である。ドナルド・ドーア著「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(中公新書、2011年10月第一刷発行)。今後ここで、3部構成のこの本にあわせて、②、③と要約していく予定だ。この本の内容は、僕が10年ここで新たに勉強し直しては原稿を書き続けてきて、たどり着いた現代世界の諸不幸の大元の解説と言える。
 この本に展開されていることは、日本人にはなかなか書けないもの。ここに描かれた動きが日本で目に見えるようになったのは最近の事であるし、この最新の動きは、英米経済の動きと比較研究してはっきりと見えてくるというもの。作者は、イギリス経済学の伝統を学び継いだ上で、日本江戸期教育の研究目的で東大に留学され、以来熱心な日本ウォッチャーを続けられたというお方。しかも、この本自身も自分の日本語で書かれているようだ。訳者名が付いていないからである。
 以下は、その第一回目の要約のそのまた抜粋である。世界経済がこのようになったからこそ、今の世界の諸不幸が生じていると、そういう結論、大元解明のつもりである。


『米企業利益のうち金融利益の割合が、1950年代までは9・5%であったものが急増して、02年には41%と示される』

『機関投資家の上場企業株式所有シェアがどんどん増えていく。1960年アメリカで12%であったこのシェアが、90年には45%、05年61%と。そして、彼らの発言力、利益こそ企業の全てとなっていった』

『企業から「金融市場への支払い」が、その「利益+減価償却」費用とされたキャッシュ・フロー全体に占める割合の急増。アメリカを例に取ると、1960年代前半がこの平均20%、70年代は30%、1984年以降は特に加速して1990年には75%に至ったとあった』

『彼らの忠実な番犬になりえた社長は彼らの「仲間」として莫大なボーナスをもらうが、「企業の社会的責任。特に従業員とその家族、地域への・・」などという考えの持ち主は、遺物になったのである。こうして、米(番犬)経営者の年収は、一般社員の何倍になったか。1980年には平均20~30倍であったものが、最近では彼の年金掛け金分を含めば475倍になっている。その内訳の大部分は、年当初の経営者契約の達成に関わるボーナス分である。全米の企業経営者がこうして、番犬ならぬ馬車馬と化したわけだ』

『「証券文化」という表現には、以上全てが含意されてあるということだ。企業文化、社長論・労働者論、その「社会的責任」論、「地域貢献」論、「政治家とは」、「政府とは・・?」 「教育、大学とは、学者とは・・?」、そして、マスコミの風潮・・・』


 最後のこれは、24日には書いてない事。以下のような数字は日本人には到底信じられないもののはずだ。この本の73ページから抜粋した、アメリカ資本主義の象徴数字と言える。
『2006年のように、ゴールドマン・サックスというアメリカの証券会社がトップクラスの従業員50人に、最低2,000万ドル(当時のレートで17億円くらい。〈この記述周辺事情や、最低と書いてあるしなどから、1人当たりのボーナスの最低ということ 文科系〉)のボーナスを払ったというニュースがロンドンに伝われば、それはシティ(ロンドン金融街)のボーナスを押し上げる効果があったのである』 
 これだけの強食がいれば、無数の弱肉が世界に生まれる理屈である。2006年とは、08年のリーマンショックを当ブログでも予言していた史上最大のバブル、サブプライム住宅証券組込証券が頂点に達していたウォール街絶頂の時だった。この結果は、失った家から借金まみれの上に放り出された無数の人々の群であった。しかもこの動きはアメリカのみに留まらず、イタリア、スペイン、ポルトガル等々にも、そこの失業者の大群発生にも波及していくのである。こんな所業を放置しておいて、どうして世界の景気が良くなるなんぞと言えるのだろうか。
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「結論ありき」というトロイ話   文科系

2016年09月10日 10時16分46秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 僕が折角この8月24日に「人間思考の前提、実証、『結論』」を書いたのに、またまた同じこのトロイ話が出て来た。こういう手合いを嘲笑いつつ、その愚かぶりにもう一度重ねて警告しておく。なお、「陰謀論」という言い方もこれと同じ愚かさを示している。

『Unknown (反米保守)2016-09-08 22:08:02
 (前略) 思考実験として仮の話をしよう。小泉純一郎にもうひとり娘がいて、「彼女は日本とアメリカの二重国籍」「自民党議員でひょっとすると次の総理かも?」というような状況であっても文科系氏は同じ文章を書くのだろうか? 民主党だから擁護という結論ありきではないのかと邪推してしまうが、そう思うのには理由がある。
 朝日は慰安婦報道について謝罪した。「自分たちの主張がおおむね正しい」と考えるなら謝罪までする必要はないにもかかわらずである。1か月ほど前でのこのブログ内での話題にもありましたが、岩波や朝日は「大日本帝国=悪」の結論ありきで文章を書き、日本を擁護すべき事実があったとしてもそれを握りつぶして書かないというようなことが現在に至るまで平気で行われてきたのではないか……それと同じ疑惑である。』

『つまらん話 (文科系)2016-09-09 20:22:57
 「結論ありき」って、実にツマラン話である。何度言ったら分かるのか。裁判の判決と事実認定を例にとって説明してみよう。
 一つの犯罪事実で、あるいは二つ目の事実で、ある事実認定があって、判決(結論)が下ったとしよう。そしたら、その結論が永久について回ることになると言う理屈である。これでは、法を犯した人に再起の余地が皆無ということになるが。これとても朝日の慰安婦・吉田問題と、あといくつ例が挙げられるのだろう。まして、この朝日事件を即そのまま岩波にも持ってきた。と、こういうことをしたら、逆にこんなこともできるが。

①右翼論壇が犯したミスを2,3上げる。そこで、こういう常習犯という判決(結論)を下す。
②以降もう①の人は立ち直らせない。永久結論が出たと言い続ける。
③その間、「左」の人の(例えば「朝日」の)そういうことは一顧だにさせない。さらに、実証は何もないのに、この同類「右翼結論」を他へも際限なく広げていく。こうして全ての右翼論壇を「結論ありき」と断言する。

 どうです? 馬鹿でしょ?? こういうことが許されるのですな、そもそも正しいのですか? 人間相手に何かの「結論」を押しつけることは裁判所しかできないのです。一般には、無罪推定ですから。それを「一事が万事」ってやったら、こんなやり方から自らを守れる人などいるわけがない。つまり、「結論ありき」と決めつける態度そのものが、自分を論理としてその外に置いた、他人には誰にでも適応できるという意味で便利だけど卑怯この上ないやり口なのである。ただ馬鹿馬鹿しいだけのそれ。』
  
『思考パターンの問題 (文科系)2016-09-10 08:13:28
 反米保守さん、思考パターンの問題だから、これは大切なことです。いつもトロイ「結論」を出すことになり、僕のような人にはいつも嘲笑われることになるやり方、方法論。

 失礼だが、8月24日の拙稿「人間思考の前提、実証、『結論』」を読まれたか? ここに貴方がお使いの「結論」と言う概念まで入っていて、これ自身の説明まであるのだが。
 こういうやり方は右が左に、左が右に、いつでもどこでも出来るのだが、それだけに何の意味もないアホの言葉というだけということ。アホと思わないから、もっとアホ。
 他人や裁判所のどんな「実証」を前にしても、それが気にくわなければ「陰謀論」と返すのも、これと一緒。右の人はこれも良く言うでしょ。やはり主観主義なだけの独り善がり、他派も含めた人間一般の論理としては何の意味もない言葉だけど・・・。』

 さて、それこそここの結論。
【「結論ありき」とか「陰謀論」とかは、全く独り善がりの言葉に過ぎない。こう語るご本人に対して、こう語られた対立する他人が全く同じ言葉を進呈できる理屈になるのだが、そんなことは考えてみることも出来なかったという愚かさをさらけ出している言葉だ。単に主観主義、独り善がりの馬鹿と言うだけのことである。それも、その人の思考一般がそうであるということを示しているから、恥ずかしすぎる言葉ということになる。まー、感情だけあって論理が苦手な右の日本人らしすぎるというところだろうか?】
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生存競争社会とその思想   文科系

2016年08月28日 13時53分28秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 25日の『随筆紹介 「不寛容社会」』に付けたコメントを、大幅に補足修正して、エントリーとさせていただく。何度書いても良い事と思うから。

「対立」の理論化の末に・・・ (文科系)2016-08-28 12:06:41 ドイツは、2度の世界大戦を戦った。兵器の生産力を競う史上初の世界「総力戦」、第一次世界大戦がドイツ社会にもたらした後遺症はもの凄いものだったから、1度目で懲りたはずなのに2度までも。なぜだったのだろうとは、世界でも度々話題になることであって、今の日本こそ何度でも考えてみるべき事と愚考する。ドイツにはこれだけの要素や結末が揃っていたと言われてきた。

①1929年の世界大恐慌で世界中に失業者が溢れていて、国、会社、個人の世界的競争が極限まで厳しくなっていた。エントリーに見る、不寛容社会ということだろう。ちなみに日本も、こういう大恐慌時代への対処として「満蒙開拓」に国家戦略的活路を見出そうとしていた。両方ともが、遅れて発達した「持たざる先進国」と、僕等は世界史で学んだものだ。

②ヒトラーは、膨大な失業者をこのようにして「救った」。軍隊と軍事生産の大増強によって。ちなみに、この事によってヒトラーを支持した最右翼が主婦たちであったと言われてきた。家政を預かる身であってみれば、子どもを喰わせられるということが、こんな時代にどれだけ大きな意味を持ったかということであろう。このことは、この8月17日「中日新聞」の「ナチスの時代を見つめて(中)」で知った。ヒットラー政権下の33年から36年までに、ドイツの失業者は601万から155万人へと4分の1に減り、GNPは5割も増えたと、同記事にあった。

③優生学的な民族優越思想とその敵(ユダヤ、ロマ、障害者、有色人種)を説き、広めて、一つの全体主義社会をまとめ上げた。勿論暴力政治と一体としてこれが進められた。「敵対者」を殺すというのは、最大の暴力である。全体主義は、反対派に対する暴力、抹殺を伴い、それへの恐怖によってこそ強化されていくものと言われる。こういう国家全体主義思想が、上記①②を逆にまた強化していくということだ。よく言われるように、思想は現実から生まれ、その現実を逆に強くもするということだろう。

④以上への、補足として、ある余談をご紹介しておきたい。これも前記「ナチスの時代を見つめて(上)」(16日)で知ったことである。ヒトラー・ドイツから米国に亡命したアインシュタインらの物理学者らが「ヒトラーを倒すためなら」と原爆製造に手を貸した。ヒトラーが出なければ、広島、長崎原爆投下はなかったはずだ。原爆自身はいくらか遅れて生み出されていたとしても。ファッショの時代に入ってしまえば、それへの反対派も黙ってはいないということだろう。皆が野獣になり、究極の対立を演じるということではないか。

 さて、今の世界、日本には、このほとんどが揃っていると思う。以下のように。
①不安定労働者、相対的貧困者が圧倒的に多い先進社会で、人々は景気、株価に一喜一憂している。世帯主の年収は15年ほど前と較べて100万円ほどは下がっているはずだ。失業者が若者に多いので、結婚出来ない男性も増えている。
②武器輸出三原則は放棄され、武器で立ち行く会社もどんどん増えていくことになった。その暴力でイスラムなど世界から嫌われているアメリカへの憎しみを、集団安保強化で日本国自らも引き受けることになったわけだし。ちなみに、兵器生産はいったん始まると後戻りも出来ず膨らんでいくだけだから怖い。縮小すればこの物作り不景気の中ではたちどころに景気が下がり、失業者も増えるから、「行く所まで行くしかない」という性格を持つからだ。この好例がヒトラー、アメリカであろう。
③朝鮮、中国の民族や政治的左派へのヘイトスピーチ、蔑視(丸出し)言動も、当局は一向に押さえる気配がない。北や中国を仮想敵国のように扱いたい人々も多いのだろう。仮想敵が「深刻」でなければ、軍隊増強は出来ない。ソ連が無くなった後のアメリカが「テロとの戦い」を大々的に掲げなおしたように。アメリカはいつの間にか、あの冷戦時代に比べて2倍の軍事費になっている。

 どんな人も、政治家も何も好き好んでこんなファッショ・戦争世界を作りたがるわけではないと、僕は考えてきた。現実と思考・思想との悪循環の中から、時々の政権、最悪の政権でさえ気付いてみたらそうなっていたというようなものというのが実相だと愚考してきた。ヒトラーや東條には確かにそういう人間疎外論では説明できないような思想的能動性があるとも思うが、ある思想というもの自身がそれ以前の社会的諸条件を踏まえてしか広がりえないという意味で純粋に「好きこのんで生み出された」とは言えないと考えてきたのである。

 誰かが意図してファッショを招くというならばかなり分かりやすいが、いくつかの既成事実が積み重なっていつしか取り返しが付かない状況になっていたというものだから、人類愚行は繰り返されたのではないか。とすると、「そういう既成事実」が何かという問題こそ最も重要なことであろうに、そんなことを考える保守政権はごく少ないだろう。それこそが、ファッショを阻止する最大の難問なのではないか。

 とは言え、何という社会になりつつあるのか!   

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人間思考の前提、実証、結論  文科系

2016年08月24日 16時49分33秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 右の方々が僕をよくこう批判される。「結論ありき」とか、「悪い事は何でもアメリカのせい」とか。8月17日エントリー「僕とアメリカ」とか、7月25日エントリー「随筆 ならず者国家」とかはそういうことに応えてきたものだが、改めて標記のことをまとめてみたい。人間の思考というものが辿らざるを得ない道、「前提と実証と結論の相関関係」についてのことである。

 例えば社会ダーウィニズムなどは、感性的で無意識のそういう見方もふくめて、人が歴史的事件を「実証」する際の「前提」となるものだろう。こんなふうに。
① 例えばある人が社会ダーウィニズムよろしく「人は争うもので、戦争は無くならない」と考えているとしよう。これは、人の思考を大きく方向づける大前提になる。

② そういう目で真珠湾不意打ちを見れば、以下のような「実証(的弁護論)」などはいくらでもできる。
A「そもそも西欧諸国は弱肉強食を地で行ってきた。奴隷制度なり、植民地なり、白人優位思想なり」。
B「日本が同じアジア人として虐げられてきた人々を救おうとしただけのこと」。
C「現にルーズベルトは真珠湾を事前に知っていて、そこに日本を突入させた。このように、善意の日本を戦争に巻き込んで敗戦させた。それが太平洋戦争である」
 とこれらは今度は、思考を更に細かく方向付ける諸前提になる。「A~Cそれぞれの目で見たさらに細かい事実」を探しだし、付け足して、これらを実証していくわけである。

③ ①の大前提にも、②のA~Cにも、反対派はいくらでも実証的反論を挙げられる。これらについてはここで詳論はしないが、このブログで僕が述べてきたことなどもこの部類になるだろう。

④  さて、①を持っている人が②、③に出会ったとき、論理として二つのあり方がありうる。③を無視し②だけを取り上げて前と同じ①を言い続けるか、幾分か③を取り入れて①を改変するかというように。前の「①の維持派」は「新たな結論」としての①を相変わらず大前提として今後も太平洋戦争を見ていくことになり、「①の改変派」は改変されたそれを「新たな結論」として、以降太平洋戦争を見ていく大前提にすることだろう。

 さて、結びである。人は実証論議をしているつもりでも、上のように論じているのである。過去に築き上げた大前提や小前提でものを見て、実証し、変わったり変わらなかったりする結論をば更に次の実証の前提にしていくというように。こうして、どんな偉い理論家や哲学者でも、無前提にものを見て実証し、白紙から結論を出すなどということはあり得ない。問題は、その思考が非常に実証的だとか深いとかは何によって保たれるかということになる。よって、これを上記①④とか②③を例にとって論じてみよう。

 ①④に関わって言えば、こういうことになる。こういう人間思考を方向付けるような思考の大前提への豊富な知識が、「意識されたその深さ」がそもそも思考そのものの中身になる。これは、①④の中に、過去の勉強なり論議なりで②③をどれだけ取り込んでいるかなどによって保証されると言える。なおこの取り込みに於いては、日本のことしか知らない人、さらには日本近代のことしか知らない人の①④は、実に脆い、砂上の楼閣である。己の中の無意識の社会ダーウィニズム(的考え方)を意識して、学問としてはこれが正しくないとされていることなども知ったならばこれを放棄することも含めてこういう取り込みが成されねばならない。その意味では、①に囚われ、③を無視して②しか見ていない人というように、②③どちらかしか知らぬ人は駄目だ。これは僕が逆に反対派から、ここの10年で教えられたことである。
 
 最後になったが、「初めに結論ありき」だとか「何でもアメリカのせい」などとは軽々しく言わぬ事である。相手の「それらしい前提、結論」を指摘することなど実に容易なことだ。むしろ、その結論にどれだけの実証、中身(反対派のこれらも含めて)が付いているかをこそ、注意深く見るべきである。以上述べてきたようなこんなに単純な批判言葉はある意味語ったご本人など万人に跳ね返って行くものだし、いかにもご自分が無前提、実証だけと語っているようで単純さの極地である。そんなことよりも、他人の①④や、③を無数に取り入れてご自分の①④の強化に努めることである。本物の学者って、こんなことをずっとやり続けて生きた人のはずだ。

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随筆   趣味 or 「楽しみ」  文科系

2016年05月25日 12時40分40秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  現代日本という国は、庶民の人生の「楽しみ」、文化活動の上で多くの大きな拙さがあると思う。現代日本文化を遡れば、明治と敗戦という二度の文化断絶があったなど不幸な問題も出てくるのだが、例えば、先日お婿さんとこんな会話があった。あれやこれや行ったり来たりの質疑応答を最も簡潔に押し詰めて語れば、生活必要(活動)と文化(活動)というこんな所になるだろう。
婿「お母さんはよく分かるが、お父さんという人は分かりにくい。短く言えばどういう人ですか?」
僕「君が『実行力』を重視するから、それを重んじて話すと、お母さんはこういう人だよね。衣食住に対人関係など生活に必要なことを、短時間で最も上手く片付ける実行力、能力が凄い人、しかも約束はきちんと守って義理堅い。あの苦労した生まれではなかなか入れないような良い大学を出て、普通の男よりも良い給料をもらう共働きも見事にやりおおせた人だしね。」
婿「それはとてもよく分かりますが、お父さんは・・・」
僕「僕が、この年の男にしては家事育児などが相当できることは君も分かるよね。ただ、その実行力では到底母さんには及ばない。が実は、母さんとは違う、母さんにはない或る実行力を持っていると言いたいんだよね。この年で1時間10キロ走れるランニング、一応上級者のギター、同人誌編集長などは、実行力がないとできないでしょ。」
婿「そういうことで言うと、僕はどうなるんです?」
僕「母さん的な力は40の頃の僕よりも男の割にずっと上だよ。ただ、僕的な文化はない。美味しいものがよく分かること、他人を大事にし一緒に楽しみ合うのが大好きなことなどは君の(文化的な)素晴らしい力だと思うけどね。」
婿「すると、僕(の文化活動)もまだまだ間に合いますよね。老後をどう暮らすかということのようだから・・・。」

 さて、本論の文化活動である。日本の文化(活動)は程度が低いと思う。そもそも文化と考えられず、趣味と語って、「仕事」以外は全部「遊び」という発想があるようだ。だから、仕事以外に人生に求めるものの楽しさの程度が低くなっていることを強調したい。まず、本当に楽しい文化って老後の問題と考えたらもう遅いはずなのである。さらに、その楽しさの深浅に関わっては、先ず何よりもこのことがある。マスコミなど文化商売、文化鑑賞に偏っていて、主体的クリエイティブさがない。それに関連してなのだが、こんな程度の文化理解が普通になってしまった。楽しむではなく、実は「楽しまされている」だけ。「自分が楽しければよいでしょ」というのは文化創造の客観性という視点を欠いた低い喜びだとも強調したいし、こういう視点ではオタク文化やギャンブル(文化?)との区別さえもつかないはずなのである。オタクもギャンブルも一面、面白さは凄いはずだから。
 とここまで来たこの先は、かなり体系的かつ総合的思考が必要な難しいことになるから、僕のギターの楽しみ方を例にとって、一つの問題提起として、あるコメントを転載させて頂く。もちろんこの続きはいつか何度も書いていくだろうとも予告させて頂いた上で。

 「音楽」する楽しさについて   2016-05-22 20:55:46 

 ギターでも、ピアノ、バイオリンでも、演奏する楽しさについて一言言いたい事がある。「技術派」と「音楽派」とがあるように思う。
 和音が弾けるような、つまり、旋律を和音で飾りながら弾けるようなピアノ、ギターなど技術的に難しい楽器については、特にこの二派に分かれるのではないかと見てきた。例えばこんなふうに。
①教則本や曲集だけをどんどん上げていくタイプの人は、技術派になりやすいのではないか。急にいざ人前で弾けと言われると、案外弾ける曲がないというような。子どものころから習ってきた人には、案外こういうタイプが多いように思う。
②対する僕は技術は下手くそな「音楽派」なのだが、①の人々と音楽をする楽しさがちょっと違うように見てきたものだ。僕はこんな風に楽しんでいるということで、これを説明してみたい。

 僕の暗譜群25曲は、古いのは習い始めの13年前から、新しい曲でも3年ほど前からずっと弾いてきたもの。それぞれを暗譜群に載せてから、月に最低3周りほどは弾いてきたものばかりだ。その時に僕はこんなことをやってきた。ここの伴奏をこう弾き変えてみようとか、ここの旋律、ここの1音はもっと盛り上げて、もう少し繊細なタッチにしてみようとか。その日の気分に合わせて、気付いたことを色々にやってみるのだが、その中にいつも発見、楽しさがあるのだ。楽譜を見ながら弾く度合いが少なくって、弾きながら曲を聴く度合いが多いから、気付くことも多いのかも知れない。その気付くことを、あれこれ弾き直してみる、試みてみることも大変多くなる訳だ。ここに「音楽」の発見があるように思うのである。「我流」であろうと何であろうと。

 以上に付け加えて、もう一言、こんなことも言いたい。
 ギター演奏の世界ではこういうことが言われているのを聞いたことがある。
「作曲者がこう創ったのだから、こう弾くべき」 この言葉を僕が最初にあるコンクールの選評としてプロ大家の口から聞いた時は、ちょっと驚いた覚えがある。別に習ってきた文学では、こんな常識的格言が存在するからである。
『文学作品は、作者(の意図がどうあれそれ)とは別に、客観的に作者から独立したものとして、読むべきである』

 言葉の芸術と音の芸術とは、違うかも知れない。が、言葉の芸術の方が遙かに客観的意味が分かりやすい。それでも(それだからこそ?)、上のような格言があるならば、音楽ではなおさらのはずだと、そういうことだろう。
 時代が変われば感性、解釈がより広く、新しく、質も変わるのは当然のこと。文学でも音楽でも、有名でもなかった作品が急に脚光を浴び始めることがあるというのはそういうことだろう。

 ただとにかく、技術的に弾いている部分が多い人は、こういう世界からはちょっと遠いと言いたいのである。

 これはまた、時代柄よく言われるような「本人が満足していればよいだろう」という話ともちょっと違う積もりだ。一応客観的中身を持った美の追究、その楽しみということになることのはずである。 

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超安美味ワイン1本   文科系

2016年05月17日 01時47分38秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 ワインを飲んでみたいけど、選ぶのが難しそうだ、そう思っているここの同僚・高齢者の方々は多いと思います。そこで僕のお勧め。この度、後期高齢者になるまで30年以上の晩酌はワインという僕の拙いものですが「安くてうまいワイン探し遍歴」からのお勧めを、お一つ。こんなことをやってみようと思い立ったのは初めてという、そんな感動からです。つまり、拙い僕の推薦ですがということ。

 今ナフコでこういうワインを売っていますが、これが1000円以下で買えるという、お勧め。「マルケス・デ・パニッサ・グラン・レゼルバ2008年」。グラン・レゼルバって、良い樽で1年以上も寝かせた、それも、とても良い葡萄から創った品。こんなものが1000円以下で買えるというのが、まさにこの10年ほどの超不景気で高級ワインが売れないし、外貨がちょっとでも欲しいというスペインならばこそ。スペインワインが今買い時なのです。このワインはどうも、製造者自家詰めではなく樽買いのようなんですが、とにかく美味いんです。円やかなのに良い葡萄の味がしっかりあると言う、高級ワインの顔をはっきりと持っています。これが1000円以下なんて、この30年の僕の晩酌経験からは信じられないという初の経験から言わせていただきたいということ。確かに、保管が悪くって酸っぱい品もごくたまに混じるところが味噌ですが、まー異なったナフコ店で3本ほど買ってきて順に飲んでみて下さい。普通の品なら、フランス・シャトウ物としたらまず3000円以上という品質と、僕の拙い経験からですが理解しました。ついでながら、2000円以下でフランスで名高いシャトウ物が今結構出回っていますが、不味いとしか僕には思えません。「こんな銘柄がこんな値段で買える」というので何本も買ってきましたが、当たりと思ったことは先ずありません。フランスも今大安売りしていますが、安いのは訳ありと考えた方がよいと、これがほとんど2000円以下のワイン専門の、最近の僕の体験。ただもちろん、超高級ワインも飲んだことはありますよ。シャンベルタン・グラン・クリュとか・・・。

 このスペイン物をもしお飲みになった方がいらっしゃったら、是非感想をお聞かせ願いたいです。

 

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僕の世界観に関わって(13) 宗教観  文科系

2016年03月23日 10時53分53秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 新聞などを見ても、宗教欄などはあっても、無神論のことは案外どこにも書いてないなーといつも観てきました。だからこそ、こんな事を以下のように、いつかどこかで改めて論じてみたいと考えてきました。団体が宗教に触れることは案外難しいことですが、個人としてそう論ずる場合には何の差し障りもないから、自由に話せることでもありますし。

 今まで書いてきたことから多分既にお分かりのように、無神論者です。それどころか、霊魂も信じません。もし、人間各人の身体を離れてその霊魂のようなものが存在するとしたら、身体(自身の世界)とは別にそれが生まれた世界というものが想定され、この世のものならぬもの、この世ならぬ世に行き着かざるを得ないことになると考えるからでもあります。こうしてつまり、この世以外のものを僕は信じていないということです。また、霊魂が存在するかどうかというこの問題は、もっともっと普通に論じられて良いことと考えてきました。ここが日本では案外、実質的にタブーのようになっていなかったでしょうか。キリスト教やイスラム教の国とは違って、霊魂を論じる動機、機会も原理的に少なかったからかも知れませんが。こんなところに案外、若者が得体の知れぬ新興宗教、カルトに引き込まれていく原因があったのかも知れないと観てきました。

 宗教と同様に、身体を離れた霊魂が存在するかどうかという問題が、案外原理問題として大事だと観ています。

 なお、無神論というとすぐに出てくるある批判にも、お答えしておきたい。倫理、善悪のようなことはどうなるのか、人生とは食いかつ楽しむだけなのかという批判があります。これに対しては、僕はこう答えます。この世だけが存在すると観ても、人間関係というものがある。人間の倫理とか善悪というのは、人間関係の中から生まれたものだろうと。例えば、孔子が人生の中で最も大切なことは「思いやり」と述べて、恕という言葉をこれに当て、この言葉を「自分が望まぬ事は他人にもしてはいけない」と説明したと、覚えています。倫(理)という言葉も元々はそういう意味だったはずで、仲間とか「人がまもるべき道」とかの意味があり、「人間同士の間でまもるべき道」という意味なのでしょう。これらのことは別にあの世がなくとも、この世自身の中に求められるということです。恕、思いやりって、他人がいるからこういうことはしてはいけない、他人がいるからそれ故こう振る舞うのが善なる、美しいことなのだと、倫理とか善というのは原理的にそういうことなのだと、僕は考えてきました。

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僕の世界観に関わって(12)  幸せの極み  文科系

2016年03月09日 13時17分05秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 こういうのも、人生観を含んだ場合の世界観の一つと解してきました。ご笑覧下さい。度々ここに書いている「ギター遊びの会」が始まって2年目に入ったころのことで、この会の成り立ちがご理解願えると思います。
 
『「僕の幸せの極み」のご報告  文科系  2009年4月29日 文化一般

 ここでも以前何回か書いてきたが、「ギター遊び、飲み会」が26日に終わった。春夏秋冬とやってきて、今回で5回目。今回の報告をしてみたい。ギター教室の先生がやっているブログに参加者の一人がこの材料でエントリーしてくれたら、たちまちにして他参加者全員のコメントが寄せられた。僕は全員のコメントの後に今、コメントをし終わったところだ。そのまま紹介したい。

まず投稿から。意外にも、初参加の女性が書かれました。

【 ギター遊びの会に参加してきました!
 こんにちは!うえちゃんです。昨日、待ちに待ったTちゃん(僕のことです)ちの「ギター遊び」の会に行ってきました。楽しかったし、おもしろかったし、おいしかったし・・・何からお話しましょうかしら。

 Tちゃんちに着くや否や、お手製のごちそうが次々と運ばれ、ビールにワインに差し入れ(?)の日本酒に・・・・そして仕上げはお寿司!中でも、鮭ときのことセロリの白ワイン煮は香りも味も絶妙でした。
 宴もたけなわ、6人のギター弾きが入れ替わり立ち代わり、ステージ(?)へ行っては首をかしげながら弾き合いました。(笑) みなさん、なんとレパートリーをたくさんお持ちなんでしょう。これがわたくしの率直な感想です。

 歳を重ねるってこういうキャリアを積むことなんだ、とつくづく感心するとともにわたくしも目指していく対象を発見した一日でした。

 ここ半年、同じ曲を弾きつづけ、新曲に挑戦しなかったのですが、この会に参加できたことをきっかけに、もっともっとレパートリーを広げたいと思いました。
 Tちゃんから宿題ももらったので、今度はきちんと披露できるようまた練習いたします。
 Tちゃん、楽しい会を提供してくださりありがとうございました。のぶりんさん、akkyさん、きんちゃん、そしてTちゃんのおともだちのHさん、お世話になりました。
 こんなに楽しい会なら、また参加させていただきたいです。  (うえちゃんより) 】

 次いで、僕とともに最初から参加している主催者の片割れ・のぶりんさんのコメントです。

【 うえちゃん、遠いところから「ギターお楽しみ会」に参加してもらってありがとう。
昨年3月Tちゃんの好意で産声を上げたこの会も今回が5回目、でもこんなに笑い転げて楽しく盛り上がったのは今回が初めてかな。男性軍3人が美女3人に囲まれご機嫌になり飲みすぎて思ったように指が動かない。特にホストのTちゃん、前日からの手料理の準備や当日の我々への気遣いなどで酔いが回ったのか得意の暗譜が……、失礼ながらこれには笑った、笑った。
きんちゃんコメントにもあったようにこの初老の二人組、今では無二の親友としてのお付き合い、これもギターの取り持つ縁ですよね。うえちゃんの『歳を重ねるってこういうキャリアを積むことなんだ、とつくづく感心するとともにわたくしも目指していく対象を発見した一日でした。』の一言、とても嬉しく感激です。

さてこの会を立ち上げ、自分の楽しみとして心からの世話をしてくれているTちゃん、そしてきんちゃん、Akkyさん、Hさん、うえちゃん、皆さん、本当にありがとう。 投稿 のぶりん 】

最後が、さっき送った僕のコメント。
 
【 皆さんからの身に余るお言葉の数々、嬉しいことでした。
「音楽に食事にお酒。それも前2者は参加者の手作り。それを男が中心になってやる」。
戦後日本では、女性はともかく、男性の文化水準が低いのではないかと、ずーっと思っていました。音楽でも美術でも、その鑑賞者の数に比してアマチュアの「造る人」がいかにも少ないとも。それで、人生の本当の楽しみを知らない人が多いのではないかとも。そして、いつかこういうことを「男の力」でやってみたいと思い続けてきたのでした。(女性が造るこういう場所には何回かでたことがあります。)

講師婦人に顔合わせをされた男3人で去年の春から始めました。クラシック・ギターというこの「大変面倒だけど、美しく、表現領域が広く、奥の深い楽器」をやっている人には「それなりの人々が多いんだな」と、これが第1の感想。だんだん増えてきた女性たちを見ていても、同じことを感じたものでした。この教室には、そういう人々が多いのかも知れません。コウシさんの人柄もあるのでしょうね。僕はコウシご夫妻(先回ゲストでお呼びしました)も大好きです。
家の掃除なども自分で見直しながらやって、例えば花も自分で(トイレのコデマリは切ってきて水切りをし、花瓶として織部焼きの徳利を選び)飾りました。みんながどんどん協力してくれますね。今回もこんな提供がありました。白ワイン持参の人、蓬莱仙の純米吟醸酒持参の方、ハーブの花束とか、自家製野菜持参の方も。実にすてきなことです。
今回は角煮が失敗でした。肉もジャガイモもちょっと固かった。圧力釜とレンジの使い方が甘かったのですが、時間の関係でそのまま出してしまいました。すみません。修業して、秋にもう一度出すつもりですが、その時はうならせてみたいです。】
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ネットウヨク諸君へ   文科系

2016年03月08日 05時10分08秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 アクセス数はそれほどでもないのに、6,7日の閲覧数が2000を越えています。6日が2,242で、7日が2,296。しかも、4日と7日が、エントリーなしなのにこの数字!
 よって、閲覧数が、アクセスの十倍を遙かに超えるというこの多さの原因は、明らか。アクセスした多くない人々が、過去ログを色々遡って読んで下さった。それだけ、直近のエントリーが興味深かったと推察できて、とても嬉しいものがありました。

 

 さて、そんな読者の中には、ネトウヨ諸君も多いのでしょう。ここには、ネトウヨ諸君が入れ替わり立ち替わり、どんどんやってきますから。9条という名を付けたブログだし、次のような彼らが「許せない」と応答しやすい問題を扱うことも多いからです。
 慰安婦初め朝鮮と日本の歴史
 南京大虐殺はじめ日中関係史
 満州事変から始まるアジア・太平洋戦争史や天皇の戦争責任
 最近では福島や辺野古、彼らがお好きなアベノミクス
 などなどと。

 ところで、彼らの反論はいつも同じ。その同じ反論を、何度か論破しても、いろんな人物が入れ替わり立ち替わり同じ文章で蒸し返して、応えてくる。表現、口調や、その単純な反論パターンまで同じなのだから呆れてしまうが、ネットウヨクとの自覚もなく実質そうだという人も含めて、自分らの世界にだけ流布している「文献」だけを読んでいて、それで答えてくるのが明らかと分かるから、笑えるんです。その文献も、歴史学者などのものはほとんど無く、自分で充分に考えてこれを読み、答えているという形跡もまるでなし。「お得意のその文献」さえよく読んでいないようで、「あれ読め、これ読め」という応答コメントが多いのは要約さえ出来ない事を示していると思われるんです。つまり、誰かさんの受け売り、鸚鵡返しですらないから、笑えすぎてまさに抱腹絶倒。なんです。それも、状況の進展とか、新発見や新資料の紹介とかも無視した一昔前の反論論拠が多いんです。そう指摘すると、そんな指摘にはすぐに沈黙が帰ってくるだけですし。つまり、相当に反論を続けて、こちらが新たに勉強し直す必要が僕自身に生じた例さえ皆無なんです。このブログを始めて10年、その初めの5年ほどで僕が勉強し直した内容でほとんど答えられる。

 でもまー、こんなに不勉強でも、「知識」をちょっと囓っただけでも、それでもって他人に公開反論してみようとなる世の中は、民主主義的で良い時代とは言えましょう。ただ、相対的燕雀が相対的鴻鵠に対するとき、負けるとすぐに暴力的言辞に及ぶから、これが困ったものです。
「チョンは黙っておれ!」
「死ね!」
「このシナやろう!」
「日本から出て行け!」

「そんなことを語る人は日本人ではないな。在日ですか?」

 こういうのが現れると、僕もついつい言葉が汚くなってしまう。「あんたは日本人というだけが誇りなのかね?!」、「そんなことでどうして威張れるの?!」とかね。流石にこれ以上酷いのは僕も慎まねばならないかも知れない。泥沼にして、このブログの信用を落としてやろうという戦術かも知れませんしね。

 最後に上記関連でちょっと考えても分かることを、一言。
 物事の証明方法とか、真の証明方法と親類のような反論方法とかは、中学校でも習いますよね。国語でも習いますが、最も相応しいのは中学の幾何学、図形の証明などで。証明って、こういう進め方をしますよね。その問題に関して最も確かと考えられる出発点(公理、定理)を見つけ出して、その定理公理の条件と問題の条件とを照らし合わせることなどを必要にして充分な最少限度の言葉で説明して、結論に結びつけていく。あーいうことが苦手だった人は、公開討論、ディベートにはあまり向いていないと言いたい。すぐに負けて、上のように毒つくのが落ちです。つまり、こういうことでしょう。幾何学が苦手だった自分をその後に反省して訓練し直したこともないのに公開討論に参加しようというのは、無自覚、無謀、猪武者というものです。別エントリーで述べ続けているように、抽象的言語能力、それに基づく論理思考力は、大人になってからではもう遅く、身につかないものですから。ご自分のそんな弱さを多少なりとも自覚して欲しいものと、僕は良く思いますね。

 このブログでは、そういうお人も無視せず、大歓迎していますが、そんなことも押さえておいて下さい。人間、自覚というものは、凄く大切ですよ。と言っても、証明とか論争能力などは、人間の長所、美徳のほんの一部分にすぎません。が、自覚はこれら以上に大切なことと僕は考えてきました。

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僕の世界観に関わって(11) 脳の成長曲線と発達内容   文科系

2016年03月05日 09時20分08秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
脳の急成長三つの時期というコメントを書いた。これに補足修正を加えて、エントリーに載せることを思い立った。これは、僕の若いころからの職業の中で、それとの関わりで時間をも与えられてずーっと学び続けてきたことである。子ども、人間が育っていく場合の基本中の基本に関わる事だと覚えてきた。


 脳の成長曲線を観ると、三つの急成長時期が存在する。勿論、この三つで、早い時期ほど成長も激しいわけですが、第一は3歳まで。これは主として人間の日常生活に関わる普通の感覚、言語などが育つ時期です。この時期の(ハード面の)発達こそ最も著しく、人間の子どもが身体に較べて頭だけが非常に大きい理由になっているほどです。
 二つ目が、第7回と10回目のエントリーにある抽象的言語が発達する、小学校3~4年生をピークとする時期です。これは、「国語科は学問であるか?」とその続きとに書いた通りです。
 三つ目が、思春期で社会の中で自分を見つめ、大人になっていく時期なのでしょう。

 この3時期に脳も急発達していくわけで、この三つ以外の時期の成長曲線はほぼ平らです。ただこういうハード面の発達とソフト面の発達との中身の区別や兼ね合いは、僕には分かりません。ただ、脳という心のハード面に対するソフトとは、まーその人間の体験ということなのでしょう。そして、ある体験はある特定の時期に脳というハード面に吸収されやすいと、それを踏まえて教育というものがあるべきだといういうことだと思います。

 次いで、この三者の関係はこうです。豊富な前者を元、土台にして後者も豊富になっていくが、後者自身も単に自然に発達するものではなく、それぞれに相応しい独自の働きかけが重要、と。義務教育の教材も以上のことを踏まえて出来ており、例えば、小学校3~4年生になって初めて、それまで即物的であった学問内容に抽象的思考が出てくる。
 そして、この第二の時期が実は、その後の学力というものを最も深く左右する。いわゆる「授業だけで分かる子」が育つというのは、豊富な1番目の上に、特に7,10回目で述べた発達が十二分にあってのこと。こういう子の内、中学に入る前後から改めて急にスポーツなどがうまくなる子が出てくるのも、この「考える力」からです。

 こういう発達過程からすれば当然、時機を逸すると後にはカバーが大変難しいか、回復不可能なものさえあるということになります。例えば、この「時機を逸すると・・・」ということを、最も分かりやすい運動能力を例にとって、説明してみましょう。
①身体の使い方の巧みさは、小学校まで。サッカーの器用さ、アジリティーなどは、この時機を逸すると身につきにくくなります。体操や卓球の基本技術は低学年でというのも、同じことでしょう。
②心肺機能は、中学時代に最も伸びます。中長距離の名選手は、ここを逃すと育ちません。
③筋力は高校生以降でこそ、大きく育ちます。筋力は、いわゆる大人になるころにどんどん身についていくものだということでしょう。

 これをサッカー選手で観てみれば、こんなことが言えます。俊輔とか憲剛のような晩稲のタイプは、①、②の時期が長かったこともあって、この時期のものが多いに身についた人と言えると思います。だからこそ、③は後からでも身につけることができた。つまり「技術はあるけど、身体がないから・・・」などと中学時代に将来の評価を下す指導者、関係者は愚かだということでしょう。俊輔や圭佑が、それぞれマリノスとガンバのユースを落ちたのは、そういう理由だったと読んだことがありました。憲剛は確か、若いころの年代別代表には選ばれていませんね。今では、こんな愚かな判断は、サッカー関係者の誰もしないと思いますが・・・。 
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僕の世界観に関わって(10) 「国語(科)は学問ではない!」?の続き  文科系

2016年03月02日 12時28分52秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 第7回で、『随筆「国語(科)は学問ではない!」?』というのを書きました。その続きがあるので再掲します。第7回で述べた「言語力、思考力、社会性」は、どのように結びついているのか。この事について20世紀の発達心理学が明らかにした知見の一部を紹介しています。


『 随筆「国語(科)は学問ではない!」?』の続き 2015年02月11日 | 小説・随筆・詩歌など

 この拙稿は、1月29日エントリー『随筆「国語(科)は学問ではない!」?』の続きです。アクセス記録数などによるとこのエントリーを読んで下さる方が意外に多いようだし、一読者の「難解だった」という電話感想もあったので、そこの最も大事だけど難しい部分を詳論しようと思い立ちました。

 29日にはこのような事を述べさせていただきました。深い思考力とは、言語能力とともに発達していく。そういう言語能力は小学校中学年で出現し、そこで最も飛躍的に伸びていく抽象的言語能力の事ですが、それが実はその子の社会性と共に進んでいくということ。「机」とか、「走る」とかの目に見えるようなものについての言語ではなく、真善美とか、喜怒哀楽(その名詞、形容詞)、「したがって」などの接続詞等目に見えないものの言語能力が、特に社会性と結びついているということ。その場合の社会性とはさし当たって、『他人の言動が見え、分かり、共感するということなど』を述べさせていただきました。

 さて、この抽象的言語能力と社会性の関係をより詳しくまとめる事が、今回のテーマです。他人(のごく単純な状況。これを、後で述べます)が見えてこなければ小学校中学年段階の抽象的言語能力は伸びないといっても良いということです。そして、そういう子は学年が上がるに従って学力一般が落ちていくものです。勉強とは先ず記憶であると誤解しているような子がそうなのですが。

 こんな実験をした学者がいます。
①ボール紙切り抜き3組、各3枚ずつを用意します。両面赤く塗った丸3枚。同じく青の三角、緑の四角それぞれ3枚。因みに、色と形がそろっている点がミソです。
②それを、小学生低学年の子の目の前で3枚3組に分けて見せてから、「今度はあなたが、お仲間同士に分けてみて」とお願いします。当然分けることができます。
③次に、そこへ大人を一人連れて来て目隠しをさせ、その子にこうお願いします。「この人が。この9枚をさっきみたいなお仲間に分けられるように、何でも良いから言葉で教えてあげて」

 さて、正解は「貴方の前に紙があるから、触ってみて同じ形の組に分けて」とか「前にあるボール紙に触って、丸、三角、四角3枚ずつに分けてください」なのですが、小学校低学年では平気で色の事を語る子がいます。「赤くて丸いの」とか。つまり、「目が見えない相手」という事にほとんど気付かず、配慮がない子も多いんです。もっというと、「相手の立場で物事が見られない」。この遊び、僕も昔我が子などによくやってみたものですが、賢い子ほど上手だとはっきりしています。小学中学年でこれができる子が飛躍的に増えるから、ここで成績の差が付いていく。そしてここが大事なのが、「相手の立場で物事を見ようとしていないと、抽象的言語が苦手になる」ということでしょう。例えば、電話で他人に道順を教えるやり方を考えてみて下さい。大人になってもこれが苦手な人がいますよね。何故なんでしょう。
 道順を教える要点はこういう事でしょう。「誰でも分かる目印」と、誰でも分かる方向、および客観的な距離です。「(自分がよく遊ぶ場所)」とか、「かなり遠くまで行って」などは、主観的な言葉で、ダメなんです。
 これはつまりこういうこと。抽象的言語内容は誰でもの心の中にあるようなものだから、他人の立場が見えない人にはその内容は分からない。分かってもいい加減な使い方しかできない、と。そして、幾何学のような抽象的言語を操る学問が苦手になるし、さらに一歩進んで例え論理操作はできても、それを人間を見る事には適用できない、と。

 ちなみに、上の実験は20世紀の発達心理学で大問題の一つになった「自己中心的言語」という概念を巡る論争の中から、その結末の辺りで生まれたものでした。自己中心的では論理操作ができないし、これができてもそれを人間分析には使えないというようなことです。

 さて結論です。目にも見えないし、手でも触れないモノを扱う抽象的言語は、人々、人間全体がそれをどう捉え、どう使用しているかを気にしなければ、身につけられないものです。言語自身が元々人と人のコミュニケーションの必要から生まれたものでしょうが、抽象的言語(の中身)は特に、人の心の中にしか存在しないようなものだから、自己中心的人間には苦手なわけです。大人でもすぐに、こういう人が多いですよね。「具体的に語ってくれ!」。


 結論 他人が見えてくるに従って、抽象的言語がちゃんと身につき、抽象的言語が正しく使えるようになり始めてこそ、以下も発達していく。論理性・思考力、さらには人間的感性、情緒など。これらの関係理解について最後に一言だけ。抽象的言語能力、思考力、社会性のそれぞれが、他に不可欠にして重大な必要条件であるということ。また、それぞれ他に作用するだけでなく、独自の発達もとげるということ。これらは言うまでもありません。』
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僕の世界観に関わって(8) 世界史の『今』って?  文科系

2016年02月27日 11時53分49秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 これも、過去の拙エントリーですが、ここに再掲させていただきます。


『 世界史の『今』って?  2015年11月26日

 パリ・テロに続いて、トルコ・ロシアとか、英仏の軍事大拡大傾向とかなどなどの事件が、「これが世界というものだ」と叫んでいるような世界史の今である。

 全く別のこんな見方も出来るのだが、そんなことはどこ吹く風とばかりだ。
 これは、以下のような近年世界長年、最大の困難、悩みをニュースからかき消すための悪あがき、画策ではないか。12~14日にニューヨークダウは563ドル急落した。これも中国経済不振も含んで、日米欧こぞって作った官製バブルが破裂する可能性もおおいに出て来たと言える。これでは、9年越し念願の米利上げなど、できるわけもない。なんせ、アメリカ国家の累積債務は65兆ドルであって、6100億ドルという年間軍事費が持続不可能なことは誰の目にも見えてきた。
 いつものように、以下のコメントにもいくらかの加筆、補足を加えた。

【 「今という時代は?」 2015-11-25 10:51:43
 上の中日新聞社説はこう締めている。
『世界史の中で今私たちは試されているのです』
 そして、この文章に僕は思う。この「今」とは、どういう今か。文中の「世界史の中で今」とは、どんなものだろう。人間は過去を知り、それを思い出すことによって、未来を考えることができる。

「新自由主義経済の今」は、古典派経済学の自由競争が「さらに拡大した世界」ということだろう。それが世界大の激しい競争になるにつれて、そうなってきた。これに伴い、この陣頭指揮までをやり始める国家も、こう替わってきた。
 古典派経済学の昔は夜警国家といわれたが、国家の安全だけに専心して、それ以外の金はなるべく使わないという国家があった。今の国家はこの夜警国家を更に越えて、自由競争にさらに制限を加えない(規制緩和)どころか、これをオンブにだっこでどんどん助長する為に金を使うだけの、福祉国家の正反対物になったということだろう。この福祉国家というのは、夜警国家の後に生まれたケインズ流需要重視国家や、イギリスの「ゆりかごから墓場まで」などのことを指している。ところが、今みたいに夜警国家に回帰し始めると、アメリカや最近のイギリスのように、軍事を新たに急増させる国も出てくるというわけだ。

 この夜警国家傾向の行き着く先がどこか、それが怖い。が、世界史の教える所に依れば、やがてまた正反対の国家が生まれる。その反対物は、過去の福祉国家を踏まえつつ、今の「世界大」をも包摂した新たな「福祉世界」であろうとは、容易に推察は付く。

 ただ、そのときまで今の悲劇がどの程度続き、深刻になるか。「世界史は人間愚行の陳列台」と述べたのはニーチェだったが、これも一面の真理。ただ、そういう時代だけに、過去の福祉国家、「民主主義」、「自由、平等、友愛」の歴史などはよーく覚えていたい。トルコ・ロシアや、シリアだけに目、心を奪われることがないように。】

 
【 ポスト資本主義世界  (文科系)2015-11-25 15:22:33
 すぐ上のコメントを連れあいに話してみた。彼女がここのところ一か月ほど、こういう本を読んでいるから、僕もちょっと覗いてみたこの本の「世界史の今」を知りたかったからである。
『ポスト資本主義ーー科学・人間・社会の未来』(岩波新書 広井良典千葉大学法経学部教授著)。
 上のコメントの内容をこの本がどう書いているかという討論になった。この本の近未来キーワードは、「緑の福祉国家」、「持続可能な福祉国家」、「地球倫理の可能性」ということのようだ。一応我が意を得たりという印象は持ったが、問題はどこから、どう変えていくのかだろう。今は既にこんな世界なのだからと、そんな話も彼女から当然のように出てきた。
 徴兵制はなくとも、命の値段も金次第というわけで、貧乏人が「自ら」兵士になる時代である。彼らが金持ちと金持ちが所有する「国家を守る」のである。それも、65兆ドルの累積債務がある国家が、年6100億ドルを費やして。なんと不条理な世の中であるか。】


【 吹っ飛んだ所得再配分政治 (文科系)2015-11-25 20:45:32
 上のコメント群をいくつか補足します。
『(定常型社会について)余分なものは作らないという「自給自足」程度の意味』というのは、こういう説明も要ると思います。国家としての自給自足ではなく、地球としてのそれね。

『社会思想は反民主主義としての「機会の平等」の否定と大格差の肯定』
 ここは『貧富の世襲』と『中産階級の没落』と書くべきところかも知れません。

 最後に、初めのコメントのこの部分。
『自由競争に制限をしないどころか、これをオンブにだっこで助長するのみの、福祉国家の正反対物』
 これは例えばこういうこと、世界として金融資本の租税回避国、策動を認めているということ。さらに、資本を呼び込みたくって法人税値下げ競争の世界になっているということ。それで税収は少なくなり、個人への税がどんどん増えているということ、などなど。これでは、民主主義国家の根幹である「税による所得再配分政治」などは有名無実で吹っ飛んでしまいます。日米など世界最先端の先進国ほどこうなっているのが、その証拠。アメリカの貧乏な大学入学希望者は、軍隊入隊を経ることによって大学入学資金を得ています。イラクやアフガンで死んだのは、そういう人々でした。すべてアメリカの後を追いかけている日本も、安保法制の元ではそうなって行く可能性大と思います。。】 』
コメント (2)
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