臨死体験を書いた、彗星探検家・木内鶴彦氏の本を3年ぶりに読んでいる。彼は自身の体を抜け出して、過去や未来を見て来た。過去は少年時代の記憶のままで、しかも危険を知らせた不思議な声は、自分が正にそこに行って発した、さっきの自身の声だった。
未来は二通りに分かれていた。その理由も本に書いてある。彼はタイムトラベルをしたのではなく、膨大なこの世の出来事を記録した、いわば書庫にアクセスしたのだった。
体を離れた時から、苦痛はやみ、幸福感で一杯になった。魂のふるさとに戻って来たような安心感。それは他の人も別の表現で言っている。例えば宇宙飛行士。地球を離れて月へ向かうと、すぐそばに「神」がいる感覚があるという。
その膨大な図書館は、別の言い方をする人たちもいる。アカシック・レコードもそれだ。またウンモ星から来たユミットは、あの世を「集合的魂」と呼ぶ。
その世界に入ると、一瞬ですべてを理解するという。圧倒的な量の情報を通り抜けている感覚。何かを思うと即その現場にいる。
ただし自分を常に意識していないと、全体の中に吸収されて、全体の一部になってしまう。だから常に病院のベッドにいる自分を意識していた。
これを違う表現で言ったのもユミットだ。自分は例えばさくらんぼの実の1個。それが砂糖水の中に浮かんでいる。理解が進むと、さくらんぼの皮は溶けて砂糖水と一体化する。それが「あの世」だ。そうすると個性が無くなって、集合的魂の一部となる。
だから皆、同じ事を言っているのだと思う。
私が例えるなら、ケータイ電話だな。ケータイが人格の一人ひとりで、サーバーと繋がっている。サーバーは一個一個から情報を吸い上げ、進化する。
我々は「集合的魂」の進化に寄与している。集合的魂が一段進化すると、人類もキリストのような突然変異が生まれる。
進化すると肉体が要らなくなる、という話もある。だから生きているうちは、体と共に苦楽を楽しんだらいい。と思う。
なぜ、こんなことを書くのだらう。
相撲が終わってヒマだからか。
頭の中にも、雨が降っているせいか。