日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その200)

2007-09-05 08:03:49 | Weblog
○昭和55年4月3日(木)曇。
 朝6:00に起こされた。若いから出来る、若いとはいいとだ。人間は、眠たい時には眠る様になっていると思う。
○昭和55年4月4日(金)雨。
 ○田君(宮医大の医学生、大分上野丘出身、現在九州保健大学の教授)がやってきた。まだ、患者さんが少ないので、勉強にならないと思う。自分の医療に対する至誠だけは、学んでもらえた様な気もする。

*これ以後、5月に固めてちょっとと、6月にもかためてちょっと書かれているだけで、12月の末まで、何も記載されていない。昭和56年元旦から書かれたものも、家でかなり捜したが、見当たらない。1年単位で、書いていた気もするのだが、記憶が定かでない。
 昭和59年の1月1日から、5年活用実務日記を用いて、ちゃんと書かれている。
 何故、そんなに長い間、ちゃんと書いていなかったのか、今から27年前のことなので、よく思い出せない。
 兎に角、この間、人生でメチャクチャに最も忙しい時だった。ストレスも最高だったと思う。自分でも、よく過労死しなかったなあと思っている。統計を執ることだけは、何故か、ちゃんとしてきている。日記は後で書くことが多い為に、ついつい書かなくなってしまった感じである。
 本当に、毎日が当直だった。深夜の3時~6時の間に、毎日の様に起こされた(深夜のこの一番きつい時間帯を自分は、ブラックタイムと呼んでいた)。深夜、小児科の救急がない時は、新生児・未熟児で、新生児・未熟児での急変がない時は、小児科の救急で。殆ど眠っていない状態で、それも、ずっとそれが続いた状態で、頑張っていた。笑うゆとりもなかった。朝の6時過ぎに寝ることも度々であった。まとまって睡眠時間が取れた時は、感謝していた。
 就職してまもなく1.000g以下の未熟児が2人生まれ、大変な思いをした。残念なことに、2人共に後遺症が残り、私の方にも、大きな後遺症が残ってしまった。それ以外でも訴訟を2つも抱え、県の方からも呼ばれ、疲労困憊して、完全に参っていた。毎日が睡眠不足との闘いであった。
 就職してまる3年間、大学からの応援は、2泊3日の新生児・未熟児セミナ一(新生児・未熟児の最新の治療)に行った時だけだった。まる3年して、1カ月に1回、土曜の午後から月曜の早朝まで、宮医大から来てもらえる様になった。その時、死んだ様に、家でずっと寝てばかりいた。
 訴訟に苦しみ、睡眠不足に苦しみ、深夜も毎晩の様に起こされて、長女が深夜に起きて泣いていた。又、親しい人が手術をすることとなり、誰も世話が出来ない為、そんな忙しい中で1カ月間その人の乳飲み子を預かった。
 毎日が命懸けの闘いだった。どうしてそんな状況に耐えられたのか、今でも、信じられない。若かったから、そして、人一倍理想に燃えていたからであろう。

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為になるかも知れない本(その199)

2007-09-05 08:01:45 | Weblog
○昭和55年3月29日(土)曇。
 6人しか来なかった。4月末頃は、どの位になっているのかなあ。ゴ一ルデンウィ一クの時は、それなりに多いだろう。
○昭和55年3月30日(日)晴。
 (小児科開業医の)○○小児科に挨拶に行った。行って直ぐに病院から、患者さんが来ているとのことで電話があった。病院で待っている時はなかなか電話がなかったのに。○○先生からいろんな話が聞けた。中津の井上、別府の松本、佐伯の○○、大分県でメチャクチャ頑張っている開業医なのだなあ。
○昭和55年3月31日(月)曇。
 10人しか来なかった。最後は、22:00過ぎに熱と言うだけで来た。しかし、熱を測っていない。測ると熱はなかった。いやになっちゃうなあ。明日新聞広告で宣伝したら、本当に多くなるのかなあ?

*周辺では、インフルエンザが一段落した時で、就職し始めた時は、元々少ない時であった。初めの1カ月は、予想と極端に違って、信じられない程に少なくて、心細くなっていた。しかし、月を重ねる毎に、確実に多くなって行った。小児の時間外は、まださほど多くなく、スタッフが慣れない為に、気苦労が絶えなかった。

以下のことだけは、はっきりさせていた。
○小児(内科)の患者さんは、小児科医(私)が診る。小児科は、15歳まで。(実際は、外科的疾患かどうかわからないので、脳外科の患者さんや急性虫垂炎の患者さんの場合は、小児科医が先に積極的に診ていた)
○夜は毎晩(365日)20:00~21:00に受け付けて必ず診る。それ以外の時間帯は、急ぐようであれば、診る。(しかし、実際は、初め3年間は、深夜でなければ、待たせることなく食事中でも直ぐに行って診ていた)
○深夜(22:00~6:00)は、朝まで待てない感じの一刻を争う時は、必ず診る。紹介も、必ず診る。(しかし、実際は、0:00までは、よく診ていた。問題は、当院の小児科の医療体制を知らない0:00~6:00までに来る初めての患者さんの場合で、熱だけでは診なかったので、しばしばトラブルが起きていた。ある時、大分合同新聞に、一刻を争う時にしか診ない許されない救急病院とまで投書で書かれてしまった。西田病院は、救急指定病院でなく、救急告示病院であったのだが・・・。)

○朝の診療は、患者が多くて支障をきたすことになった為に、診療科開始9:00が、8:30、8:00、7:50、7:40、そして、とうとう数年後には、7:30になっていた。

○診療内容は、熱に付いての説明をした熱型表を熱のある人全員にあげ、熱冷ましの座薬は、使わなかった。多くが2日分の処方で、親御さんが不安であれば20:00に集めて気楽に診ていた。小児科外来待合室では、深夜0:00まで点滴が並び、滝(横に通した長い棒に、多くの人の点滴がずっとぶら下がっていたので)とまで言われていて、いつしか、小児科外来に行けば、いつでも子どもが外来で点滴されていると言われる様になっていた。


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