日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その215)

2007-09-20 06:52:14 | Weblog
○昭和59年6月3日(日)晴。
 (昨日は160人余)外来を40人程診た。病棟のMCLSの子も調子がいい。かなり眠たい。昨日も、ホントに眠たかったなあ。
○昭和59年6月4日(月)晴。
 朝3:00に叩き起こされた。それでも、ミ一コといつもの如く散歩した。1日1日がとても早い。ここで10年間、頑張ることになるのかなあ?
○昭和59年6月5日(火)曇。
 頭が痛い。睡眠不足のせいだろう。朝、患者さんで忙しくて、眠ったのは2:00頃かなあ。事務長が大分医大に行った。1カ月1回、来てもらえないかとの交渉に行ったのだ。
*6月から、第3土曜の17:00から24時間、大分医大からきてもらえる様になった。
○昭和59年6月7日(木)雨。
 腹の調子が良くない。喘息が多い。頭がピリピリしていたが、それはなくなった。健康ってありがたい。恵ちゃんが風邪気味だ。心配になる。いくらお金があっても、当たり前だが、健康の方が大切だ。MRから頼まれて書いた治験のお金が入った(治験を頼まれて、しばしばそれを書いていた。その申告は、年末にちゃんとしていた。又、そのお金の大部分を、スタッフとの食事会に使っていた)。
○昭和59年6月8日(金)晴。
 腸重積の子も、無事に退院となり、今日の外来もあまり多くなく、レセのチェックもサッと終わった。(事務員がしっかりしていたので、レセのチェクはさほど難しくなかった。保険に入っている人の入院証明書の記載が結構多くて、忙しい時には難儀していた。)
○昭和59年6月11日(月)曇。
 夕方7:30に電話があって、直ぐに行ったが、2歳前の子で、溺水で心停止を既に起こしていた。外科の○田先生と一生懸命に蘇生をしたら、心臓が動き出し、自発呼吸も出てきて驚いた。親御さんは、悦んでいる。しかし、助かってもひどい後遺症が残るだろうし、99%は駄目だと思う。外科の先生も、忙しそうだ。(産婦人科の)院長も、夜、帝王切開で忙しそうだった。この救急病院、どの科の先生もよく頑張っているなあ。
○昭和59年6月12日(火)曇。
 やはり、溺水の子は、努力の甲斐なく亡くなった。心停止が長く続いて助かった例は、今までに自分にはない。助かっても、ひどい後遺症が残る。蘇生をすれば心臓は確かに動き出すが、しかし、数日したら心停止となる。死を家族が直ぐに受け入れることが出来ない。こんな時、医者の仕事は、その心の準備を家族に与える為のものでしかない。(外科の先生は、ある程度まで一生懸命にして、それでももう駄目だと悟ると、それ以上のことはしなかった。○○科の先生は、最後まで、徹底的にしていた。自分の仕方は、もう挿管しても先がはっきりと見えている時には、親に子どもの手を最後まで握ってもらっていた。)
*挿管をしている状態だと、初めの24時間は、どの母親も、一睡もしないで深夜でもしっかりと起きて、医療側がする処置を真剣に見ている。しかし、3日目位になっても状態がいい方向に行っていないと、母親も疲れた表情になり、深夜医者が行っても、そのまま寝ているケ一スが多くなる。それ以上になると、深夜、母親の代わりの人が付いていることが多くなる。それらの変化を私はつぶさに見てきている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする