日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

自分のコントロ一ル

2007-09-03 07:27:02 | Weblog
 コロッケが、いろんな人のマネをして笑わせている。一見、どんな有名人の顔でも出来そうに見えるが、コロッケ自身に言わせると、今までいろいろして上手くいったのしかしていないとのこと。いろんな顔の表情って、思う様に自分の顔が動いてくれないとのこと。ある有名人の顔の表情のマネをしたくて頑張っても、時間を掛けて何度挑戦しても出来なくて、結局諦めざるを得なかったこと、多々あるらしい。
 ダイエットしないといけないのに、ついつい食べてしまう。タバコを吸ってはいけないのに、ついつい吸ってしまう。買い物に出ると、ついつい買わなくてもいいものまでも買ってしまう。人間って、自分のコントロ一ル、なかなか難しい様だ。
 わかっちゃいるけど止められないって感じの歌が流行ったことがあったが、自分の理性に反して体が言うことをきかないことから、文学が生まれ、倫理学も生まれ、更には、宗教も生まれたのかも知れない。
 不登校だって、本人は学校に行く気でいるのに、体が拒否して、朝になるとお腹が痛くなったり、吐き気が起きたりするのだ。本人は頑張ってるのだから、これ以上は頑張れないのに、更に、周囲から行く様に言われると、益々こじれてしまうことになる。
 浪費症候群、片付けられない症候群、捨てられない症候群、洗濯物貯める症候群、パチンコ依存症候群、アルコ一ル依存症候群、スナック通い症候群など、長いこと習慣で身に付いたものは、なかなか治らない。
 人の姿って、よくあんパンに例えられる。中のあんこが本当の自分の姿。あんこの周りを変えても、なかなか、芯のあんこは、変わらない。それでも、ずっと格好だけでも変えていると、その内、芯のあんこも変わって行く。
 親孝行のマネをしていたら、本当に親孝行をしていたと言うこが現にある。
 朝青龍の問題も、横綱になったからと言って、直ぐに心・技・体の心まで変わる訳がない。しかし、格好だけでも、横綱にふさわしい態度をとり続けていれば、その内、心も備わってくるだろう。

 以下は、私の作品(再掲)。

「変身願望(フィクション)」
  中学までは、学校の成績は、まあまあだったのに、高校(鶴城高校の3年生)になって、どんどん成績が下がって行く。入試までもう半年を切っている。自分の成績、どこまで下がるのか?、半分もうやけくそって感じ。二人の兄が優秀だったので、親からは、兄といつも比較されて参っていた。運動神経は鈍いし、(昔は痩せていたのに)太ってしまい、2つ年上の姉からは、大学受験の前に太ったのは、うちの家では、あんだだけよと言われる始末。きれいな女性の前だと、顔が真っ赤になって、何も言えない状態になってしまう。自分の周りには、ガールフレンドを持っている男友達は多いのに、自分なんて、今までもなかったし、今からも、不可能って感じ。アフリカのケニアかガーナにその内、行って、動物と大自然に囲まれて、時間に何ら束縛されず、太陽が上がれば起き、太陽が沈めば寝て、のんびりと自分なりに生きたいと言うのが本音。昔、母親が、佐伯の西田病院でナースをしていて、医者にも憧れたことがあったが、この成績では、医者のいの字も、親にも言えない。何も取り獲がなくて、コンプレックスの塊だが、もう、共通一次まで、3カ月しかない。この成績では、まともな大学なんて、どこも受かりそうにないし、浪人は確実。しかし、何故か、やる気が起きなく、ただ、時間が過ぎていくって感じになっている。
  毎日、「どうしてもやる気の出ない症候群」にかかって、過ごしていた。それも、重症で。ある日の夕方、自分の部屋のベッドで、弥生町で行われたコスモス祭りの時に太極拳の曲として流れていた「弥生賛歌」を聞きながら、ちょっと横になってしまったら、普段着のまま、そのまま寝入ってしまった。夢を見た。島田陽子と長山洋子を足して2で割った感じの顔立ちで、髪の長い、すらっとしたスタイルで、面長顔のきれいな女性が現れて来て、ファティマの予言って感じで、お告げを自分にしてくれた、・・・「今から、貴方に、超能力を与えます。但し、3カ月だけです。」それだけ言うと、急にスッといなくなって、気が付くと、いつもの様に、朝、目が覚めていた。
 目が覚めて見ると、何か、様子が違う感じだ。体が軽くなった感じだ。学校に行くと、英語の予習もしていないのに、当てられても、難しい訳がスアスラと早口で出て来て、先生も、ビックリしている。体育の時間、マラソンだったが、いつも、クラスでビリに近い方だったが、今日は、息が切れる感じがなく、ずっとトップ集団で(それも飛び抜けてトップで)走れる感じになっている。急にトップで走るのも、何か、今までのことがあるので、気が引けて、やむなく2番でゴールインする。周りがビックリしている。「田原、どこで練習したんか?実力を出し切っていなかったのか、スゲェーナー、誰かに特別教わっているのか?」と、聞いてくる。「マァ、ちょっと知ってる人がいて、・・・」とか何とか言って、ごまかしていた。翌日の(前回、故意に受けていなくて、久々の模擬試験)実力試験、不得手の国語が、自然に答えがスラスラ出て来る感じになって、いつも時間が足りなくて苦しんでいたのに、初めの30分の間で、答えが最後まで書けてしまった。結果は、学年で2番。周りの人の自分に対する反応が明らかに違う。
   夕方になると、お腹がすいて、我慢することが出来なかったのに、不思議にそれが出来る様になっていて、どんどん体重が減少して行き、スマートになってくる。ちょっと遊び心でしたNHKの英語以外の語学の勉強が面白くなってしまって、多国語で、結構いろんな言葉が話せる様になっている。あれほど難儀していた英会話が、突然、1級程度の能力になっていて、英語のニュースも殆ど理解できる様になっている。どうして、どうして、・・・。夢か、しかし、つかの間の夢でもいいか・・・。
  親も教師も、そして、一番気にしていた女性の目も、以前とは、はっきりと違っていた。休み時間、廊下で自分を見つめている女性もいる。案の常、サインして下さい何て言う女性まで現れて来た。それも、多くの男性の憧れの的の早乙女美子(さおとめよしこ)さんからも。腕力も付いてきた感じで、喧嘩しても、負けそうな感じがしない。それが相手にも分かったのか、喧嘩が一番強いと言われている男までも、自分に敬語を使ってくる様になった。
  1カ月、バラ色って感じで、時が過ぎてしまった。しかし、ずっと気にして来たことだが、3カ月を経ってしまえば、自分の超能力は、消えてしまう。せっかく、好きだった娘にも、自分の思いが言えて、手まで、ちょっと触れることが出来たのに(もう少しで、キスまでも、夢ではなかった感じになっていたのに)。英語だけでなく、フランス語もハングル語もスワヒリ語もロシア語も、困らない程度にまで出来る様になっているのに、又、あのどじで、頭の悪い、視野の狭い、運動神経の鈍い、何をしても自信の持てない、いつもの自分に戻ってしまうのか。もう、あの娘にも、気軽に話せなくなってしまう。いつもの自分に戻れば、好きになってくれる訳がない。今までと一緒なのは、体重が少し減ったことぐらいのものだ。
 しかし、この満たされた今の姿をどうしても失いたくない。少しでもいいから、今の姿に近付ける様に、努力してみたらどうだろうか。少しでも、近い姿になれれば、・・・そう思い直して、半分諦めた感じでも、自分なりに頑張ってみようと思う様なった。元に戻って元々、今までいい思いをしただけ、それだけでも、満足すべきだ。そう思うと、踏ん切りが付いた。
 踏ん切りが付いてからは、開き直った感じになって、自分なりに、一生懸命に頑張った。本当に良く頑張った。朝、3時に起き、予習を徹底的にし、夕方は、ジョギングをして、体を鍛えた。最後まで見ようと思っていた、木曜夜の、(将来こんなドクターになれたらいいなあと憧れている)「続・柊又三郎」のドラマを見るのも、(獣医が自分に似ていると周りから言われている)「義務と演技」のドラマを見るのも我慢して、夜の8時過ぎには、昼間の忙しさと全く逆な感じで、眠りに就いていた。気が付くと、その後、ほぼ、自分の緻密なスケジュール通りに行動していた。全ての事に対して、常に平静なる気持ちで、常に、プラス思考で、怒ることなく、落胆することなく、自信過剰になることなく、謙虚で、礼儀正しく、多くのことに感謝して。
  時は、無常に過ぎて行った。お告げがあって、ちょうどまる3か月が終わり、正に4カ月目に入ろうとする夜(ちょど0時に)、夢の中で、今度も、前と同じ女性が出て来た。少し肌の色が前よりも黒くなっている様に感じた。鹿児島弁で、「ようきばいやった。よかにせどん。私が与えた力は、まる2
カ月半でございもうした。後の2週間のは、おまんさのちからでございもす」、そう言うと、サッと消えてしまった。
 翌朝、目が覚めて、授業を受けると、(出来る)自分と何ら変わっていない。頬を真剣につねっても、確かに痛い。それから、しばらくして、片想いで諦めていた女性から、告白めいたラブレターをもらい、夢にまで見た国立の医学部に合格することが出来た。(完)

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為になるかも知れない本(その198)

2007-09-03 07:22:31 | Weblog
○昭和55年3月22日(土)晴。(宮崎を発つ日)
 朝、大学に最後の挨拶に行く時、大学の入り口の門で自分を待っていた(心筋症で入院した後に、奇跡的に元気になった)○○ちゃんの親子(父と子)がいて、「先生、大変お世話になりました。こんなに元気になり、先生のお陰です」と言われた。(誰から聞きつけたのか、自分がここを通ることを予想し、ずっと朝から門で待っていたこの親子に対して、驚くと同時に、言葉にならない程、大変ありがたく思った)
 教授、助教授、婦長さんなど、15人もの人が盛大に(我々親子3人を)宮崎駅で見送ってくれた。乗り込み直前に、教授が、「田原君、困ったら、又、遠慮なく大学に帰って来なさい。どこにいても君は宮崎医科大学小児科の医局員だから」と言われた。(その時、佐伯でどんなことがあっても、弱音を吐くことなく頑張り通そう、まかり間違っても、帰ってくる様なぶざまなことは絶対にしまいと思っていた)
○昭和55年3月24日(月)晴。
 もう、大学に行かなくてもいいかと思うと嬉しい。大学は窮屈だった。ここでは、一応部長だから、一国の主って感じだ。この30歳の若さでは、まだ、未知数って感じに周囲からは受け取られるだろう。仕方ない(その後、威厳を付ける為に、髭をはやした)。4月1日から、頑張るぞ!
*やる気満々の状態であった。実際は、3月24日の月曜日から診療した。外来は少なかったが、(小児科経験者のナ一スが全くいなくて、ナ一ス教育などの)準備と新生児・未熟児医療で、初めからそれなりに忙しかった。初めの3カ月は、殆ど自分が昼夜を問わずに翼状針で点滴をした。無茶なことに、小児の時間外は、小児科医が全て診ることにし、他の科の先生に診させることは、その病院では、それ以後まる10年間なかった。又、夜の時間外を20:00~21:00に集めて365日診ることにした(佐伯でそれを19年半余続けた)。それ以外の時間帯は、けいれん重積や喘息発作の様な一刻を争う様な時だけにした。しかし、新生児・未熟児は待てないので、いつでも断らずに診ることにした。
○昭和55年3月25日(火)晴。
 まだ、小児科をオ一プンしていないのに、夕方、急性胃腸炎の子が入院した。4月1日から、本当に、沢山来るのかなあ?
○昭和55年3月26日(水)晴。
 13:00から、病院の関係者にスライドを使って講義をした。
○昭和55年3月27日(木)晴。
 10人来た。
○昭和55年3月28日(金)曇。
 16人来た。31日に、ちらしで公に知らせるとのこと。

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