2020年8月15日の全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞は最悪のものだった。広島長崎での式辞と合わせて考えるとその思いはつのる。
天皇の「おことば」は「過去を顧み、深い反省の上に立って」としているのに、安倍首相の「式辞」には、「反省」の言葉はない。これだけは言いたくないという気持ちだ。安倍首相は、日本の侵略、先制攻撃によって始めた戦争を「あの苛烈を極めた先の大戦」と災いが降って湧いたかのように、いかに日本が悲惨な目に合ったかをいいつのる。だが、より苛烈だったのは日本に侵略されたアジア諸国ではなかったか。そこに正義はあったか、国際法はあったか。彼は「苛烈」のなかに広島長崎、沖縄も含めるが、どれだけ冷たい対応をしてきたか。
安倍首相は、これまでかろうじて組み込んできた「歴史に謙虚に向き合い」「歴史を直視し」という文言を葬り去った。植民地支配や侵略戦争への反省を投げ捨てた。1995年の村山首相の談話で築いた憲法の精神を最終的に葬った。
安倍首相は、日本人の犠牲者に「御霊(みたま)安かれ」と祈るという。天皇はあくまでも「心から追悼の意を表し」と憲法にのっとった言葉を発しているのに、首相は霊魂をなぐさめるという特定の宗教的立場を国の行事に持ち込む。憲法違反だ。仏教では、とくに浄土真宗に至ると霊魂の存在を明確に否定する。憲法は当然、政教分離原則だ。
おまけに安倍首相は、「積極的平和主義の旗の下、世界が直面しているさまざまな課題の解決にこれまで以上に役割を果す」と「積極的平和主義」なるものを「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」という文脈の中でもちだす。これは憲法の「恒久平和主義」とは似ても似つかない正反対のものだ。安倍首相の造語だ。憲法が否定している集団的自衛権を行使して自衛隊の海外派兵を進めて行こうという戦略だ。
安倍首相はこの式辞を周到に準備して、憲法の精神を骨抜きにした。一方、広島・長崎でのあいさつはコピペと揶揄されたように心のこもらない、被爆者に寄り添うといいながらその実、核廃絶の願いを踏みにじったあいさつだった。
広島・長崎のあいさつと戦没者追悼式の式辞は、力の入れ方は雲泥の差だが、悪い方向に誘導する点では響き合っている。
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