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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

城址に流れる「名曲」は…その2

2018-03-29 | 日記・エッセイ・コラム

 豊後竹田の城下町散策の続きです。

午後からの行動は2班に別れて出発です。

昼食の場所「お客屋」を出てすぐに「愛染堂」へ。

階段を上る手前に「十六羅漢」が見えます。

 ここから階段…

午後の陽ざしは強く、階段も足腰に来ますね。

 「愛染堂」

 仏様と神様が同居?しているそうな…詳しくは 聞き逃しました?

 この彫刻は覚えてます。

  かの有名な、日光東照宮の「見ざる 聞かざる 言わざる」・・と言えば。

   「左甚五郎」の作だそうです。 これは 「天邪鬼」四隅にありました。

 

  「円通閣」~「豊音寺」~「但馬屋」

  お昼の「抹茶」&「お菓子」の 銘菓「荒城の月」はこの但馬屋さん製を

 ご馳走になりました。

  風格ある店構えです。

 

 店内も、落ち着いて 老舗の雰囲気

 お菓子の額も~   店内に生けてあるのが椿でした。畳、屏風、暖簾 いかにもの風情。

    

 これが 「荒城の月」の詰め合わせ

  皆さん、お土産にと…たくさんお買い求め~

 

 すぐ近くの「旧竹田荘」 へ。

 日本の南画界を代表する「田能村竹田」の生家。

道路から上を見上げると…

 石垣も苔むして…  

 テレビなんでも鑑定団によく 「田能村竹田」の絵が出品されますが…贋作ばかり。

 参考までに 本物とは

 重要文化財指定のもの        

       

     「涼月談心図」        「暗香疎影図」

        これが自画像

ここから ややゆるい坂道を下って…殿町武家屋敷跡通りへ

 ちょうど角が、「竹田創生館」

 創生で思い出すでしょ、そう あの竹下内閣の折、「1億創生!」

 「町起こしの大ブーム」が全国津々浦々で~

 結構、しょうもない? ものが無残にも沢山残っているようですね。

  ここの看板、竹下登の直筆で…

 

 武家屋敷と言うけれど~ 今は たったの3軒残るのみ…

 その中でも、ここ。 「古田」さん宅 (現在でも実際に生活されている家)

  そうなんです、あの戦国時代の、そして茶の湯・織部焼… 

 ここ岡藩では 家老職だったのですよ。

   「古田織部」の末裔さんが代々ここにお住まいなんです。

 

  ちょっと歴史振り返ってみると、初代藩主の父、中川清秀の妹は古田織部に嫁いでいるのですから

 因縁浅からず…

 

ここ竹田市内は「水の都」でもあり、至るところで水が流れていました~

 

  石垣は どこも苔がいっぱい。 居心地のいい街です。

 

次が 武家屋敷通りを右に山に向かって~「キリシタン洞窟礼拝堂」

 ここ豊後の国は、当時、大友宗麟が治めていました。

       

 竹田地方はその一門衆であった志賀親守が統治していた。

ご存知のように、大友宗麟はキリシタン大名です。

 最盛期には九州六か国を支配して版図を広げた~しかし、薩摩の島津義久に

破れ、晩年は、豊臣秀吉傘下の一大名で終わります。

 そんな関係から、ここ竹田の奥深い山裾に隠れキリシタンたちが…ひっそりと

 しかし、強い信仰心で 神に祈りをささげていた…という場所。

 その跡は

 樹が覆われた 森の中の崖っぷち。

  この岩を切り崩したところは 神父が隠れ住んでいた

 礼拝堂は 崖を掘り抜き、幅3m 奥行3m、高さ3.5m

 キリシタンの弾圧は 想像以上のものだったのでは?  当時の信者の苦労がしのばれます。

 

 余談ですが、最近、この「大友宗麟」の本で、直紀諸作家の安部龍太郎著

 「宗麟の海」を読んで、戦国武将の強いイメージが少し変わり、このキリシタン大名の

 内面を伺う、目新しい「宗麟像」を感じることができました。

 「ぐぐっと、引き寄せられて…大変面白かったですよ。 

 

 洞窟を出て殿町界隈は、家老などの中級武士の屋敷が多く残るところ。

 土塀も多く 往時の面影が…

  

 

ぱっと明るい広場に…「軍神 広瀬神社」の前

 本日は 神社まで…急な階段…お参りは諦めました。

    

大方の高齢者なら「広瀬中佐」はご存知。

命じ37年「日露戦争」

 旅順港でのロシアバルチック艦隊で乃木大将が総指揮を務め、多くの将兵が

なくなった戦い。

広瀬が載っていた福井丸が魚雷を受け沈没が明白な状態、機密文書が敵軍にわたる

のを恐れ、自爆用の火薬を爆発させるべく船へ戻る。

脱出用のボートに乗ろうとしたまさに、その時、敵砲が直撃し帰らぬ人に。

名前よりも「杉野はいずこ、杉野はいずや」というセリフの方が有名?

 

さて、最後に向かうのが、今回の一番の見どころ…「岡城址」

駐車場に着くと、その前方に聳え立つ…胸がすくような景色が

 

 ぐ~ん と レンズが近づいて  この偉容

  さぁ、本丸まで歩いて行くぞ!  私は杖に頼らない!

  まずは 入口 石碑に「史蹟岡城し」 ? 最後の祉じゃなくて 

  えっ、この字 「こざとへん」だが?      まぁ、いいか…

 さぁ、結構急な登坂が続きます  右に左に 見上げる石畳が…凄いですね、この迫力

   

 いよいよ「大手門」跡です。

 

 ちょっといろいろな石畳  それぞれ積み上げの違いも はっきり分かります。

 ひとつだけ大きな石  亀甲型

 この城址の最大 長方形型

 正面には 「鏡石」と呼ばれるもの

 

ここ「岡城址」の岩は、「阿蘇溶結凝灰岩」だそうです。 柔らかく、作業はしやすい。

 しかし、この岩の積み上げ方。 岩を鑿で削って、計算された作業や、自然の形をうまく利用したり

 いわゆる城の名張は匠の大仕事…まぁ、この高い処まで、運び上げたものですね~

 延べ~数万人の労役だったでしょうに。  やぱり、殿様は 凄いよ!

 

 

 ところで ここ 「岡城址:は紅葉の名所

 通路には大きな紅葉が  このように 写真愛好家はこぞって ここへ。

     

  しかし、この写真の景色で…石垣に樹が見えるでしょ。 これは 現在は「桜」だけなんです。

 以前は、春「桜」 、秋「もみじ」 だったそうです。

 しかし、今はない、 何故ですか?  分かりますか…

 

 

  答えは これです。

 

             これもみじの大木の切り株 下に「根」が

 

 割れ目にもみじの根が蔓延っていく~ そう 石垣の破壊です!

 石垣を破壊して 崩れていくのを防ぐために、「もみじ」を切って仕舞った。

 ぜ~んぶではありませんが、石垣が壊れそうな個所は…

 自然は強いね~ いや、「根」の生命力には、参った、参った。

 

 城址に上がってきました…三の丸~西の丸~二の丸~本丸へと。

 

 まだ 桜はつぼみ 何本かには 薄ピンク色に染まっているものも…

  

 そして この銅像と言えば   「瀧廉太郎」

  瀧廉太郎 僅か23歳10か月の生涯

 後の世に残したものは~大きい。

 そして

  土井晩翠の歌詞 記念碑 

 

    (荒城の月の音譜」

 本日のガイドさんの役目も 後は山を下るだけ…

最後に、私(ガイドさん) 歌います~…。

 よろしければ ご一緒に  と。

「春高楼の 花の宴 巡る盃 影さして 千代の松が枝 ~

  いやいや 皆さん 本気モードでした…

 声をそろえて~ まるで 卒業式みたい

 

 古城の趣も最高! 天気も上々…

そして 城から眺める 周囲の山々~

このパノラマも 言うことなしでした。

             久住山            大船山      黒岳

 

 

 ちょっと霞んでいますが    傾山     小富士山      祖母山

 

  よく歩きました 76歳 がんばりました。 これからの健康でまず必要なのは?

  「足」ですね。 これからも 「足腰」を鍛えて まだまだ と 「気」を緩めず…

 凄き有意義な勉強会でした。 成果大なり。 

コメント
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。