徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ファウスト」―人間と悪魔が繰り広げる人生のロマンと愛の伝説―

2012-07-12 22:30:01 | 映画


 文豪ゲーテが60年かけた大作を下地に、アレクサンドル・ソクーロフ監督が映画化した。
 ミステリアスで壮大な、魂の物語である。
 ヴェネチア国際映画祭で、審査員の満場一致で、グランプリ(金獅子賞)受賞した。

 人生に迷い、生きる意味を探していたファウストが、悪魔と契約までして手に入れたいと望んだ愛があった。
 その愛が導く運命とは、どんなものだったのか。
 ゲーテの、この韻文による長篇の原作は、実在したとされる魔術師ファウストの伝説で、地上の快楽を手に入れる代わりに、悪魔に己が魂を売り渡す契約をする。
 人は、誰かのために生きることで、今日を楽しみ、明日を待ち遠しく思うのだ。
 しかし、この作品は、アレクサンドル・ソクーロフ監督によって、原作の持つ荘重さや雄大さとは異なり、むしろ卑小でグロテスクな世界を演出することとなってしまったようだが・・・。

 映画の冒頭は、死人の血みどろの内臓を取り出しながら、どこに人間の魂が宿っているのかと、わめいている。
 本来の、学問の追及が狂気に至る、このシーンの不気味さにどこまで耐えうるか・・・。
     
神秘的な森に囲まれた、19世紀のドイツの町・・・。
あらゆる地上の学問を探求したファウスト博士(ヨハネス・ツァイラー)は、研究を続けるために、悪魔とうわさされる高利貸しミュラー(アントン・アダシンスキーを訪れる。
生きる意味を教えようと囁く、ミュラーに導かれたファウストは、純粋無垢なマルガレーテ(イゾルダ・ディシャウク)と出会う。
一目で、心奪われるファウストであったが、ミュラーの策略によって、彼女の兄を誤って殺してしまうのだ。

それでも、彼女の愛を手に入れるために、ファウストは、自らの魂をミュラーに差し出す契約を結ぶ。
悪魔に翻弄されるファウストと、マルガレーテの愛の行方はどうなるのか。
ファウストが、自ら見出した生きる意味とは何であったのか。

ゲーテ名作「ファウスト」を、アレクサンドル・ソクーロフ監督は、斬新な演出とかなり自由な解釈で、結構気ままに(?!)描いている。
メフィスト役の男の気味悪さは、小さな尻尾があったり、妖怪めいていて、いつもファウストにまとわりついている。
その舞台となる、小さな町全体もあやかしの巷のようである。
貧しい人々、ほこりっぽい道、吹く風の流れの中で、「人生は空しい」と嘆くファウストも、マルガレーテに出会うまでは確かにそうだった。

高利貸しのミュラーが魔法を操り、メフィストの役割を演じてファウストを連れまわすのだが、どこにも群衆がいる。雑踏がある。
その中に、ファウストは迷い込んでいく。
ファウストが、悪魔の囁きから耳をそむけて、ひとり荒野を歩き始める終章・・・。
舞台劇を見ているような感じもする。
しかも、重々しいセリフの応酬とともに、人間と悪魔の絶妙な駆け引きはしばしば幻想を招く。
マルガレーテ役の新星イゾルダ・ディシャウクは、フェルメールの絵画を想わせる美しさで、無垢な愛を演じている。
水際にたたずむ彼女に駆け寄ったファウストは、そのまま一緒に泉へと身を投じる。
あの驚くような、しかしあまりにも自然(!?)な映像に、やっとの思いで念願かなったファウストは、当然のごとく、魂を売った代償を甘んじて受け入れるのだ。
マルガレーテは、どこに行ったのか。

理想を追いながら人生に虚しさを感じるファウスト、お金と誘惑で人間の弱さにつけこむミュラー、そしてマルガレーテの美と愛・・・。
運命に翻弄される3人のこの人生ドラマは、「生きる」とは何かを真摯に見つめさせ、時と空間を自在に行き来する、有機的なスケール感にあふれている。
魂を売るとは、どういうことであろうか。
現実と幻想といささか怪異の世界に、生きていることの意味を問うこの作品「ファウスト」は、圧倒的な迫力を持って迫ってくる。
アレクサンドル・ソクーロフ監督の描くロシア映画「ファウスト」(台詞はドイツ語)の世界は、異形の世界だが、しかし、見方を変えれば、もしかすると、現代社会もこんな風に見えるかも知れない。
いや、そう考えるのは少々飛躍しすぎか。
特異にして夢幻に満ちた、詩劇であり群像劇であり、やはり文学作品という趣きが強い。
俳優陣は、いずれもなかなかの芸達者で、それぞれのメイク、キャラクターに存在感がある。
悪魔を演じる、アントン・アダシンスキーの怪演はとくに見ものだ。

ただし、原作を自由に翻案したとはいえ、ドラマの中での、目を背けたくなるようなグロテスクは、いかがなものか。
    [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点