今年も、いよいよあと残り数時間となった。
冷たい北風の吹く街中で、見過ごしていた一作と出会った。
・・・思い出の輝く場所、それは誰にでもあるものだ。
変化の時代に生き、否応なく離れ離れになる現代の家族・・・。
その絆を描いた、親子三代にわたる物語だ。
といっても、大げさな作品ではない。
オリヴィエ・アサイヤス監督の、このフランス映画は、じんわりと心に沁みてくるような小品である。
フランス、パリ郊外・・・。
画家であった大叔父のアトリエにひとりで住んでいた、老母エレーヌ(エディット・スコブ)が亡くなった。
三人の子供たちには、広大な家と庭、そして貴重な美術品の数々が遺された。
コローやルドンの名画があり、マジョレルの家具、ドガの芸術品など・・・。
遺族は、経済学者の長男フレデリック(シャルル・ベルリング)、デザイナーで世界中を飛び回っている長女アドリエンヌ(ジュリエット・ビノシュ)、 中国で仕事をしている次男ジェレミー(ジェレミー・レニエ)たちだ。
このドラマの舞台となる、イル・ド・フランス地方というと、豊かな田園地帯が広がり、印象派の芸術家たちがモチーフを求めて滞在した小さな町のひとつだ。
母の葬儀に集まった三兄妹が、遺産となった膨大な美術品と向き合うことになった。
彼らには、思い出に彩られた家への愛着と、現実のジレンマがあった。
母は、生前「私が死んだら、何もかも消えてゆくのよ」と、すべてを美術館に寄贈するように言い遺していたのだ。
フレデリックは、それらを手離すつもりはなかったが、アドリエンヌはアメリカ人との結婚を決め、ジェレミーも中国に生活の拠点を移していた。
姉や弟にとっても、愛着のある遺品でありながら、もはや必要なものではないことにショックをかくしきれないフレデリックだったが、相続という現実的な問題から逃れようもなかった。
遺品を相続するには莫大な相続税がかかり、家も、家族が集まる場所ではなくなる。
三兄妹は、結局家を売却し、貴重な美術品は、オルセー美術館に寄贈することで合意した。
・・・そして、何もかもなくなった、がらんどうの家をひとり訪れた、大叔父時代からの家政婦エロイーズ(イザベル・サドワイヤン)は、亡き主の好きだった花を墓前に捧げる。
季節は移ろい、人の命に終わりがあっても、世代を超えて確かに受け継がれてゆくもの、それは何だろうか。
息づく美術品のリアリティには、まず目を奪われる。
画面も、非常に綺麗で美しい場面が多い。
色彩的にも、パリの郊外にこんなにも美しい緑があったかと、あらためて感じ入った。
この映画に登場する美術品のほとんどは、オルセー美術館所蔵や個人のコレクションの実物が使われており、その美が生み出す、比類のないリアリティは作品と見事にマッチしている。
それらの小道具のひとつひとつに、忘れがたい個人の郷愁がにじみ、いつまでも何かを語りかけているいるようだ。
ドラマの中で、長年尽くした家政婦のエロイーズが、忘れれたままになっていたブラックモンの花器を手にし、たったひとつの思い出に南仏へ去るときのシーンで、「花が活けられてこそ価値がある」といった言葉は、とてもいいセリフだ。
この一言が、作品の主題を要約しているといってもいい。
全体の色調も、四季の移ろいを見事に表現していて、申し分がない。
遺品となった美術品が、家の中では愛情や愛着が注がれ、非常に親しみやすい存在に思えたが、これらが美術館で展示されると、ただの鑑賞品となってしまって、静かな空間の中に閉じ込められてしまうのはどういうわけだろうか。
美術品や骨董品のたぐいは、その家で暮らした人たちには使われてこその思いが沁みてきて、懐かしく輝くものなのだ。
映画では、最初と最後の場面が、やはりとても美しい。
緑の風のそよぎ、揺れ光る木漏れ日、絵画のような世界・・・。
それに、オリヴィエ・アサイヤス監督のこのフランス映画「夏時間の庭」は、まことに親密かつ個人的な物語で、失われた‘よき時代’(ベルエポック)を、若い世代にいつか見出してもらいたいと願う、そんな作りの映画に思える。
詩情を感じさせる、いい作品だ。
かつて輝いた時間と記憶は、決して消えることなく、姿を変えてもなお母から子へ、そして孫へと、未来にわたって続いていくことを予感させて・・・。
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今年も、政権交代をはじめ、本当にいろいろなことがありましたね。
おかげさまで、今年最後の更新となりました。
有難うございました。
行く年があり、来る年があります。
来年は年男になります・・・。
新しい年は、どんな年になるのでしょうか。
どうぞ、よい年をお迎えください。