アドリア海から吹く風が頬に冷たい、北イタリアの港町トリエステに、長距離バスから、目立たぬ地味な服に身を包み、一人の女が降り立った。
この物語は、ここから始まる・・・。
久しぶりのイタリア映画である。
このジュゼッペ・トルナトーレ監督の「題名のない子守唄」は、イタリアアカデミー賞で五部門を独占した、いわくつきの作品だ。
・・・あなたが幸せになれるなら、私はどうなってもかまわない・・・。
イタリアに限らないが、かって若い夫婦が、実際に自分たちの子供が生まれる前に、その子供を売る契約をし、それが発覚して逮捕されたという実際の出来事にもとずいて、この映画は撮られるきっかけになったのだそうだ。
心に深い傷を負い、過去に囚われたままの女イレーナ(クセニア・ラパポルト)、彼女の心を支えているたったひとつの願いは、生き別れた自分の子供を見つけ出すことであった。
東欧の国から、再び哀しい記憶にまみれたイタリアに舞い戻った彼女は、素性をかくしてメイドになり、やがてその家の娘テア(クララ・ドッセーナ)との間に、ほのかな愛情を育んでゆく。
しかし、そのイレーナの心に秘めた想いは、忌まわしい過去からの魔の手によって掻きむしられ、悲劇が起きることとなる・・・。
この映画には、共感できる部分もあるが、正直言って共感できないような部分もある。
だから、観客はいたるところで驚きと戸惑いをかくせない。
でも、それも映画なのだと敢えて納得するか。(?!)
作品の中に描かれる、苦しみも悲しみも、そして愛もが、ほとんど息もできないほどに激しく、衝撃的なシーンが速いテンポで展開する。
トルナトーレ監督は、運命に翻弄される女、夢の女ではない、現実の女をとりあげる。
・・・新天地を求めていた、イレーナの夢は打ち砕かれる。
仮面をつけて、次々に衣装を脱ぐように命じられて、ついに全裸になる。
仮面と全裸、それは顔の美醜にとらわれず、冷酷に性の道具を見極める手段として、実にリアルに女の運命を突きつけてくるのだ。
自分の意志で選んだはずの、その人生の最初の試練が、終わりのない凌辱の人生の始まりなのであった。
彼女の人生はズタズタに切り裂かれて、もはや修復できないほどにキレギレになり、そんなイレーナがさらにさらに地獄に堕ちるのを見せつけられる。
目を背けたくなるような、衝撃的な場面が続く・・・。
それも、イレーナの強い視線に導かれるからか、視線は釘づけになった。
彼女の過去は、まさに「売られた」娼婦であった。
イレーナは裕福なアダケル家のメイドになるが、どこまでもつきまとう忌まわしい男の影は、払っても払っても彼女を追って来ていた・・・。
心を熱する母の愛、失われた時、悲惨すぎる自分の過去、それらを包むように、暗い主題を, 哀愁に満ちた、エンニオ・モリコーネの音楽が全編に奏でられる・・・。
作品は、ミステリータッチである。
物語全体が、愛と謎に満ちているのだ。
まるで、先の読めない展開・・・、オープニングの衝撃から、一瞬たりとも目が離せない、スリリングな物語を紡ぎだしてゆく。
ロケーションは、まことに陰影に富んでいる。
哀しみの中にも強さをにじませるヒロインを演じる、クセニア・ラパポルトはロシア出身の実力派女優だそうで、「母なる愛」の揺るぎない強さを見せてくれる。
イレーナと心を通わせる、アダケル家の一人娘テア役をクララ・ドッセーナは、ときに大人っぽく、イレーナとの会話は、大人の女同士のようでもある。
子守唄を歌って欲しいとテアに言われ、イレーナは、一曲だけ知っている故郷の子守唄を歌う。
・・・それは、切なく、美しい旋律であった。
他に、この作品では、イレーナの育った東欧の国ウクライナ、港町トリエステ、過酷な運命を辿ってきた彼女の想い出の象徴として使われている苺、からすみのスパゲティ、高級レジデンスの螺旋階段などもキイワードになっているように思える。
映画の冒頭で、トリエステに現れたイレーナが、スーパーマーケットで何パックもの苺を買うシーンがあるし、切り離そうとしても切り離せない、彼女の過去と現在を象徴する螺旋階段は、老家政婦ジーナが転落するシーンで使われるが、そのシーンの前後でも幾度となく登場する。
ラストになって、はじめて全てのシーンに納得できるのだけれど、それぞれのシーンは、説明しすぎることもなく、見た人がどんな受け止め方をするかの「余白」を残して、丁寧に仕上げられている。
ただ、個人的な見解を問われると、やはり気の重い作品ではある。
・・・復讐なのか、償いなのか。
その愛が、心に突き刺さる・・・。
*この映画についての詳細は是非こちらへ。→「http://www.komoriuta-movie.com/#read」
エンニオ・モリコーネの哀愁のメロディーが流れてきます。