徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「シルク」ー秘められた愛の抒情歌ー

2008-01-22 06:07:31 | 映画

底冷えのする厳しい寒さ・・・、いつまで続くのだろうか。
昨日も、今日も、そして明日も・・・?

 「・・・あなたの幸せのためなら、ためらわずに私を忘れてください。」
 一通の日本語で書かれた手紙が、秘められた愛を導いていく。

映画「シルク」を観た。
日本、カナダ、イタリア合作の映画、フランソワ・ジラール監督作品「シルク」は、海を越えてめぐり逢う愛の物語と言う触れ込みである。
・・・愛は運命に紡がれ、そして永遠となる・・・。

原作は、イタリアの作家アレッサンドロ・バリッコの叙事詩的小説「絹」で、世界26ヶ国に翻訳され、ベストセラーになったそうだ。

映画「シルク・ドゥ・ソレイユ」「レッド・ヴァイオリン」の演出でも知られるジラール監督が、<人間が、人や国、物事にめぐりあうこと>をモチーフに、はかなくも切ない愛と運命を、一種壮大なスケールで映画化して見せた作品である。

人は、生きて何にめぐり逢うのか。
愛する人、見知らぬ場所、かけがえのない真実・・・。
人は、思いがけず、何かに出会うことで、その出会いで運命の変ることもある。
この映画は、一人の男の“邂逅”を、ロマンティックにかつミステリアスに描く。

十九世紀、フランス・・・。
男は、愛する妻を残し、遥か極東の地日本へ。
そして、美しい一人の少女との出逢いが、彼の人生を変えてゆく。


戦地から故郷の村に戻ってきた、若き軍人エルヴェ(マイケル・ピット)は、エレーヌ(キーラ・ナイトレイ)と出逢い、恋に落ちて、二人は結婚する。
そんな矢先、二人の住む村では、蚕の疫病が発生し、エルヴェは世界一美しい絹糸を吐く蚕を求めて、日本へ旅立った。
愛する妻を一人残して、彼は、見たことも聞いたこともない異国の地へ、砂漠を越え、大陸を横断し、海を渡り、遠く険しい道程を進む。
東へ東へと向かったエルヴェの前に、ついに異郷の光景が広がる・・・。

日本は幕末である。
その日本で、青年エルヴェは何を見たか。
彼を待っていたのは、謎めいた神秘的な少女(芦名星)との出逢いであった。
それは水墨画のように、静謐な雪国の村の湯けむりのなかに揺らめいて、まるで、日本の古い民話の世界の“夕鶴”や"雪女”を想いださせる、絹のように美しい少女の姿であった。
詩情が溢れている・・・。
多くのカットの中でも、とくに冒頭のこのシーンは、何とも言えない見事なカメラワークで、秀逸な映像を見せてくれる。

その少女は、ゆっくりと振り返り、こちらに漆黒の瞳を向けて・・・、しかし言葉はなかった。
遠い、遥かな幽玄の世界が、そこにあった。
少女は、<幻影>だったのかもしれない。
少女は、何も語らず、見知らぬもう一人の少女を、エルヴェの夜の床に差し出すのだ。
このもう一人の少女も“少女”の分身であり、幻影なのだ。

この謎めいた少女に魅せられたエルヴェは、在仏日本人マダム・ブランシュ(中谷美紀)の協力を得て、幾度か、命がけで、非日常的な日本への旅を繰り返すのだ。
作品は、非日常かつドラマティックな邂逅から、もっとも身近で平凡なものにめぐり逢うという、深いテーマを綴っていく。

青年エルヴェの運命を一変させるのが、“少女”から届いた手紙である。
日本語で書かれたその手紙は、こう結ばれていた。
 「あなたの幸せのためなら、ためらわずに、私を忘れてください。」
その言葉には、秘められた想いが綴られていた。

エルヴェの東洋幻想は、この映画のラストで、思いがけない結末を迎えることになる。
彼の旅は、すべてが儚い幻想だったのか。
ここに描かれるエルヴェの目に映った日本は、敢えて言うなら、西洋人の東洋的なエキゾティシズムへの憧れの象徴なのかも知れない。

周到に準備された美術や衣装、ロケ地の背景はなるほど美しい。
馬車、汽車、馬、徒歩、アルプスの山脈、ウクライナの平原、舟による旅、庭や工場、幕末の日本の北国の村・・・。
これらの映像は、飽きさせることなく楽しい。

・・・時が流れ、エルヴェは、母国でエレーヌと平和に包まれた穏やかな暮らしをしていた。
だが、突然エレーヌの死という悲劇がエルヴェを襲う。
数年後、スエズ運河の開通(1869年)により、日本への道のりはわずか20日余りの旅となっていた・・・。

エレーヌが遺した庭園で、一人悲しみに暮れるエルヴェは、数年前のあの手紙について、全てが明らかにされ、驚くべき真実を知ることとなるのであった・・・。

演出について、言いたい。
映画の演出にあたって、ジラール監督はどれほど日本文化、伝統に認識があったか、かなり疑問だ。
それは、とくに映画の中で、大事な伏線として登場する“少女”をはじめとする、日本女性の描き方にある。
ぬめぬめと濡れ光る、女の唇の大写しによる、三文映画のような安っぽいエロチシズム・・・。
来客の接遇のさい、主人の膝に顔を埋める女性の態度、和装の乱れ、仕草、たたずまいの大ざっぱなこと、湯浴みのシーンに登場する女が、エルヴェの肩に湯をかけるシーンなど、日本女性を芸者か遊女のイメージでしかとらえていないように思える。

ふざけた、好奇の目で眺めていないか。
外国人が、日本文化、日本女性をどれだけ理解しているのか。
あまりに知らなすぎる。知っての演出なら、ひどすぎる。
日本の女性の持つ、深く、繊細な多様性をまるで分かっていない。
だから、どんなに美しい映像であっても、雑駁な演出が女性をだらしなく見せている。
清純で、至高の愛の物語のはずが、何だか一瞬汚らしいものに見えてならない。
画竜点睛を欠いている。大変残念である。
日本女性は、古来、手弱女と言われ、優雅で美しい筈だからだ。
この点で、ジラール監督には失望した。

出演は、ほかに、闇取引の権力者役の役所広司ら、「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」の坂本龍一が、優美な音楽を担当している。

重ねて言うけれど、大事な役どころだからこそ、女性の描かれ方は重要な筈なのだ。
日本女性として描かれる“少女”について言えば、映画の中で、この少女は一言の台詞もない。名前もない。
目と仕草だけの演技である。これは、成功だ。
このあたりは、大変よく描かれている。
そして、まさに、この“少女”はエレーヌ自身、エルヴェにとって“少女”はエレーヌの分身であり、幻影なのである。
あの湯煙のなかに、ひっそりとたたずむ裸身の“少女”と、印象派の絵画のような柔らかな光に包まれて、庭園に立つエレーヌが、映画のラストで溶けあうのだ。
年老いた、エルヴェの心に去来するものは何だろうか・・・。

女の無償の愛と、男の苦い悔恨の物語とも言えるかも知れない。
その向こうから仄見えてくるものは、女心の「あはれ」と、そしてもうひとつは、男心の「あはれ」ではないだろうか。

 *この作品「シルク」についての詳細はこちらへ。→ 「 http://www.silk-movie.com/ 」
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