カンヌ映画祭でグランプリを受賞した、「殯(もがり)の森」で主演を務めた尾野真千子が、この作品でヒロインを務めている。
詩人・御徒町凧監督が、小嵐九八郎の原作を得て手がけた、初映画作品だ。
タイトルの「真幸くあらば」は、万葉集巻第二の有間皇子のあの歌から引用されたものだ。
南木野淳(久保田将至)は、遊ぶ金欲しさに空き巣に入った家で、居合わせたカップルを衝動的に殺害してしまい、一審で死刑を宣告される。
だが、彼は検察と争うことなく、弁護士(佐野史郎)の提出した控訴を自ら取り下げ、そのまま死刑が確定する。
その彼に、クリスチャンの女性が突如面会に訪れる。
川原薫(尾野真千子)と名乗るその女性は、淳が殺した男性の婚約者だった。
彼が忍び込んで、殺人を犯したのは、その男性と別の女性との逢引の現場だったのだ。
婚約者を殺した憎むべき男であるとともに、婚約者の不実を暴き、それを裁いた男に、薫は強く惹かれていく。
そして、幼い頃から愛を知らずに育った淳も、薫によって生きる喜びを知り、ひとを愛する喜びに目覚めてゆく。
厳正な監視がつく面会室で、アクリルの板越しでしか会うことのできない二人・・・。
互いを求め合うようになった二人は、薫の差し入れる聖書に小さな文字で書き込みをし、それが二人の思いを伝え合う秘密の手紙のようになっていくのだった。
「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む」
この歌は、謀反の咎で捕えられ、刑死を間近に控えた有間皇子が、祈りのように詠んだ歌とされる。
その哀切な調子と淡々としたリズムに、音楽のように織りなされた映像詩が、「死刑」という刻限を迎えようとするなかで、指一本触れることさえ許されぬ、絶望的な状況下での純愛を描いている。
これを、「脳内純愛」と呼ぶ人(学者)もいる。
奇跡のような究極の状況設定だが、死刑囚とヒロインの、極端に台詞の少ない、陰翳に富んだ演技は、まことに静謐である。
もっと、奥行きのある、精神的な苦悩と葛藤が描かれてもよかったのではないかという気がする。
いや、しかし、淡々、粛々と演じていることで、これはよいのかも知れない。
そんな風にも思えてくる。
女優の尾野真千子は、「演技」をしないでも、惻惻と心の襞を表現できる人らしく、デビュー時から一皮むけた成長を感じさせる。
映画の最終場面、満月の夜、月光に照らし出されるヒロインの裸身は、それ自身が渇望する愛の恍惚の塑像であり、一編の映像詩となる。
まだまだ期待できる新人監督、御徒町凧の作品「真幸くあらば」は、互いに決して触れ得ない禁じられた愛を描いた、上質な小品といえそうだ。
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いけませんよ、ちゃんとお参りをして、お祈りをしませんとね。はい。(笑)
って言うか、ただの恋愛さえも遠いもののように思え、もうちょっと何とかならんかなーと思う昨今(笑)。
せめて映画だけでも、みたいな。