徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「シリアの花嫁」―再帰なき国境を越えて―

2009-05-09 20:30:00 | 映画

もう二度とは帰れない。
それでも、私はこの境界を越える。
イスラエル占領下の、ゴラン高原・・・。
若き娘モナが、シリア側に嫁いでゆく一日の物語だ。
いい映画であった。

モントリオール世界映画祭で、グランプリに輝くなど、数々の映画賞を受賞した。
エラン・リクリス監督の、イスラエル・フランス・ドイツ合作の‘女性映画’だ。


結婚式の今日は、花嫁モナ(クララ・フーリ)にとって、最高に幸せな日となるはずであった。
しかし、彼女の姉のアマル(ヒアム・アッバス)も、悲しげな顔をしていた。
何故なら、一度国境を越えて、花婿のいるシリア側に行ってしまったら、二度と家族のもとには帰れないからだった。
国境の境界線とは、軍事境界線のことをさしていた。

彼女たちをはじめ、家族もみな、国、宗教、伝統、慣習、あらゆる境界のしがらみに翻弄され、もがきながら生きていた。
モナは決意を胸に秘めて、‘境界線’へ向かうが、そこでは複雑なトラブルが彼女たちを待ち受けているのだった・・・。

モナがシリア側へ渡るための、手続きを行うイスラエルの係官が到着する。
彼女の通行証に、イスラエルの出国印が押される。
国際赤十字のジャンヌと称する女性が、モナの通行証を持ってシリア側へゆく。
モナの代わりに、彼女が所定の手続きを踏まなければならないのだった。

家族は、手続きの終了を待つのだが、シリア側の係官がイスラエルの出国印を見るやいなや、その通行証を「承認できない」と言って、突き返されてしまうのだ。
イスラエルの係官は、花嫁はイスラエルから出てゆくと主張する。

・・・一方、ジャンヌや係官たちのトラブルをよそに、モナの姿が見えなくなる。
何と、モナは国境のゲートをするりと抜けて、シリア側に向かって歩き出しているではないか。
晴れやかで、美しい表情を満面に浮かべて・・・。

舞台となるゴラン高原の村は、もともとシリア領であったが、第三次中東戦争の時イスラエルが占領した。
この地域の多くの住人たちは、‘無国籍’扱いとなり、新たに引かれた‘境界線’の向こう側にいる肉親との行き来さえも不可能にされた分断状態に置かれているのだ。
境界線のところで、急に仲介人らしき女性が現われたのには、ちょっと驚いたが・・・。

結婚式が、家族の永遠の別れになるかも知れないという、逆説的な筋立てが、すでに劇的な要素をはらんでいる。
小さな場所を舞台に描かれた、巨大な絵画の趣きだ。
それは、自由への愛、自由の精神への愛を謳っているかのようだ。
ここであれ、向こうであれ、それがたとえ国境の向こうであろうとも、どこであれ、希望という灯を抱き続ける人々の大いなる夢なのだ。

エラン・リクリス監督映画「シリアの花嫁は、構成力、演出力共に優れた作品だ。
複雑な中東情勢を背景に、花嫁や家族ひとりひとりの一日のエピソードの数々を、時にコミカルに、時にリズミカルに積み重ねて、深みのある物語を綴っている。
そこには、闘う女たちの姿がある。
それが、人間の‘強さ’だろうか。
国家のはざまに生きる人々を描いて、胸に迫るのは何か。
そして、ふと思った。
国とは、国家とは何なのだろうか。