こういう映画だからこそ、日本から世界へ発信したい。
佐々部清監督は、上映後のトークショウでも、敢えてそう言い放った。
それは、人生の愛おしさであり、温かい命の尊さなのであった。
・・・生きとってくれて ありがとう・・・
・・・生きとってくれて・・・
広島の原爆投下から十年後と、現代とに生きる二人の女性を通して、現在までに至るあの原爆の影響を描いた、こうの史代原作 「夕凪の街 桜の国 」は、映画化の難しい題材だった。
製作者の誰もが背を向ける中で、佐々部監督は、この作品の映画化に果敢に挑戦した。
監督は、「半落ち 」(日本アカデミー賞最優秀作品賞)、「 出口のない海 」など、人間と家族の思いを見つめ続け、情感溢れる作品群を生み出してきた。
昭和33年、戦後の復興の進む広島で、皆美(みなみ/麻生久美子)は、母親フジミ(藤村志保)と、貧しくも平穏な暮らしをしていた。
弟の旭(伊藤充則)は、戦時中に水戸へ疎開し、そのまま叔母夫婦の養子になっていた。
皆美は、会社の同僚打越(吉沢悠)から愛を告白される。
しかし、原爆で自分が生き残った罪悪感に苦しんでいる皆美は、幸せに素直に飛び込んでゆくことが出来ない。そんな皆美の想いを、打越は優しく包み込んでいくのだったが・・・。
皆美の問いかける言葉は、重く響く・・・。
「私、生きていていいのでしょうか」
この言葉の裏には、ひたひたと打ち寄せる、あえかな哀切がにじむ。
それは、まるで慈悲か救済を求めているかのように・・・。
主人公に語らせる、ずしりと身にしみる一言である。
平成19年、夏の東京・・・。
定年退職した旭(堺正章)と一緒に暮らす娘七波(ななみ/田中麗奈)は、父親旭の最近の行動を気にかけていた。彼もまた心に深い傷をもっていた。
今夜も、一人家族に内緒で出かけていく彼の後をつけてみると、深夜バスの着いた先は広島であった。
七波は、広島で、父旭が立ち寄る先々や、会う人々を遠目にに見ていくうちに、亡くなった祖母フジミや伯母皆美への思いをめぐらせていく。
そして、七波は家族や自分のルーツをたどりつつ、広島でのかけがえのない時間を過ごしていく。
・・・現在と過去が交錯し、その回想の中に、何気ない日常生活、家族や恋人との愛にあふれた人生から感じとれる、温かな命の尊さと歓び・・・、そして平和への願いが紡がれる。
原作は漫画なのだが、それをもとに脚色された台詞の一言一言には重いテーマが宿る。
佐々部監督は、演出にあたって、出演者に、どんなに悲しい台詞であっても絶対に涙を流さぬように異例の注文をしたそうである。
それでも、出演者たちは、監督のこの注文を完全に守ることが出来なかったと言う。
(これは、トークの中でも佐々部監督が話していた。)
映画終演となって、満員の会場で佐々部監督のトークショウは、とにかく大変な盛況であった。
(実は、自分も監督のトークを聞きたかった一人なのだが・・・)
話は30分に及び、撮影の苦心談やエピソードが披露された。
監督は、終始熱っぽく自分の作品を語った。
好感のこもった饒舌であった。
「私は、日本人の、日本人のための映画を作りたい。外国に発信出来るような大きな映画を作ろうとは
思わない。それが、私の信念なのです。
しかし、この作品だけは別なのです。どうしても、これだけは世界へ発信したかった。そうしなければい
けなかった。日本から世界へ伝えたかったのです。
まあ、いろいろありましたね。
夏の盛りの撮影でしょ、桜の国と言ったって、当然桜の花なんかないわけですよ。
困りましたねえ・・・。合成写真なんか使ってね。
一番困ったのは、お金(制作費)が集まらなくてね、いやもうこれは大変だったんですよ。」
あの広島の悲惨から、すでに六十有余年・・・、誰かが語り継がねばならない事実である。
文化庁メディア芸術祭大賞を受賞した、昭和からのメッセージだ。
映画 「夕凪の街 桜の国 」 ( http://www.yunagi-sakura.jp/ )は、被爆者の目を通して描かれているが、いまや被爆二世三世の時代となって、これは、反戦、核戦争への静かな警鐘でもある。
心の癒される音楽がいい。