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徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

ー日本語(言葉)あれこれー

2007-10-24 17:20:00 | 寸評

もう、大分昔(?)のことになりますが、「うざい」「きもい」などと言う言葉を、女子学生が喋っているのを聴いて、大体の察しはついても、初めは意味がよく分かりませんでした。
こういう言葉が、国語として新たに認められることになったようです。

新聞の記事によりますと、国語辞典の「広辞苑」が、来年一月発売のものから、大きく改訂になり、若者の言葉を含めて一万語が追加され、そのうち四割はカタカナだと言うことです。
「広辞苑、めっちゃ変身」と言う、大見出しが踊っていました。
それも、何と一万語の追加ですって

それは、そうですね。
次から次へと、新しい言葉が生まれてくるのですから・・・。
一体、誰が、どんな時に、どのようにして、こうした言葉をつくってしまうのでしょうか。
特に、若者言葉は、中高年には分かりずらいものです。
表現、表情から、それでもおおよそどんなことを言っているのか想像はつきますけれども・・・。
まあ、私たちは、まず「うざいねえ」「うざいなあ」なんて言葉は使うことはありません。

国語辞典の今回の改訂は、岩波書店では十年ぶりのことで、新たな一万語を加えて、収録語数は総数24万語となって、これは過去最大だそうです。
このたびの編集方針の一つは、やはり「若者言葉がどうもわからない」という、高齢者の要望にも応えたことです。
とはいえ、元からある分厚い冊子版は、国語辞典の王様で、多くの人に愛用されてきましたが、今のIT時代に好調な電子辞書と比べると、かなりの苦戦を強いられているようです。
まだ使ったことはありませんが、確かに、電子辞書も便利は便利でしょうね。
でもねえ・・・。

電車やバスの中の会話で、「うざい~」「めっちゃ~」「きもい」など、よく耳にする言葉です。
・・・新「広辞苑」になると、例えばこうなります。
「うざい~」は、「うっとうしい。気持ちが悪い」に(「うざったい」を略した俗語)と説明がつくし、「めっちゃ」の用例は、「めっちゃ腹立つ」となるのです。
「きもい」は、見た目に明らかに気持ちが悪い場合に使われる例が多く、この「きもい」と言う言葉は、1970年代に既に存在した言葉で、若者を中心に会話の中で使う頻度が増したのは、1990年代後期に入ってからだと言われます。
今ではもう一般的になった、「おしん」「メタボリック」「ブログ」「顔文字」「ニート」「いけめん」「クレーマー」「デパ地下」「さくっと」「逆切れ」と言った言葉などは勿論ですが、「きときと」「めんそおれ」といった各地の方言も、改訂版には追加されるようです。
こうなってくると、どうも、何事も、日頃から<勉強>が大切(?)なようで・・・。
いやあ、知らないでいると、笑われてしまいます。

このところの、ITの目覚しい普及で、書籍の市場は厳しく、それに少子化で、辞書は書店に積み残されている状態です。
日本語の文字の意味も当然ですけれど、読み方、書き方だって大切ですよね。
何たって、日本人なのですから・・・。
特に、国語の先生には頑張って頂きましょう。
時代の移り変わりとともに、新しく生まれる言葉も、それぞれが確かな<意味>を持って生まれてくるわけですから、「そんなものは・・・」などと言って、無視できない環境にあることも事実です。
新しい国語辞典に収録される項目の解説は、大いに参考になります。

・・・ところで、話は異なりますが・・・。
新しく生まれてくる、雑駁ないわゆる俗語は、ことほど左様に砂の数ほどありますけれど、古来日本語は実に美しい言葉で、語彙が豊富で、音韻も繊細で、確かな意味を持ち、一語一語にそれなりに深いニュアンスがあります。
こんな言い方をしたからと言って、決して我田引水とは思っていません。

古くからある日本語をちょっとだけ紐解いて見ますと・・・。
例えば、『自然』の言葉を拾って見れば、「
かわたれどき」「朝惑い」「うそうそ時」「灯点しごろ」「小夜すがら」「月の雫」、『秋』の言葉では、「秋渇き」「秋の扇」「秋の声」「末枯れる」「夕紫」「夕眺め」「松の声」「色なき風」、『冬』になると「雪暮れ」「天花」「忘れ雪」、他にも「緑の雨」「身を知る雨」とか、美しい日本語は沢山あるんですね。
こうした言葉の持つ意味、言葉通りもあれば、少し解釈に頭をひねるものもありませんか。
全部、分かりますか。えっ、分かる・・・って、それはすごい
・・・個人的には、例えば『別離(別れ)』とは言ってもいろいろありますが、昔からの「きぬぎぬの別れ」なんて、何とも言えないいい言葉です・・・。

余談ですが・・・、こうした世界に例を見ない、微妙で繊細な日本語の外国語訳って、難しいでしょうね。
川端康成さんの名作「雪国」を、原語と英訳とを並べて読み比べたことがありました。
サイデンステッカーさんは、日本語の持つ深い味わいをよく理解されているようで、さすがに名訳だと思いました。
ノーベル文学賞の川端康成さんは、日本語の表現の美しさで右に並ぶ人のいない至高の方ですが、彼の晩年の著作に「美しい日本の私」と言うのがあります。
この作品の表題は、はじめ「美しい日本私」でした。
それを、熟慮に熟慮の末に、「美しい日本私」を、あとで「美しい日本私」と一字だけ訂正したいきさつがあります。一字ですが、文豪川端康成にして、そこまでこだわったのですね。
しかし、この一字を変えるだけで、意味はがらりと違ってきます。
このことに気づかず、サイデンステッカーさんは「美しい日本私」と英訳してしまったのでした。
そこまで言葉(日本語)と言うものを大切に考え、推敲する、作家の偉大さを感じたものでした。





「喧嘩か、競技か」ー反則ボクシングー

2007-10-18 06:00:36 | 寸評

 「何をしても、勝つんや! 勝つためには、何をしてもええんや
ボクシングの世界フライ級タイトルマッチで、挑戦者が常識はずれの反則行為を繰り返し、ライセンス停止の重い処分を受けた。
そして、相手を威嚇したとして、その父親のトレーナーも資格停止処分となった。
 「負けたら、あとがないんや
ボクシング界の、ご存知「亀田一家」の、今回の事件である。

身内の不祥事とはいえ、ボクシング人気を左右しかねないほどの、大きな問題となった。
相手の「目をえぐる」「抱きかかえて投げ飛ばす」など、これではまるで喧嘩騒ぎである。
受身の練習ももしていない選手を投げ飛ばすなど、選手生命を脅かす、重大な事故に繋がりかねない。

この「亀田一家」は、ボクシングの忠誠を担う役割に、期待も相当大きかったらしい。
これまで、いろいろなトラブルとも無縁ではなかったという。
王者の内藤選手は、亀田兄弟の父のトレーナーに、ゴキブリ呼ばわりされたこともあった。
今回の内籐戦の開始直前に、このトレーナーは、内藤選手に顔を近づけて、何やら威嚇した。
それを注意した会長に、「なんや、こらあ」とすごんで見せた。
これでは、ボクシングはまるで喧嘩である。競技としての、フェアな真摯さは見られない。
まだ十八歳とはいえ、繰り返される反則・・・、一体この少年は何をいきがるのか。
その暴力を止めることも出来ない大人がいる。
レスリング技(わざ)まで繰り出したラウンドで、もはや引っ込みのつかなくなった、哀れさまでが漂っているようであった。
挑戦者の父のトレーナーの、「反則行為も、本人の闘志の表れだ」と言うこの言葉は、放任の意味合いともとれて、感心できるものではない。
父親として、十八歳の息子を庇護する立場の責任も、まことに大きいと言わねばならない。

更に言えば、メディアが果たした役割の是非も問題だ。
番組中継局の立場と責任もなしとは言えない。
日本のボクシングは、興行もあるが、大口の収入はテレビ放映料がほとんどだそうだから、テレビ局におんぶにだっこである。問題の下地は、そこにもありそうだ。
中継テレビ局は、アナウンサーの実況ひとつとっても、その過剰な演出や配慮に、公正中立とは思えぬものを感じて、不快の一語につきる。
安手のヒーローづくりが、ボクシングのためになるとはとても思えない。
甘やかすな、甘ったれるなと言いたい。
或る新聞の調査によると、処分がまだこれでも甘いと言う答えは、何と84%だった・・・。

・・・龍哉が強く英子に魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる気持と同じようなものがあった。
それには、リングで叩きのめされる瞬間、抵抗する人間だけが感じる、あの一種驚愕の入り混った快感に通じるものが確かにあった。
試合で、打ち込まれ、ようやく立ち直ってステップを整える時、或いは、ラウンドの合間、次のゴングを待ちながら、肩を叩いて注意を与えるセカンドの言葉も忘れて、対角に座っている手強い相手を睨めつける時、その度に彼は嘗って何事にも感じることのなかった、新しいギラギラするような喜びを感じる。
そして、ゴングと共に飛び出して行く気負った自分を、軽くジャブを交しながら自制する時、その瞬間だけ、彼は始めて自分を取り戻しえたような満足を覚えた・・・。  
                               ( 石原慎太郎 ・ 「太陽の季節」より )

スポーツは、あくまでもフェアであるべきだ。
スポーツマンシップのない者は、スポーツに参加する資格はない。
日頃の取り組み、生活態度、口の利き方等等・・・。あまりにも品がなさすぎるではないか。
スポーツマンシップに通じる、素地の大切さを見直して欲しいものだ。

処分を受けてから2日たって、事の重大さに気づいた亀田父子の謝罪会見(?)があった。
父親と並んだ少年は、終始無言で、おもてを上げることもなく、うなだれたままであった。
彼本人の口からは、一言の「謝罪」の言葉さえももなかった・・・。
これが、謝罪会見と言えるのだろうか。
あの、強気な発言とパフォーマンスを見せた、二人の面影はそこにはなかった。
試合前、挑戦者本人は、「負けたら切腹」とまで言っていたそうだ。
おごりも甚だしい。
それにしても、謝罪会見(?)は、十分な説明責任を果たしているとは言えず、ボクシングコミッションの対応も不可解なものだった。
この一家を特別扱いしているのだろうか。
どこか、空しく、かなしい会見だった。
挑戦を受けた王者への、謝罪はまだなされていない。

この一件、ボクシング界全体の自浄努力までが、問われることになりそうだ。
・・・こんなことでは、もしかすると来年の国語辞典(改訂版)から、「スポーツマンシップ」という言葉は、消えてなくなるかも知れない。
 ~ええっ・・・?!



「一円からの領収書」ー政治とカネー

2007-10-10 16:00:00 | 寸評

紅葉が始まり、秋は確実に少しずつ深まりの色を見せている。
衆議院予算委員会が始まった。

いま、「一円からの領収書」が必要かどうかをめぐって、与野党で紛糾している。
事務が煩瑣になる、政治活動の自由が束縛されるから、与党は反対だというのだ。
政治活動に支障が出るとは、どういう支障なのだろう。
国民の、十分納得できる説明はなされていない。

国会議員は、巨額の歳費を給与として受け取っている。
国民の数倍の高給取りである。
その上に、政治資金である。この、政治資金という金が、政治家にとって、いかに美味しく、うま味があるかということだ。議員は、そのための別腹ならぬ、別の財布を持っていて、私的に流用されているのではないかと言われている。
これは、どうやら事実らしい。
そこが、問題なのだ。
そこには、使途不明金、ルール違反、闇のカネがめまぐるしく動いているからで、要するに後ろめたい部分があるのだ。

怪しげな事務所経費の疑惑さえも、十分に説明責任の果たせないまま逃げまくっている、前文部科学相、現自民党幹事長のあの方の態度など、到底容認できるものではない。
さらに、自民党の元締め、福田新首相に、またしても領収書の書き換えが発覚した。
しかも、改ざんされた領収書は、100枚以上もあるという。
福田首相は、「まことに、汗顔の至りです」と言って謝罪した。
小泉内閣の官房長官であったとき、年金未納問題で、自らその職を辞した経緯があるが、今度の事態は、それ以上に重いことではないか。
「汗顔の至り」ですませることなのだろうか。
100枚を超える領収書の改ざんというではないか・・・!
驚くことばかりである。どなたかと同じような、「伴食宰相」でないことを祈る。
問題は、なにも与党に限らない。野党の民主党にも、いろいろくすぶっている。
何だ。こっちもそっちもか。
とどまるところを知らない。
いつ、どこで、不発弾(?)が爆発するか、全く予断を許さない。

福田首相は、「一円からの領収書」についてこう言っている。
 「いろいろと、すべてが公開されるとなると、問題もある。ここはひとつ、慎重に考えないと・・・。如何なものか」
一円からというのは極端だから、もう少し譲ってもいいのではないか。
百円の領収書位はあるものだ。
(もっとも、議員ともなると100円ショップで買い物などしないか)

「領収書の公開」は、今や民意の大勢なのだ。当然のことだろう。
一般庶民は、誰もが経理上やっていることだ。
それが、国会議員に出来ないわけがない。
やるとまずい。だから、やらない。やろうとしないのだ。
領収書で、会食相手が明らかになれば、政治活動の自由が損なわれるからと、与党は全面公開に反対している。
会食相手の名前など、領収書に書いてあるものなど見たこともない。
おかしなことを言う。
その程度のレベルなのである。

政治とカネの感覚マヒ!政治とカネの深い闇!
その根源にあるのが、企業や団体の献金、政党助成金だ。
政党、政治家が、広く国民と結びつく努力もしないで、やすやすと巨額の資金を得られてしまう仕組みが、庶民感覚から乖離し、堕落した、金権腐敗政治の温床となっているわけだ。
日本の政治家が、一流はおろか、二流にもなれず、やはり三流と言われる所以だろうか。
情けない話である。

・・・世の中の誰もが、平和で幸福になれる社会の実現を願っている。
その、善良な国民一人一人によって選ばれたはずの彼等は、言葉では、天下国家のため、改革のため、万民のためと称して、あらん限りの大言壮語、美辞麗句を弄し、人前では七重の膝を八重にまで折って恭しく頭を下げ、誰にでも握手を求めて、肩をぽんぽんとたたき、ときにやさしく猫なで声をかけるが、一方で、永田町の赤絨緞の廊下をせわしく行き来する時は、互いの腹の中を探り合いつつ、一般庶民との大いなる格差に、いささかなりとも尊大な気分を満喫し、ひたすら利権を追う別の面容に変身し、ぎらぎらとした目をしばたたかせながら、、日夜そのためにのみ、それこそ人目の届かぬ政治とカネの奥深い闇の底で、がさごそと蠢きまわる、まことに妖しげな魑魅魍魎の一群となるのであった・・・。

ところで、やはり不透明な使途が指摘されている、地方議員の政務調査費については、20府県で、「一円からの領収書」を政治資金報告書に添付する方針を決めたそうだ。
「政治とカネ」に対する国民の批判は、地方にも影響を与えている。

私見では、領収書のコピーはいろいろ問題もあるので、原本を添付すべきではなかろうか。
とにかく、「政治とカネ」による政治の混迷は、もういい加減にしてほしい。

国会では、今日も衆議院予算委員会で、与野党の活発な論戦が火花を散らしている。
一部には、年内にも衆議院の解散があるかも知れないと言われる中、当分は、成り行きを厳しく見守っていく必要がある。






ーあな恐ろしき、「かわいがり」ー

2007-09-30 19:30:01 | 寸評

ようやく秋色が濃くなってきて、北の国からは、紅葉を通り越して、早くも雪の便りが届く頃となった。
・・・この日本の四季の移ろいだけが、美しい。
しかし、毎日毎日、目を覆いたくなるようなよくない事ばかり、次から次へと起きている。

 「おい、たんとかわいがってやれ」
 「へい、たんとかわいがってやりやした」
 「そうか。誰にも喋るんじゃねえぞ」
 「へい、わかりやした」
 「喋ったら、お前たちも、かわいがってやる」
 「ひ、ひぇ~!」
 「いいな、分かったな」
 「へい、親方」
 「よし!」
・・・どうも、こんな風な会話が、親方と弟子の間で交わされたらしい。
名門相撲部屋での話しである。
 「かわいがる」とは、言わずもがな、「リンチ」である。
この言葉、とんでもない使われ方をしている。流行語にまでなりそうだ。

一人の若者が、まだこれからというときに、希望を夢見ていた未来を絶たれた・・・。
新しい世界で、その第一歩を踏み出したばかりであった。
朝青龍の一件といい、今回のリンチ事件といい、日本の相撲界はどうなっているのだろう。
それも、今回、どうやら壮絶なリンチが行われたらしい。本当に驚愕の事件である。
親方、そこまでやりますか。

伝えられる報道によれば、「かわいがり」と称して、弟子たちを殴る、打つ、蹴るなどということは、どうも当たり前のように、恒常的に行われているというのだ。勿論、全部の相撲部屋がそうだとは思わない。一部で行われているのだろうと思いたい。あってはならないことだ。
元力士は、はっきり証言している。
 「稽古は、ときには、相手を殺すつもりでやります。そんなこと、当たり前です」
稽古は勿論のこと、言葉使い、動作、日常生活などの細かいところまで、とにかく気にいらないと、師匠(親方)や兄弟子から「暴行」を受けることがあるのだという。
竹竿、棒切れから始まって、ビール瓶、中華鍋、金属バットとエスカレートするらしい。
あまりの痛さに「痛い!」と言うことも許されないのだそうだ。言えば、さらに「リンチ」はエスカレートする。
とにかく、徹底的に、とことん「かわいがられる」のである。
親方は、部屋では絶対権力者なのだろう。

中華鍋の場合は、鍋がへこむほど、しかも相手の頭を殴打するという。
いやぁ、たまったものではない。まったく、怖ろしいことだ。
 「かわいがり」にも、本来は、本人の耐えられる限界まで、ただし、頭部、胸部、腹部、股間などを打ってはいけないという不文律があるのだそうだ。
それでも、顎の骨やあばら骨の折れるなどは日常茶飯事だという。

人は誰でも、「可愛がられたい」と思う。そして、人は「可愛がってあげる」のではないか・・・。
日本の伝統国技たる相撲の世界で、信頼すべき親方(?)と愛弟子(?)との間で、やくざのような、理不尽な「リンチ」(虐待)が、まかり通っているとは・・・!
美しい師弟愛(?)なんて、いまどき幻なのか。

日本相撲協会とか、相撲部屋とか、「親方」って、一体何なのだろうか。
品格も品性もない、そんな親方が、このところマスコミを賑わせているようだ。
話をするときに、ろくに人の顔を見ようとしない。
そして、話と言えば、後ですぐに分かる嘘ばかりだ。一体、どうなっているのだろう。
文部科学省は、知っているのだろうか。この役所は、実体をどう見ているのだろうか。

大相撲秋場所で、横綱として初優勝した白鵬が、帰国していたモンゴルから日本に戻り、このいわゆる「かわいがり」の一件について触れ、初めて口を開いた。
白鵬は、自らも三段目、幕下時代に先輩力士からいわゆる「かわいがり」を受けた経験を明かし、横綱としての立場から意見したもので、
 「あの時は、本当にきつかった。最後は心臓がついていかなかった。いま、“かわいがり”をしたら、み
  んな逃げちゃう。よくないことだよ」と、当時を振り返っていたそうだ・・・。

十七歳の、夢と希望に燃えていた若者が、たとえどのような事情があったにせよ、誰の付き添いもなく、家族のもとに無言の帰宅をした。
まるで、宅配便のように届けられた我が子を迎えて、父と母の想いはいかばかりだったろう・・・。
嗚呼・・・!
それを思うと、言葉もない。目頭が熱くなって来た。
ただただ、無念の思いで、深い悲しみだけが広がってくる・・・。合掌。

いまのところ、この事件は、重大な刑事事件の疑いがもたれている。
詳細は、捜査の成り行きを見ないと軽々とは論じられない。
「国技」が、「国技」でなくなるかも知れない・・・!?
当分、相撲など見る気がしなくなった。不快感がこみあげてきて、嘔吐をもよおしそうだ。



自民党総裁選挙

2007-09-22 15:30:00 | 寸評

大変悲しいことでした。非常に残念なことでした・・・。
或る、民主主義国家の宰相ともある方が、こともあろうに「敵前逃亡者」となって、突然姿を消したと思いましたら、とある有名な大学病院に緊急入院なさっていました。
何と言うことでしょうか。
国民には、国家の最高責任者の職を、「ぼく、もうやーめた」とだけ言い残して、何のご挨拶も謝罪の言葉さえもなく・・・、ですって。それはもう世界中がびっくりです。
・・・ご本人はいま、新聞、テレビもご覧になれぬほど、ご容態もよろしくないということで、一日も早い、ご快癒をお祈り申しあげます。

しかし・・・。
主なき国会は、国会会期中というのに空転を続けています。
一日で、およそ三億円の冗費(無駄使い)とは・・・!
この政治空白・・・、もう幾日になりますか。
掛け算すれば、途方もない数字になってしまいますよね。
かくて、国民の血税があっという間に消えてゆくのです。・・・嗚呼!
自民党は、一日も早く、新総裁を選んで、首相の指名選挙を行わないといけません。
この総裁選は、自民党のあの幹事長と、あの元官房長官の一騎打ちの様相です。
もう、勝負はついているのかも・・・。

いつも感心するのですが、21日の大新聞の夕刊にこんな記事が掲載されていました。
多くの人々の目に触れたと思いますが、目にとまらなかった方のために、ここに引用させて頂きます。
                                    (引用は特に個人的他意はありません)

     ー『日本植物図鑑』 自民党編ー
 ●シンゾウハナミズキ
  「美しい花」が売り物だったが、実はひ弱で、花も咲かず、実も結ばず。
 ●ジットフクマチグサ
  絶滅危惧視されていたのが、あっという間にはびこり、23日にも開花か。
 ●キャラダチタロウアサ
  生まれはいいが育ちが悪いという麻の変種。大輪のはずが逆風に遭う。
           ×     ×
 似たもの同士の安倍首相と横綱朝青龍。
 見物にまともなご挨拶もなく、逃げるように消えました。
                                  (以上朝日新聞より) 

よくもまあ、今メディアの渦中におられる、御三方の姿を鋭く言い得て、妙なりですね。
読んで、おもわずふきだしてしまいました。
外国語に訳すのは、ちょっと難しそうですね。(そうでもないか?) ま、どうでもいいことですけど・・・。
日曜日には、新総裁がきまります。
どちらのお方が新総裁になられても、衆参両院のねじれ国会は、波乱含みとなりそうです。     




ー刀折れ、矢つきてー「安倍総理辞任」

2007-09-14 06:00:00 | 寸評

 晴天の霹靂とは、このことである。
 日本列島を激震が襲った・・・。
 正直、「いま、何故?」という気がしてならない。
 参議院選挙大敗後の、閣僚の不祥事から続く、一連の難問山積の中で、内閣改造を行い、シドニーの
 各国首脳会談で決意を語り、テロ特措法について、「職を賭して」全力を傾ける努力を約束しての、突
 然の安倍総理の辞任発表であった。

 内閣改造後まだ二週間あまりの、政府、与党でさえ寝耳に水の辞任劇だ。
 総理が所信表明演説を終えて、与野党の代表質問を受ける直前のことだった。
 こんなことがあっていいのだろうか。
 二日前に、このことを知らされていた麻生幹事長は、
  「お辞めになる時が、今というのは如何なものか」
 と慰留したそうだ。
 ・・・記者会見にのぞんだ安倍総理の涙目には、忸怩たる無念の想いが感じられた。
 そして、ただただ一国の宰相の幕引きとしては、空虚で無責任な光景に映った。
 
 参議院選挙大敗の直後であれば、辞任も大方の「理解」もあったのではなかろうか。
 いずれは、予想されていたとはいえ、健康上の理由とか、諸般の理由はどうあれ、国民の不快感はど
 うにも拭えない。
 さあ、やるぞと張り切っていた舛添厚生労働大臣は、目を白黒させて顔色を失った。

 海外の反響も大いに気になる。
 これまでの、日本の政界の一連の動きをどう見ているだろうか。
 お粗末この上ないと言うか、日本の恥部をさらすようなものだからだ。

 「人心一新」を唱えながら、安倍総理は、自らの引き際を量っていたのかも知れない。
 辞任後の新聞各紙に、「国民不在」「敵前逃亡」「総理乱心」「もういいや辞任」などというすごい見出し
 が躍り、或るベテランの県議は、「お坊ちゃま、ついにご乱心か」とまで困惑をあらわにした。

 この一年、この政権は一体何をしてきたのだろうか。
 安倍総理の失速、そして辞任・・・!!
 まことに中途半端な辞め方で、こうした辞め方をした歴代の総理大臣はかっていなかった筈だ。
 もう少し考えた、良識ある身の引き方があっても良かったのでは・・・。
 いやしくも、一国の宰相である。
 ・・・政治家として、社会人として、基本を欠いたきわめて幼稚な辞め方は、国政に汚点を残すだろう。

 これが、「政権の丸投げ」でなくて何であろう。
 もう、悲しいかな、前代未聞の椿事である。
 嗚呼・・・!!
 航路の見えぬ荒れ狂う海原、逆巻く怒涛を、木の葉のように翻弄されながら、難破船「日本丸」は何処
 へ向かって行こうとしているのだろうか・・・?
                            
 


  


雑感「ベネチア国際映画祭」

2007-09-11 04:30:07 | 寸評

 イタリアのベネチア国際映画祭で、最高賞の金獅子賞に、台湾出身のアン・リー監督の「ラスト・コーシ
 ョン」
という作品が選ばれたという。
 ニュースが伝えていた。
 香港スターのトニー・レオン主演の、いろいろとかなりハードなシーンもあるサスペンスドラマだそうだ。
 「最高に、情熱的な愛の物語」と前評判も高い。
 来年正月早々の公開が待ち遠しい。
 日本から出品の、コンペティション賞部門に期待のかかっていた、三池崇史監督作品「スキヤキ・ウエ
 スタン・ジャンゴ」は、賞を逸した。
 
 アン・リーと言う監督は、2005年受賞の「ブローク・バック・マウンテン」という作品に続いて、二度目
 
の快挙になる。
 なお、2006年の金獅子賞グランプリは、ジャ・ジャンクー監督の「長江哀歌」であったことは、まだ記
 憶に新しいところだ。
 
 ベネチア国際映画祭というと、ベルリン、カンヌと並ぶ世界三大映画祭のひとつだが、今回、グランプリ
 は逸したが、北野武監督の「監督・ばんざい!」(英語題名・GLORY TO THE FILMMAKER!)
 が、特別賞として新しい賞に輝いたのは、朗報と言えるだろう

  
 この映画祭では、1997年にも北野監督で「HANA-BI」が金獅子賞を獲得している。
 更に、もっと遡ると、古くは1951年「羅生門」黒澤明)、1955年「七人の侍」黒澤明)、1958年 
 「無法松の一生」稲垣浩)とそうそうたる日本映画作品が、“金獅子賞グランプリ”に輝いているのだ。
 
 1900年代後半の、この頃まで振り返ると、やはり、さすがに素晴らしい名画ばかりで・・・。
 ざっと想いだされるだけでも「情婦マノン」「裁きは終わりぬ」「禁じられた遊び」「ロミオとジュリエット」
 
「奇跡」「去年マリエンバードで」「赤い砂漠」「昼顔」等等、そのほとんどが、フランス映画であったことも
 まことに興味深い。
 そして、どの映画も見終わったあとで、数日夜も眠れぬほどの感動、というより深く訴えて来る物が強
 烈であった。
 いろいろなことを考えさせられてしまうほど、人間の魂をゆさぶり、心の奥底にまで迫ってきた。
 何しろ、どれもこれも鋭いインパクトがあった。
 いま、こうした映画は見ようにも見られない。時代が変わったと言えばそれまでだが・・・。
 何か、常に問題を提起し、問いかけていた。いや、強烈な問いかけがあった。
 黒澤明らの作品も、まさにこうした“グランプリ作品”と同列に並んでいたのだった。
 さすが、巨匠、鬼才である。
 日本映画の、全盛期だったかも知れない
 もう第二の黒澤明や三船敏郎は出ないのか。

 
 中国映画に押され気味で、このところ
日本映画の低迷が長い。
 世界に発信出来る、傑作の登場を大いに期待したいが・・。
 「世界」の
黒澤明の声が聞こえてくる・・・。
  「日本、頑張れ!映画が小さい。もっと大きく深くなれ、もっとだ」と。
 それにしても、近年中国映画の世界への台頭は、ハリウッドをさしおいて目覚しいものがある。
 中国映画、恐るべしである。
 これからは、中国映画から、目が離せなくなるかも知れない。


 
 


甘かった「身体検査」ー苦言呈上ー

2007-09-05 14:30:00 | 寸評

 改造人事で、首を長くして、モーニングまで用意して、官邸からのお呼びを待っていた政治家がいた。
 結局、入閣はなくて、この人は、総理大臣に「何故だ」と直談判したなんて、前代未聞の椿事だ・・・。
 そうかと思うと、「これだけは受けたくなかった」としぶしぶ(?)要請を受けたのは、農水省大臣だ。
 
 ・・・怨念の農水省である。そして、またしても・・・。
 改造内閣で、不祥事が発覚して、その農水省の大臣が、任命わずか8日間で辞任した。
 地元では「おらが地元の大臣」誕生と、祝賀一色のムードだったが、それも束の間の夢と消えた。
 1ヶ月もかけた「身体検査」って、一体何だったのだろう。
 官房長官が言っている。
  「森羅万象すべてが分かるわけではないのだから」
 なるほど、それはそうだ。

 今日になって、またである。今度は環境大臣の政治資金のずさんな収支報告が問題になっている。
 この数日間だけで、ミスや、不正が発覚した議員は10人を超えた。
 毎日毎日、釈明と陳謝がつづく。見あきた茶番劇には本当にうんざりだ。
  「いま、調査中です」
  「まことに申し訳ございませんせんでした」
  「目が行き届いておりませんでした」         
 とどまるところを知らぬ、不祥事の連鎖・・・。      
 墓穴が、どんどん大きくなっていくようだ
 あの、「人心一新」の高らかな掛け声は、どこへ行ってしまったのか。
 こんな昏迷の状態が、いつまでつづくと言うのだろうか。
 改造内閣の顔ぶれにも、ほとんど新味は感じられないし、何のことはない、10年、15年まえの自民党 
 に戻ってしまった。
 党三役の執行部も、依然として「お友達仲間」にあまり変わりはない。
 「人心一新」とは、何もかもすべてが変わって、初めから新しく出直すことではなかったのか。
 いつまでたっても停まらない、一連の不祥事は、究極のところ、最高責任者の責任では・・・?
 
 一国の総理の、「任命責任」って何なのだろう。「危機管理」って何なのだろう。
 この御方は、御自分にすべての「任命責任」があるとまではっきりおっしゃっている。
 しかし、何かことあるごとに・・・、
  「大変、残念です」 「本当に、残念です」
 いつも、この言葉のくり返しである。何という空しさか。これは、そもそも国民の言いたい言葉だ。
 そうではなく、もっと違う言葉はないのかと申し上げたい。
 野球の世界でも、成績不振であれば、投手や監督は即座に交代するではないか。
 不可思議なのは、一国の宰相から、間違いがあっても決して謝罪の言葉が聞かれないことである。
 忌憚なく言えば、国民に対して、真摯な言葉がひとつとしてないことだ。 
 そして、牽強付会というか、自説を強引に自分の都合のいいように理屈づける。
 指導者によくあることだが、感心できない。国民は納得しない。
 
 政治家に正直や清潔を求めるなんて、八百屋で魚をくれというようなものだと言った法務大臣がいた。
 まさに、残念ながらそういうことだろう。
 だから、カネのことはどうでもよい、要は立派な政治さえすればいいんだ・・・、というそんな無茶苦茶な
 論理を展開する。旧態依然とした、政治家(政治屋?)さんの多いのが、いまの国会だ。
 誰かが、いみじくも言った。
  「政治家は、ボランティアだ。一身を投げ打って、無償で、人のため、国家のためにつくすことだ。
   自ら見返りを求めるものではない。それが出来ぬなら、政治家になどなるべきではない」
 名言だけれど、しかし、そんなきれいなことを言っても理想論で、現実となると・・・?

 嘆かわしきは、品格と資質に欠けた政治家(政治屋?)たち・・・。
 何と言う、いまの内閣の体たらくだろうか。
 閣僚が、短期間で次から次へと代わる日本の姿は、外国にどう映っているだろう。
 来週早々、波乱含みの臨時国会が開かれる。
 国民は、目を凝らして見守らなくてはいけない。
 イラク特措法はどうなるの?着服、横領までされた巨額の年金は・・・?(これは、もう犯罪ですぞ!)
 呉越同舟の「ねじれ国会」、はたしてどういう展開を見せるのだろうか。
 これから先のシナリオは、誰にも予断を許さない。
 永田町は、風雲急を告げている・・・。
 或る夕刊紙の一面に、早くも「秒読み、内閣総辞職」の大きな見出しが踊っていた。
 
 
 

 

 
 
 
 


「エスカレーター」ー油断は禁物ー

2007-08-29 04:30:00 | 寸評

 暑い日盛りの中に、夾竹桃の花が映えて、去りゆく夏を惜しむように降りしきる蝉時雨・・・。
 それでも、朝晩はひんやりとした秋の風を感じるようになった。晩夏である。
 
 その駅のエスカレーターは、いつものように順調に動いていた。
 今日も、多くの人たちが利用していた。
 エスカレーターは、上りも下りも共に二列に並ぶことができるわけだが、左側コース(普通)、右側コー
 ス(特急)と分かれているようだ。
 このルール(?)、一体誰が決めたのか知らない。
 上りエスカレーターの左側は、上から下まで切れ目なく人の列が続いていたが、、右側は空いていて、
 左側の人たちを追い越して駆け上がっていく人たちがいる。
 この右空けルール(?)が、マナーというのか、慣習というのか、いつのまにか定着してしまった。
 ところが、いまだにこのことをよく知らない人もいる。
 このルール(?)を知らない老婦人が、動いているエスカレーターの右側にぽつんと立ち止まっていた。
 そこへ、その右側コースを急ぎ足で上ってきた青年がいた。
 青年は、前がつかえて足止めされるかたちになった。老婦人は、気がついていない。
  「どいて下さい」とは言えない。
 たとえ言われても、その老婦人は身をよける場所がない。
 青年は、仕方なく待つことにした。エスカレーターは動いている。
 その時、左列(普通コース)にいた中年の女性が、何の弾みか、足を踏み外して転倒しそうになった。
  「あっ、危ない!」
 右列で、前がつかえて足止めされていた青年が、叫んだ。
 と、ほとんど同時に、左列のすぐ後ろにいた男性が、その中年の女性をうまく抱きかかえるようにした
 ので、彼女は転倒もせずに、よろめいただけですんだ。
 女性は、両手に大きな荷物をかかえていた。
 一瞬の機転で、女性を転倒から救った男性は言った。
  「大丈夫ですか」
  「御免なさい、すいません。有難うございました」
 彼女は、少し青ざめた顔で頭をさげた。
  「ああよかった」
 その男性のすぐ後ろにいた私も、右側にいた青年も、思わずほっとした。
 エスカレーターは降りるところに着いて、私たちも、何事もなかったように、エスカレーターを降りた。
 ほんの、数秒間の出来事だった。
 
 この時、中年女性のすぐ後ろにいた男性が、転倒しかけた彼女を支えきれなかったら、その後ろにいた
 私は、どうなっただろう。
 その男性が、女性を支えられずに弾みででよろめいたら、私もまたあおりを受けて、自分の後ろの人に
 ぶつかり、多分列の下の方の人まで将棋倒しになったかもしれない。
 そう思うとぞっとした。
 それに、それは状況から見て十分起こりうることだった。
 それが、大事に至らなかったのは幸いであった・・・。
 
 何も、エスカレーター本体の故障に限ったことではない。
 事故は、自分の不注意でだって起きる。自ら気をつける必要があるという教訓だ。
 ひょっとした弾みで、いつでも起こりうることだ。
 もしかして、一歩前に足を上げようとして、その足が上がらず、躓く(つまづく)なんていうことも・・・。
 

 エスカレーターの、空いている方の右側コースを普段からすいすい歩行し慣れている人も、勿論左側に
 立ち止まっている人も、要注意だ。
 右側コースの人は、一分一秒を争って(?)、急ぎ足で上り降りするわけだ。
 これは、皆が結構やっている。大きな声では言えないが、自分にも経験がある。
 つい右側に立ち停まることになっても、後ろから急(せ)かされているみたいでやってしまう・・・。
 ただ、ラッシュ時などに、急ぎの利用者のために、片側を空ける配慮を良き慣習だという側面は、勿論
 問題がないわけではない。
 とくに、エスカレーターの左側(普通コース)に並び損ねた高齢者が、やむを得ず右側(特急コース)をゆ
 っくり歩いている姿は、後ろから追われているように見えてつらい。

 このことは、駅に限らず、デパート、スーパーでも言えることである。
 或るデパートでは、エスカレーターでの歩行は大変危険だから、二列に並んで立ち止まって乗るように
 呼びかけているそうだ。
 本当は、その方が望ましいにきまっている。
 急ぐ人の気持ちも分からないではないが、右側を追い越されて、怖い思いをした人も多いことだろう。
 利用客の重大な転倒事故の防止のために、商業ビルや鉄道各社には、早急な安全対策を望みたい。

 事故が起きてからでは遅い。
 エスカレーターには、見えない危険がひそんでいる。
 気をつけたい。
  ・・・「逸る(はやる)心のエスカレート」・・・
 
 

 
 
 

 
  


騙し、騙されー「羊頭狗肉」ー

2007-08-22 18:00:00 | 寸評

 残暑が、また猛暑となって戻ってきた。
 冷房のよくきいた、大手スーパーの食品売り場で、若い夫婦の会話だ。
  「国産の牛肉なら大丈夫さ」
  「あら、国産だって怪しいものよ。本当に国産かどうか」
  「じゃあ、どうすればいいんだ。何を信じればいいんだ?」
  「それもそうなのよねえ」
  「やっぱ、俺たちはさ、最後は表示に頼るしかねえなあ」
  「その表示にだって、賞味期限やなんかごまかしがあるんだから・・・」
  「おいおい、冗談じゃねえぜ。いい加減にしてくれよ」
 ・・・巷のあちらからもこちらからも、怒りの悲鳴が聞こえてくる。

 あの不二家の不祥事から、ミートホープの偽装事件、そして「白い恋人」よ、お前もか。
 何故、騙したのだ・・・?
 発覚しなかったら、最後まで騙し続けるつもりだったのか。そんな下心があったのか。
 ため息が出てくる。
 ひと昔もふた昔も前、幾度かお世話になったことがある。
 フランシス・レイの音楽と映画「白い恋人たち」・・・。
 それにあやかった、白いチョコレートに、想い出のある人は多いだろう。
 それが、ふたを開けてみたら、「黒い恋人」だったというわけだ。
 アイスキャンディーからは大腸菌、バウムクーヘンからブドウ球菌も・・・。
 
 伊勢に、三百年の伝統をもつ「赤福の餅」がある。今でも、人々に愛されている。
 「赤福」は、絶対にごまかすことのできない、「製造日限りの、その日だけの販売」だと言うではない
 か。立派なことである。
 ブランド商品とは、並々ならぬ努力で、それほどまでして伝統を作り上げてきているのだ・・・。

 賞味期限の問題だけではない。
 或るメディアによると、国内でスーパーなどで販売されている、数百種類の商品名を実際に挙げて、有
 機農薬の物質や、わけの分からぬ混入物が、多量に含まれていると警告している。
 その食品は、魚、肉、野菜、果物等あらゆる加工食品のほとんどに及ぶ。
 ウーロン茶も、マンゴーもだそうだ。枚挙にいとまがない。
 中国産(東南アジア産)もアメリカ産も危ない。それどころか、日本産が本物かどうか怪しくなってきた。
 製品の表示が改ざんされ、中身が偽造されていたのでは、何も分からないではないか。
 看板に偽りあり、羊頭狗肉とはこのことだ。
 一般の消費者には、それを、容易に見破ることなんて出来やしない。
 調理人や販売員さえも知らないで、平然とまかり通っている。それが、現実のようだ。
 勿論すべてのとは言わないが、生産者、製作者が、それこそまこと秘めやかに、偽造、捏造、改ざんを
 繰り返し、長い間にわたって、消費者を欺いてきたのだ。
 報道されているのは、ほんの氷山の一角だ。きっとまだあるに違いない。
 誰もが思っている。
 ・・・毎日毎日、何を買わされ、何を食べさせられているのだろう。
 スーパーも生協も、デパートまでも、残念ながら100%信用できるとは言えない。

 最近、中国製の子供服から、発がん性物質が見つかった。これも、ゆゆしき問題だ。
 日常の、生活自体の何もかもが脅かされている。
 以前、牛肉と称される肉に、中国の犬、もしくは犬に似た動物の肉が混ざっていると言う、衝撃的な噂
 が一部に流れたが、まさかとは思うけれど、どうだったのか。

 肉より魚と、美味しい刺身でも食べたいと思うと・・・。
 ところが、刺身(さしみ)という表示は、「そのまま食べられる」と言う意味で、他に何も入っていないと言
 う意味ではないそうだ。
 それは、例えば、日持ちや味を良くするために、マグロのぶつや切り落としに油脂や添加物が入ってい
 たり、イカそうめんに環元水あめが使われていたりする商品もあると言われる。
 このことも、必ず表示されていないといけない。
 安かろう、うまかろうですまない。値段が高いからいいとも限らない。いろいろチェックしないと、大変だ。
 インチキ食品には騙されるな、ということだ。。
 真贋を確かめる、究極の術(すべ)はないものだろうか。

 チョコレートを好きな人は多いだろう。
 美味しいので、つい手が出そうになるが、気をつけないといけない。
 賞味期限ばかりでなく、勿論メタボリックも・・・。

 もともと、北海道地区だけの限定販売の「白い恋人」は、店頭から姿を消した。
 別離の時は突然やってきた。
 ところが、おかしなもので、手に入らないとなると欲しくなるらしい。
 ネットオークションで、定価の4倍の高値で、いま人気急上昇中とは・・・!
 愛してくれた多くの人たちを裏切った、そのツケは大きい。
 「白い恋人」との「再会」のメドはたっていない。
 黒い影だけを残して去っていった、裏切り者の「恋人」に呼びかける・・・。
  「 北の国の裏切り者め、白い恋人よ、さらばだ・・・。
   禊(みそぎ)を済ませて、またいつの日か、戻って来い。(俺は) 待ってるぜ 」