たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

深川神社

2019-04-04 07:24:35 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


深川神社



愛知県瀬戸市深川町11番地









こちらは、奥の宮稲荷社



この鳥居の左側が古墳だったかと思います・・・詳しく見るの忘れました・・・





さて、朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、五社大明神社あたりから、水野川をさかのぼったと思います。



実際に、水野川に沿って川上に行ってきました。

途中、「道の駅 瀬戸しなの」あたりで分からなくなってしまいましたけど、地図を見るとその東側に深川神社付近へと流れる川があるので

おそらくは、そのような道筋を移動したのでしょう。




深川神社のHPより引用

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奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、

宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。

これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。

このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。 

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この国津神こそが、朝廷別王 (みかどわけのみこ)の関係する人々の後裔と思います。

ちなみに、天津神とは、天照大神などがいる高天原の神のこと。

大和朝廷に乗っ取られてしまったのですね・・・

ということは、彦坐王ファミリーは、大和朝廷ではないということになりますね。

彦坐王のことをいろいろ調べていくと、彼は、伊勢、美濃、尾張で囲む伊勢湾の地域を一つの国にしようとしていた

そんなふうに、感じます。

地理的に見ても、今までここで紹介してきた神社で、山頂にあるところはそれぞれ、

かなりのところが互いに目視できるのではないでしょうか。

もしかすると、狼煙とか、音とかで連絡を取っていたのではないかとも想像します。

それと、彦坐王は、この地において争いを起こしたという話が全く出てきません。

むしろ、婚姻によって関係を作っていくという方法で地域に溶け込んでいるようです。

金生山(岐阜県大垣市)、そして春日井付近で採れる「鉄」を利用することで、

さらに地域に根付いていったと考えられます。

伊勢で採れる朱(辰砂)も、その役目を持っていたのかもしれません。





伊勢湾を囲む彦坐王ファミリーの主な場所の地図です


地図を載せたいのですけど、google地図のマイマップはどうやっても載せられないので、

リンクしておきました。


さて、レイラインです

深川神社から



これを見たときは、「やった」と思いましたね。

白鳥塚古墳直撃!



こんな感じです


この事から、この深川神社は当時、重要な場所だったと推測されます。

もしかすると、朝廷別王は大縣神社を息子に譲り、自分はここに住んでいたのかもしれませんね。

でも、まだここから猿投神社に進んだようです。




コメント
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