「伊勢神宮内宮のレイライン」で、検索しても、いろいろ本を読んでもそのものズバリと書かれているものは
今の所、見当たりません。
どなたか、分ってるという方は教えてください。
半年ぐらい前に、「日の出日の入りマップ」でなんとなく調べていたらこんな感じで発見!
飯野高宮神山神社( 三重県松阪市山添町4)
ここの本殿から、冬至の日の出を調べると
本殿からは景色が見られないので、櫛田川まで移動。
この方向です
どこを通ると思われますか?
驚きますね。内宮です。
しかも、アップすると・・・
もったいぶってる
正殿。。。「八咫鏡」(ヤタノカガミ)のあるところですよね。。。
現在の正殿の位置ですね。
この発見、おいらが最初?
ちなみに、地球の歳差運動は、星には関係するけど
太陽による冬至や夏至の位置にはあまり関係がないそうです。
おいら、そちらの知識はほとんどないのでそうしておきます。
直接見られないのに、この精度には、驚きです。
どういう技術なのでしょう?
おいらは、以前、星を使っているのかもと書きましたけど、どうなのでしょうね?
航海する時の技術でしょうか?
いつまでなのか分りませんけど、この技術は知らないうちに消え去っています。
ほかにも、こういうことはたくさんあるのかもしれませんね。
我々が知らないだけで・・・
今の所、見当たりません。
どなたか、分ってるという方は教えてください。
半年ぐらい前に、「日の出日の入りマップ」でなんとなく調べていたらこんな感じで発見!
飯野高宮神山神社( 三重県松阪市山添町4)
ここの本殿から、冬至の日の出を調べると
本殿からは景色が見られないので、櫛田川まで移動。
この方向です
どこを通ると思われますか?
驚きますね。内宮です。
しかも、アップすると・・・
もったいぶってる
正殿。。。「八咫鏡」(ヤタノカガミ)のあるところですよね。。。
現在の正殿の位置ですね。
この発見、おいらが最初?
ちなみに、地球の歳差運動は、星には関係するけど
太陽による冬至や夏至の位置にはあまり関係がないそうです。
おいら、そちらの知識はほとんどないのでそうしておきます。
直接見られないのに、この精度には、驚きです。
どういう技術なのでしょう?
おいらは、以前、星を使っているのかもと書きましたけど、どうなのでしょうね?
航海する時の技術でしょうか?
いつまでなのか分りませんけど、この技術は知らないうちに消え去っています。
ほかにも、こういうことはたくさんあるのかもしれませんね。
我々が知らないだけで・・・
無かった」 と書きましたけど、
正しくは、「辰砂から水銀を製造する技術」でした。
訂正します。
無かったと「度会町ふるさと歴史館」の館長さんに
お聞きしました。
その他にも、いろいろと教えていただきました。
ここには、辰砂についての実物が展示されており
他にもいろいろおもしろいものがあります。
ただ、訪問者が少ないので閉館の危機にあるとか・・・
みなさん、遊びに行ってください!
hpは、http://www.town.watarai.lg.jp/contents_detail.php?frmId=1007
〒516-1238 三重県度会郡度会町中之郷
旧小川郷小学校内
開館日
毎週木曜日、毎月第2、4日曜日の午前9時から午後4時(入館は午後3時30分まで)
*第5木曜日と年末年始を除く
入館料 無料
防腐剤とか金メッキの用途でしょうか、
確かに櫛田川沿いには「丹生」という地がありますね、
これからも勉強させていただきます。
ありがとうございました。
輸送に櫛田川を使い、その後、海から美濃に運ぶための湊が「斎宮」の場所。
そこを治めていたのが、彦坐王の息子と推測します。
おそらくは、彦坐王の死後、垂仁天皇がそれを朝廷のものにしようと武力を用いて手に入れたけど、
その後の運用をスムーズにするため、美濃にいた彦坐王の子である日葉酢媛命を、垂仁天皇の皇后にしたのと推測します。
その後、その基盤を強固にするため垂仁天皇と
日葉酢媛命の間にできた、倭姫命を伊勢に送った。
もしくは、朝廷側が彦坐王の築いた伊勢の地に深入りできないように、日葉酢媛命が、送り込んだか、
もしくは、その両方の意味があるのではと考えます。
倭姫命がいろいろな場所を旅をされて天照大神を伊勢に導いたという話は、後の創作で、おそらくは
朝廷側が、伊勢を侵略したことを隠すためのカモフラージュと思います。
これらのことについては、まだこの後にいろいろ書いていくつもりですが、まだ肝心なところを訪問していないので足踏み状態です。
現在の場所に内宮が出来たのは、倭姫命の時代から100年ぐらい後のようです。
なぜあの場所になったかと言うと、辰砂の加工を
「久具都比賣神社」付近で行うようになったからのようです。
ですから、海への輸送には宮川を下りその先にある湊は、外宮の場所になります。当時は外宮のまわりは海のようです。
そして、その警備のための関所及び見張りの場所が
瀧原宮(宮川の上流で川の警備)、内宮、伊雜宮の付近の山の頂上からの見張りではないでしょうか。
その後、その付近に現在の神社を建てたと思われます。
余談ですけど、この3社の祭神は、天照大神です。
伊勢の神社で、天照大神を祀っている所が、他になかなか見つからない・・・最近気が付いたのでこれ以上は何も言えませんけど、ひょっとすると、
この3社が出来たころにようやく、大和朝廷が伊勢に根を下ろし始めたと考えてもいいかもしれないと考えています。
エジプトのクフ王のピラミッドの寸法に円周率や「黄金比」が使われているという説があります。正五角形や五芒星の線分比に見られる数値です。この黄金比(1.618)という数値は、円周率と不思議な関係があります。数式で表現すると、
(1.618×1.618)÷5×6≒πです。
伊勢神宮の位置関係を調べてみると、この黄金比がいたる所に見出せるのです。特に、内宮正殿の西殿地と、「天の岩戸」、「天の岩屋」の(経度間の距離の比)が黄金比の関係にあります。
そこで、(天照大神=円)ですが、内宮正殿西殿地と別宮「伊雑宮」を直線で結び、内宮を中心として「北」を基準に反時計回りの角度を測ると、222.5度辺りです。時計回りは137.5度です。
これは次のように解釈できます。
(222.5÷137.5≒1.618)そして、(222.5×1.618≒360)さらに(1.618×1.618×137.5≒360)
伊雑宮の位置は黄金比を使って内宮を中心とした「円」の存在を暗示しているかのようなのです。「北」を基準にするのは、伊雑宮に 「太一信仰」があるからです。
どのように測量したのか全くわかりません。
調べてみましたので、ある程度は理解したかも・・・
なぜ、このようなことをしたのでしょうか?
設計した人物は、「円積問題」の内容をよく知っていたのでしょうね。
想像してみると、この数式のように「永遠に続くこと」の願いを込めたのだろうか?とも思います。
最初は、風水の影響かなとも思いましたけど、
いろいろ推測した結果
話を極端に飛躍させると「円積問題」と「日ユ同祖論」を絡めて、想像すると古エジプトの流れかな?
などと、妄想します・・・
それにしても、伊勢の地でどうやって測量をしたのか?
レイラインにしてもどういう方法で場所を特定したのか?
謎であります。
伊勢神宮と各宮の配置が最終的に何を意味しているのかをお話しさせていただきます。
古代ギリシャの幾何学三大難問の一つに(円積問題)というのがあります。コンパスで円を描き、その円と同じ面積の正方形が作図できるか、という問題です。これは、半径が1の円に対して√πの長さを求めるのと同じです。
伊勢の地にはこの円と正方形が重なり合った図形が描かれているのです。内宮正殿を中心とした半径9215mの円と、斎宮跡の交点と朝熊山付近の交点の経度間の距離が示す一辺が16335mの正方形です。もちろん空から見てもこの図形は見えませんが、各宮の配置がそれを間接的に暗示しているのです。月夜見宮を通過するラインの角度は、29.43度で、tan29.43°≒(1/√π)なのです。
天照大神が太陽神なのは、この円を暗示するためだと考えています。
これには、秦氏の影響があるのでしょうか?
とすれば、およそ400年以降の出来事と思われます。
秦氏については、詳しく調べたことが無いのでこれ以上は私の手には負えませんけど、「天日別命,倭姫命 伊勢に向かうその9,斎宮の場所」で、斎王が、雄略天皇の皇女になり、その後中断しているので、もしかすると
この時期に内宮が出来たのかなとも思います。
(斎宮の場所が移動したと考えます)
「月読宮」「月夜見宮」ですけど、これもなんで
2か所も同じような名前の所があるんだろう?
そのように不思議に思っていました。
このことに関しては、酔石亭主さんの「尾張氏の謎を解く その79」
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1943.html
を参考にさせてもらって考えています。
「月読宮」「月夜見宮」このどちらかが、最初の大和朝廷、おそらくは彦坐王と時代を同じくした
月読命で、他方が内宮ができた後の物かと推測します。
どちらが古いのかどうかは、まだ判断できません。
でも、非常に興味深い事柄と思います。
伊勢神宮周辺には、ツキヨミを祀る神社が2社「月読宮」「月夜見宮」と岩戸隠れ神話にまつわる洞窟「天の岩戸」「天の岩屋」が2処存在しているということなのです。
表記の違いや年代が気になるところですが、これらの位置が斎宮と法則をもって結び付くのです。
レイラインは夏至や冬至の方位を重視しますが、伊勢神宮は幾何学が要点になっているようです。例えば、外宮正殿の位置は内宮正殿から見て北西に60度の方角に位置しています。また、「月夜見宮」の四角い宮域の東側の斜辺を南西方角に延長すると外宮正殿の西殿地に到達します。この角度も60度です、外宮正殿西殿地の中心に60度ラインがクロスしているのです。
60度は「正三角形」の角度なのです。そして、これらの関係から「太陽の道」の正確な緯度が導けるのです。
この線を見てみました。
まあ、おいらの妄想の域を出ませんけど、
斎宮の後に外宮の場所が確定していると思いますので(どちらも、湊だったと思います)その延長に月読宮
を、作ったと考えます。
時間の都合でまだ、詳しくは調べておりませんけど
これで、何かわかるといいなぁ。
まず、内宮正殿の緯度線を東にたどり、志摩磯部の「天の岩戸」の経度線との交点を求めます。つまり内宮正殿の真東で、天の岩戸の真北にあたる地点です。この地点から内宮別宮「月読宮」に向かってラインを引き、そのまま延長すると「月読宮」→「外宮正殿」→「離宮院跡」→「斎宮跡」と一直線に繋がることが判ると思います。次に、二見浦の夫婦岩の対岸にある「天の岩屋」の経度線と内宮正殿の緯度線との交点を求めます。(朝熊山付近)この地点から外宮別宮「月夜見宮」に向かってラインを引き、それを延長していくと先のラインと斎宮跡の範囲内で交点を結ぶことが判ると思います。月夜見宮の宮域の傾きはこのラインを意識していると思います。じつは、これらの位置関係には幾何学的な法則があります。お時間がありましたらチェックしてみてください。