伊勢津彦=沙本毘古王として話を進めます。
伊勢津彦は誰?で、おもな年代を推測していますので、それを基にいろいろ考えていこうと思います。
まず、伊勢津彦が伊勢に来たのが、18歳、268年ごろ。
そして、伊勢津彦が、天日別命に追い出されたのが、31歳、281年頃と推測します。
倭姫の母親である、日葉酢媛(ヒバスヒメ)は、「日本書紀」によると,
垂仁天皇15年皇后となるとされていますけど、
これは、沙本毘売命が、垂仁天皇5年10月に亡くなっているということを前提にした結果であり
(沙本毘売命という人物は年代から推定しても架空の人物の可能性が高いです)
実際は、日葉酢媛が、後の垂仁天皇に嫁いだ年代は、
倭姫の年齢から推測すると281年から285年の間と思います。
さてここで、なぜ沙本毘売命という架空の人物がいて、さらに沙本毘売命は、火の中で死ぬときに
丹波道主命の娘五人を自分の代わりに召すことを遺言して崩じたのか?
もっとも、この狭穂彦(さほびこ)の反乱という物語は、事実ではありませんが、
なぜ、このようなことを書いたのか?
おそらくは、伊勢津彦を追放しても丹生鉱山からとれる辰砂が手に入らなかったのだと思います。
それを何とかしようとして、丹波道主命の娘を妻にしたのではないかと思うのです。
この時、彦坐王は、すでに亡くなっていると思います。
崇神天応にしてみれば、目の上のたんこぶが無くなったようなものでしょう。
このようなことから推測すると、狭穂彦の反乱という物語は、
崇神天皇の腹違いの弟である彦坐王の息子である「伊勢津彦」を追放したことを隠すためと、
さらに彦坐王の娘の「日葉酢媛」を妻としたことの言い訳なのでしょう。
この物語、誰が読んでも不自然なところがありますね。
地図を見てみましょうか
伊勢津彦は、当時、「飯野高宮神山神社」に本拠地を置いていたと考えられます
倭姫命が「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀りしたという話は、
レイラインから考えると場所としては正しいと思います。
飯野高宮神山神社の前にある、櫛田川をさかのぼると、丹生水銀鉱にたどり着きます。
伊勢津彦は、ここでとれた、辰砂を櫛田川を使って運んでいたのではないでしょうか。
そして、斎宮のある場所から船で彦坐王ファミリーのところに運んだと推測します。
当時の海岸線は、現在より、およそ4~5mほど深くした地形と似ていると思います。
海抜は、当時も現在も変わりがありませんけど、川が運ぶ土砂が堆積して海岸線がどんどん
沖の方に動いています。
ですから、場所によってはもっと海岸線が内陸によっているところがあるかもしれません。
岐阜の方々津神社付近は、10mぐらいじゃないと説明がつかないように思います。
とりあえず、海面が5m上がった図を見てみましょう。
どうでしょう?
斎宮は港だったと思われます。
さて、話を本題に戻すと、丹生で採れた辰砂を櫛田川を使い船で運び、斎宮で大きな船に乗せ換え
運ぶ。この流れが、伊勢津彦がいなくなった後、機能しなかったんではないかと思うのです。
いきなり伊勢に、天日別命 (あめのひわけのみこと)が、やってきて親分である、伊勢津彦を武力で追い出して
そのうえ、「辰砂を俺によこせ!」と言ってもまともには機能しないでしょう。
すると、崇神天皇はどうしたか?
もう一度地図を見てください。
佐奈神社と言う所があります。
彦坐王の子孫で書きましたけど、大俣王の子である曙立王(彦坐王の孫になります)を
伊勢に送ります。
曙立王について、ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『古事記』によると、唖の本牟智和気王(誉津別命)が呪いを解くべく出雲国に赴く際に、そのお供をするべき人物として誰が良いのかという占いをすると、曙立王が当選した。そこで、曙立王が「うけい」をすると、地に落ちて一度死んだ鷺巣池のサギが蘇り、また一度枯れた甘橿丘の樫の樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとはしきとみとよあさくらの あけたつのおおきみ、「大和の磯城・鳥見・朝倉の曙立王」という意味)という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本牟智和気王(ほむちわけ)という人物は、沙本毘売命の子ですので架空の人物です。
このような、箔をつけるような物語があるということは、曙立王は、奈良付近に居て
崇神天皇の命令を聞かなければならないポジションに居たのでしょう。
年齢を考えてみましょう。
もう一度、伊勢津彦は誰?をみて、年齢を推定してみましょうか。
曙立王のおばあさんが彦坐王に嫁いだのが248年ごろ。
曙立王の父親である、大俣王は長男なので、249年頃の生まれでしょう。
そして、曙立王も長男なので、そうですね、当時ならば大俣王が16歳ごろに生まれたとすると
265年生まれということになって、伊勢津彦が追放された年が、281年ですから
曙立王が、派遣された年を2年後とすると、283年となります。
その時、曙立王は、18歳ぐらい。ちょいと若いかな?まあそこそこいい数字ではないでしょうか
崇神天皇から、「まあ、とにかくうまいことやって、辰砂をぶんどってこい!」
と言われたのではないでしょうか?
PS ↑
これたぶん間違っています。伊勢に行ったのは倭姫が伊勢に行った時代と推測します。
丹生水銀鉱と、飯野高宮神山神社のちょうど真ん中あたりのところに佐那神社があります。
すでに、陸路が出来ていたのかもしれません。
佐那神社(さなじんじゃ)は、すでに訪問して、このブログにUPしたと思っていたのですけど
見当たらないなぁ・・・
まあ、結果は、おそらく思ったようには辰砂が手に入らなかったのだろうと思います。
伊勢津彦と一緒に岐阜から伊勢に向かったのは、丹波から来た、伊福部氏の兵と技術者たちと
推測します。
伊福部の何割が伊勢に行ったかはわかりません。
その伊福部氏と一緒に丹波から岐阜に来たのが日葉酢媛の母親である川上摩須郎女であり、
その娘を垂仁天皇の后にして、何とかしようと思ったのではないでしょうか。
それでも、やはりうまくいかなかったようですね。
やがて、倭姫が生まれ、大人になり、そして伊勢に派遣されるわけです。
倭姫が誕生するのが、286年頃と推測しているので、
それを考えても、曙立王が、派遣された年を283年ごろとすると、
なかなかいい数字ではないでしょうか。
伊勢津彦は誰?で、おもな年代を推測していますので、それを基にいろいろ考えていこうと思います。
まず、伊勢津彦が伊勢に来たのが、18歳、268年ごろ。
そして、伊勢津彦が、天日別命に追い出されたのが、31歳、281年頃と推測します。
倭姫の母親である、日葉酢媛(ヒバスヒメ)は、「日本書紀」によると,
垂仁天皇15年皇后となるとされていますけど、
これは、沙本毘売命が、垂仁天皇5年10月に亡くなっているということを前提にした結果であり
(沙本毘売命という人物は年代から推定しても架空の人物の可能性が高いです)
実際は、日葉酢媛が、後の垂仁天皇に嫁いだ年代は、
倭姫の年齢から推測すると281年から285年の間と思います。
さてここで、なぜ沙本毘売命という架空の人物がいて、さらに沙本毘売命は、火の中で死ぬときに
丹波道主命の娘五人を自分の代わりに召すことを遺言して崩じたのか?
もっとも、この狭穂彦(さほびこ)の反乱という物語は、事実ではありませんが、
なぜ、このようなことを書いたのか?
おそらくは、伊勢津彦を追放しても丹生鉱山からとれる辰砂が手に入らなかったのだと思います。
それを何とかしようとして、丹波道主命の娘を妻にしたのではないかと思うのです。
この時、彦坐王は、すでに亡くなっていると思います。
崇神天応にしてみれば、目の上のたんこぶが無くなったようなものでしょう。
このようなことから推測すると、狭穂彦の反乱という物語は、
崇神天皇の腹違いの弟である彦坐王の息子である「伊勢津彦」を追放したことを隠すためと、
さらに彦坐王の娘の「日葉酢媛」を妻としたことの言い訳なのでしょう。
この物語、誰が読んでも不自然なところがありますね。
地図を見てみましょうか
伊勢津彦は、当時、「飯野高宮神山神社」に本拠地を置いていたと考えられます
倭姫命が「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀りしたという話は、
レイラインから考えると場所としては正しいと思います。
飯野高宮神山神社の前にある、櫛田川をさかのぼると、丹生水銀鉱にたどり着きます。
伊勢津彦は、ここでとれた、辰砂を櫛田川を使って運んでいたのではないでしょうか。
そして、斎宮のある場所から船で彦坐王ファミリーのところに運んだと推測します。
当時の海岸線は、現在より、およそ4~5mほど深くした地形と似ていると思います。
海抜は、当時も現在も変わりがありませんけど、川が運ぶ土砂が堆積して海岸線がどんどん
沖の方に動いています。
ですから、場所によってはもっと海岸線が内陸によっているところがあるかもしれません。
岐阜の方々津神社付近は、10mぐらいじゃないと説明がつかないように思います。
とりあえず、海面が5m上がった図を見てみましょう。
どうでしょう?
斎宮は港だったと思われます。
さて、話を本題に戻すと、丹生で採れた辰砂を櫛田川を使い船で運び、斎宮で大きな船に乗せ換え
運ぶ。この流れが、伊勢津彦がいなくなった後、機能しなかったんではないかと思うのです。
いきなり伊勢に、天日別命 (あめのひわけのみこと)が、やってきて親分である、伊勢津彦を武力で追い出して
そのうえ、「辰砂を俺によこせ!」と言ってもまともには機能しないでしょう。
すると、崇神天皇はどうしたか?
もう一度地図を見てください。
佐奈神社と言う所があります。
彦坐王の子孫で書きましたけど、大俣王の子である曙立王(彦坐王の孫になります)を
伊勢に送ります。
曙立王について、ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『古事記』によると、唖の本牟智和気王(誉津別命)が呪いを解くべく出雲国に赴く際に、そのお供をするべき人物として誰が良いのかという占いをすると、曙立王が当選した。そこで、曙立王が「うけい」をすると、地に落ちて一度死んだ鷺巣池のサギが蘇り、また一度枯れた甘橿丘の樫の樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとはしきとみとよあさくらの あけたつのおおきみ、「大和の磯城・鳥見・朝倉の曙立王」という意味)という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本牟智和気王(ほむちわけ)という人物は、沙本毘売命の子ですので架空の人物です。
このような、箔をつけるような物語があるということは、曙立王は、奈良付近に居て
崇神天皇の命令を聞かなければならないポジションに居たのでしょう。
年齢を考えてみましょう。
もう一度、伊勢津彦は誰?をみて、年齢を推定してみましょうか。
曙立王のおばあさんが彦坐王に嫁いだのが248年ごろ。
曙立王の父親である、大俣王は長男なので、249年頃の生まれでしょう。
そして、曙立王も長男なので、そうですね、当時ならば大俣王が16歳ごろに生まれたとすると
265年生まれということになって、伊勢津彦が追放された年が、281年ですから
曙立王が、派遣された年を2年後とすると、283年となります。
その時、曙立王は、18歳ぐらい。ちょいと若いかな?まあそこそこいい数字ではないでしょうか
崇神天皇から、「まあ、とにかくうまいことやって、辰砂をぶんどってこい!」
と言われたのではないでしょうか?
PS ↑
これたぶん間違っています。伊勢に行ったのは倭姫が伊勢に行った時代と推測します。
丹生水銀鉱と、飯野高宮神山神社のちょうど真ん中あたりのところに佐那神社があります。
すでに、陸路が出来ていたのかもしれません。
佐那神社(さなじんじゃ)は、すでに訪問して、このブログにUPしたと思っていたのですけど
見当たらないなぁ・・・
まあ、結果は、おそらく思ったようには辰砂が手に入らなかったのだろうと思います。
伊勢津彦と一緒に岐阜から伊勢に向かったのは、丹波から来た、伊福部氏の兵と技術者たちと
推測します。
伊福部の何割が伊勢に行ったかはわかりません。
その伊福部氏と一緒に丹波から岐阜に来たのが日葉酢媛の母親である川上摩須郎女であり、
その娘を垂仁天皇の后にして、何とかしようと思ったのではないでしょうか。
それでも、やはりうまくいかなかったようですね。
やがて、倭姫が生まれ、大人になり、そして伊勢に派遣されるわけです。
倭姫が誕生するのが、286年頃と推測しているので、
それを考えても、曙立王が、派遣された年を283年ごろとすると、
なかなかいい数字ではないでしょうか。
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