湘南発、六畳一間の自転車生活

自転車とともにある小さな日常

のんびり走り、ぼんやり考えたりする自転車

2008年01月04日 | 日常生活
 ゴミ出しのために朝外に出たら、本日もしっかりくっきりと雪をかぶった富士山の頭が見えていた。僕の住んでいるアパートはちょっとした坂の上に建っているので、かろうじて富士山の姿が望めるのだ。部屋の窓からだと窓枠に立ち上がってようやくぎりぎり富士山の頭がちょろっと見える程度なのだけれども、きっと2階からは富士山も、もしかしたら海さえもしっかり見えるのだと思う。それから夏の花火なんかは確実に2階からであればひじょうに良く見えると思う。羨ましい。僕の場合、1階に住んでいるということで自転車や日常生活に必要なあれこれを階段下のデッドスペースに(勝手に)置かせてもらうという恩恵に預かっているからまぁいいのだが。

 ゴミと言えば去年の秋頃から藤沢市ではゴミ収集が有料になっている。それ以来僕なんかは、たまにテレビで見かけるスーパーの詰め放題セールで下品と思えるくらいに袋いっぱいミカンかなにかを詰め込むおばさんのように、正拳や踵でゴミを圧縮してぎりぎりいっぱいに詰め込んで出したりしているのだけれども、先日アパート近くのかなり立派なお屋敷の前を通りかかったら大容量にもかかわらずスカスカの有料ゴミ袋が置かれていて少々愕然としてしまった。袋のヒモを結ぶのが相当きつくなるまでゴミを詰め込むのもどうかと思うけれども、普通に詰めてもまだ倍以上入りそうな状態で捨てるのもどうかと・・・。格差社会の一端を目の当たりにした思いだった。



 ・・・となんだか話がそれたけれども、2008年がはじまって4日連続の富士山。格差社会はなんだけど、「日本人に生まれて良かった」と思える富士山はやはり素晴らしいのだ。富士山は誰にでも平等だ。多分・・・



 ところで昨日は海岸に出てから結構いろいろなことを考えながらペダルをまわしていた。考えなくてはならないこと、考えたくないけれどもどうしても頭から離れないことなどなど、いろいろなことが頭のなかを行ったり来たりしていた。そんなに大げさなことではないけれども、このブログに関することもそのひとつ。



 七里ガ浜から腰越までの砂浜ときらきらと夕日に輝きながら静かに波打つ海面が昨日はとてもきれいだった。複雑にあれこれと考えるよりも、もっとシンプルに、大切なことを誠実に考えることがきっと大事なことなんだろうなと思ったりした。もっとも日々の日常のなかでそういった気持ちを忘れることなく、きちんと持ち続けるのってなかなか大変だったりするわけだけど。

 そんなことをぼんやりと考えながら海岸線を走り、境川を河口から遡っていたらふとしたことで部屋から江ノ島までの(多分)最短ルートを発見。このあたりにやってきて早9年近くがたつというのに今まで全然気づかなかった。おぉ、こんな道があったのかと嬉しい気持ちになると同時に、今までどうして気づかなかったのだと情けない気持ちになったりも。やはりなかなか単純にはいかないのだ。

 帰宅後シャワーを浴びているときに、僕にあらためて自転車・・・というよりはじめてロードを楽しんでみようという気持ちにさせてくれたのは栗村修さんだったんだよな、ということをなぜか思い出した。こんなマニアックなもの誰が見るんだろう?とそれまで思っていたロードレース中継を2003年になんとなく見たら、一気にその面白さに惹き込まれてしまった。それはもちろんロードレースという競技そのものの魅力のせいなのだろうけれども、ロードレースという競技のことをほとんど理解していなかった僕のような人間にとっては栗村修さんのわかりやすく、本当にこの人はロードレースが好きなんだなと思える純粋で熱い解説はものすごく魅力的で、そして楽しかった。彼がときどきあげる解説者というよりもむしろ無邪気な自転車好きな少年のような歓声(解説じゃないですよね)にこちらまで熱くなったりしたことをなんとなく思い出したりした。それまでも持ってはいたけれども積極的には乗ることのなかったロードにまたがって10年以上振りにヤビツに出かけたのはこの2003年のことだった(帰宅後あまりの疲労に誇張抜きに2時間以上部屋で呆然としてしまったのが懐かしい思い出である)。

 のんびりと自転車に乗っているといろいろなことを考える。そういう時間が僕は結構好きなのだと思う。そこで考えるのがどんなことであろうと。

 ロードといえば、そういえばLeMondにはもうひと月以上乗ってないな。この時期高速で風を切ったりすると寒いからついのんびりと走れるMTBやランドナーばかりになっちゃうんだよなぁ。というのはつまらない虚しい冗談です。でもホントになかなか乗る気になりません。LeMond。なぜだ?