湘南発、六畳一間の自転車生活

自転車とともにある小さな日常

5000mのWピーク

2011年03月31日 | 自転車生活


 標高4200mにあるティンリーという村を早朝出発して、ちょうど日が暮れる頃に標高5100mのラルン・ラという峠に到着した。夕闇に包まれはじめたゆるやかな峠には、ひどく強い風が吹いていた。



 結局その日は峠のすぐ脇にテントを張った。本当は最後の峠まで行きたかったけれど、もう時間的にも体力的にもそんな余裕は残っていなかった。風の音を聞きながら、残り少なくなった水で、中国製のものより断然美味しい、タイから輸入されたインスタント・ラーメンをつくって食べた。

 翌朝、峠道を少し下り、最後の峠を目指した。下りきったすぐの場所に道班があったので、受付のようなところいた漢族の女性に、「有没有開水?」と煮沸した水をもらおうとしたのだけれども、返ってきた答えは「没有」。乾燥した高地でのキャンプだったこともあり、残った水は夜のあいだに飲み干してしまっていた。「困ったな、ないわけないだろう、ここにいる人たちはどうやって生活しているんだよ」と思いつつ、でも相手にとっても水は貴重なはずと諦めて最後の峠に向かった。



 最後の峠は、前日のラルン・ラと違ってとても穏やかだった。そして国境の町への電柱があったこともあって、そんなに荒漠とした雰囲気もなかった。ここからネパールとの国境までは3000m近いダウンヒル。先を急ぐ必要はない。ネパール・ヒマラヤ方面の景色を眺めながら、最後のチベットの空気をしばらく楽しんだ。

 峠でのんびりし過ぎたのと、モンスーンの影響なのか谷のなかを吹き上げるような向かい風が途中からかなりきつくなり、下りにもかかわらず思ったより距離が稼げず、その日のうちに国境にたどり着くことはできなかった。標高が低くなるとともに民家がぽつぽつとあらわれ、近くを通るたびに牧羊犬なのか番犬なのかわからないけれども、血走った目の犬に吠えたてられ、追い立てられるのが恐怖だった。途中からは民家が近づくと、少し大きめの石を拾い、本気で投げつける覚悟で犬と対峙した。実際に投げつけることはなかったけれど、それくらいこちらも真剣にならないとまずいと思った。

 この日は結局、国境のひとつ手前のニェラムという街で泊まった。普通の宿ではなく、買い物をした商店の店主が自分の家に泊めてくれた。当然客用の寝室などはなく、普段子供たちが寝ているベッドを借りることになったのだけれども、よくわからない外国人に自分が寝ているベッドをとられ、一番小さな子供は涙を浮かべていた。少し申しわけない気がしたけれども、他のみんなはにっこりと笑っていてくれたので、ありがたくベッドを使わせてもらい、前日までとは明らかに種類の違う、久し振りの濃い酸素のなかで深い眠りについた。

向かうべき方向は決まっている

2011年03月30日 | 日常生活
 友人のブログを読み、少なからずショックを受けた。

 行きつけの飲み屋で偶然出会った若いひとりの自衛隊員。被災地での任務より戻ってきた彼もまた傷ついたひとりだった。そんな彼が語る、信じたくはないあってはならないような話。本当なのだろうか?ずしりと気持ちが重くなった。

 友人は、そういった内容のことを興味本位で書いたり話したりする人間ではない。事の真偽はともかく、若い自衛隊員が強い使命感を抱きつつ、様々な光景を目の当たりにして深く傷ついていることに、友人も言いようのない気持ちになったのだろう。

 いろいろな情報が行きかう。何が正しくて、何が正しくないのかわからないことも多い。でもとにかく、少なくとも僕は安全圏内にいる。地震からも津波からも原発からも(おそらく)深刻な被害や影響は受けていない。そんな僕が行きかう情報に踊らされたり、自ら踊ったりしてはいけないのだと思う。もし信じたくない出来事が一部で実際にあるかもしれないとしても、全体としては正しい方向に向かっているだろうし、向かわなくてはならない。わからないことにたいする判断はひとまず保留にして、復興の手助けになるような、自分にできることをしていくしかないのだろうと思う。

 もっともそうは言っても、日々戸惑うこともいっぱいあるんですけどね。でも戸惑いつつも、やはり向かうべき方向へしっかり足を運ぶ以外の方法はないですね。できることは限られていても。頑張ろう。おぉ!

たたたたた・・・

2011年03月29日 | 日常生活
 ・・・大変、申しわけございません。3月16日のエントリーで、東野圭吾の『天空の蜂』を読んで輪番停電というものの存在をはじめて知ったと書いたのですが、これ、ワタクシの大勘違いでございました。

 この機会に再読しようかなと図書館に予約を入れ、他のいくつかの本とともに日曜日に『天空の蜂』を借りました。そのとき、見覚えのない装丁を見て、「ん?」と一瞬不審に思ったのですが、ちょうど読んでいた本があったのであまり深く考えることはありませんでした。しかし先ほどちらっと本を開いてページをぺらぺらとめくってみて愕然。まったく読んだ記憶がありません。「えぇぇぇぇぇ」。体が熱くなり、鼓動は速まり、なったことありませんが過呼吸気味に呼吸が荒くなりはじめました。「こ、これはまずい」と。

 輪番停電が行なわれるということが決まったときにまず思い出したのが、半年くらい前に読んだ電力テロを題材にした小説でした。日本人とベトナム人が結託して、確か電力設備を狙うといった内容だったはずですが、詳細はあまり覚えていません。著者は確か東野圭吾だったはず。それでいくつかのキーワードで検索をかけて、何の疑いもなくそれらしい『天空の蜂』を読んだのだと思い込んでしまいました。原発に関する内容をまったく覚えていないので少し変だとも思ったのですが、読んだ本の内容をすっかり忘れてしまうなんて僕にとってはそんなに珍しいことではありません。それでいくつかの矛盾があったにもかかわらず、『天空の蜂』に違いないと思ってしまったのですが、いやはやページを開いてみたらまったく一行も読んだ記憶がないので心底焦りました。

 そんなわけで、間違いに気づいた瞬間にパソコンを開き、勘違いした元の本を探しはじめたのですが、これがなかなか見つかりません。作者は東野圭吾に間違いないはずと思っていたのですが、どんなに調べてもそれっぽい作品がみつかりません。それで“東野圭吾”というワードを除いてそれらしいことばで検索をかけたのですが、やはりそれらしい作品はヒットしません。図書館のHPで借りた本の履歴を確認できれば話は早いのでしょうが、残念ながらネットで蔵書の検索や予約はできてもそこまでのサービスはありません。読書記録はやはり必要かもしれないと自分を罵りながら、仕方なく思い当たるキーワードでの検索に再び戻り、ようやく「もしかしたらこれかもしれない」と発見したのは・・・

 福田和代の『TOKYO BLACKOUT』という小説。

 はい、今度こそこれで間違いありません。作者の名前も本の題名もすっかり忘れてました。って、何で僕はこの本を図書館の棚から選んだんだっけ?これまた読んだことじたいをすっかり忘れていたけれども、この人の『オーディンの鴉』という本が結構面白くてそれで別の本も読んでみようと思ったんだろうな。あぁ、なんにせよ、適当な記憶で適当なことを書いてしまい大変申しわけありませんでした。でも、この『TOKYO BLACKOUT』という本もなかなか面白かったですよ。

 はぁ、疲れた・・・

 なんだかひとりでドタバタし、疲弊した感がありますが、未読だった『天空の蜂』についてはこれから読んでみたいと思います。今起こっていることを理解したり、想像する一助にもなるかもしれませんし。というわけで、ワニガメさん、今読んでいる本を読み終えたら『天空の蜂』読みますね(汗)

消去法的な映画鑑賞

2011年03月28日 | 日常生活
 「ねぇ、おばちゃん。タンポ×くださいな」
 「あら、お嬢ちゃん。まだ小さいのにどうして?」
 「うん、それつけると自転車乗ったり、泳いだりできるようになるって聞いたから」

 ipodに落としておいた立川談志の落語を聞いていた。一瞬の???のあと、計画停電中の暗闇のなかで思わずを小さな笑い声を出してしまった。

 先週末に3日連続自転車で遊んだら、なんだか自転車に乗るエネルギーというか、元気がシュンとしぼんでしまった。そんなわけで昨日の日曜日は休みなのにだらだら。いや、久し振りにちょっと硬めではあるけれどもなかなかに面白い本に出会って、それを読んでいたのでだらだらとは言えないかも知れないけれども、天気いいなぁ、でも自転車乗る気しないなぁというときは、心のなかに幾ばくかの後ろめたさがあったりするので、それゆえなんとなくだらだらしているように感じられたりしてしまうのだ。なんという馬鹿馬鹿しい悪循環な思考だろう。

 そんな悪循環的思考を断ち切るために、午後は少し自転車に乗った。と言っても、スポーツサイクル的な楽しみ方ではなく、ただ単に茅ヶ崎に映画を観に行くのにランドナーで出かけただけですが。

 今の時期、観る映画を決めるのはかなり厳しいものがあった。上映されているのは多くがアニメ。他のいくつかもあまり魅力的とは思えない。でも手元には3月末が有効期限のマイカルの映画券がある。

 その気になればドラえもんでもディズニーでも楽しめると思ったののだけれども、「yuzitoさんくらいの年齢でその手の映画をひとりで観るってのは相当やばいと思いますよ」と職場の人に言われ、僕もそんな気がしたのでとりあえず却下。だったらナルニア国でもと思ったら、「今までの観てないと楽しめないと思います」とまたしても却下。「観たい映画ないんだからそんな無理して行くこともないんじゃないなですか?」とも言われたけれども、これは僕が却下。性格的にそれはできない。「もったいない」

 ところで、今僕が読んでいるのは、『人は原子、世界は物理法則で動く』という題名の本。まだ読みかけだけれども、人はそれぞれ自分の意思で物事を決定し、行動しているわけではなく、原子のようにある引力に従って、つまりそれは模倣であったり追随であったりするわけだけれども、ある種のきっかけやそのときの流れに影響を受けて行動している、してしまうものだというようなことが書いてあって、まぁそうなんだろうなぁと思ったりしていたのだけれども、どの映画を観ようという決定ひとつとってもそれが正しいということがよくわかったのがなんとなく興味深かった。まぁ観たい映画がはっきりしていれば、また違うのでしょうけどね。

 ちなみにこの本を読んでみようと思ったのは、伊坂幸太郎の『マリアビートル』の巻末の参考文献のところに載っていて、面白そうだと思ったから。自分ではなかなか選ばないと思うので、こんなきっかけで面白いと思える本に出会えたことは本当にラッキーだった。まったくもって、安易に影響受けまくりですけど。

 ま、そんなふうに流され、影響を受けながら、消去法的に観ることに決めたのが『漫才ギャング』。お笑いとか全然観ないので楽しめるだろうかという懸念はありましたが、基本的にしょうもない感じのことって嫌いではないので。で、感想ですけど、なかなか、ではなく結構これ面白かったです。お笑いに免疫がないからか、あるいは人とツボが違うからか、周りの中高生なんかが笑わないところでウケてしまったりとお得だけれどもちょっぴり恥ずかしい思いもしましたが、充分楽しめました。映画券無駄にしないで良かったです。

 映画を観終わったあとは、近くの眼鏡屋さんに寄ろうと思ったのですが、ちょうど接客中だったので遠慮しました。またの機会に寄らせてくださいませ。もっともお笑い映画を観たあとということで、もし寄ったらあまりにくだらない話を連発していたかもしれないなんて気もするので、寄れなくて正解だったかもしれないなんて気も。

 消去法的に観た映画がそれなりに面白くてラッキーだったのともうひとつ、自転車で出かけたおかげで行きのR134では久し振りに僕の尊敬するサイクリストに出会えたのもラッキーでした。かなりみすぼらし目の普段着姿のランドナーで前を走るのは少し抵抗がありましたが、のんびりスピードにあわせて頂き、短い時間ですが楽しくご一緒できました。ありがとうございました。もし映画観た帰り道だったら、きっとしょうもないくだらないことを言っていたかもしれないので、会ったのが往路で良かったです。あ、でも往路でも充分くだらないことばかり話していたような気もしますね。ってことは、観た映画は関係なく、僕自身が・・・。ま、まったくもって、その通りなんですけどね。どーん。

朝と午後に少しずつ

2011年03月20日 | MTB


 一応6時前に起きたけれども、すぐにはベッドから出れずにだらだら。結局家を出たのは8時少し前でした。

 1本山道を走って、ちょうど開店5分くらい前にスーパーに到着。結構な行列の最後尾に僕も並んで、いくつかの食料品を購入しました。

 行列はスーパーだけでなく、近くのガソリンスタンドにも出来ていました。スーパーでは明らかに家族と思われる4人が、ひとり1点という購入制限がある食パンをそれぞれ1斤持ってレジに並んでいましたが、両親のあいだに挟まれていた子供2人は、明らかに食べ盛りの体格の良い中高生くらいの男子。それぞれの家庭にそれぞれの事情があるのだと思いました。実際必要なものを必要な分だけ入手できなくて困っている家庭だってあるんだろうと思いました。ただ、そうは言っても、ガソリンスタンドの行列にクロネコや郵便局の配達車まで一緒に並んでいたのはやはり気の毒に思えました。事業者分くらい優先的になんとかできないものだろうかと思いました。



 今日は足つきしたくない場所で何度か足つき。とくに最初の足つき、そしてその後のずっこけはひどかった。思わず、誰にも見られていないか確認してしまいました。やっぱり、いつも良い感じの走りというのはなかなか難しいなぁ。

 帰宅後は、保温調理鍋を利用して買ってきた牛乳でヨーグルト作り。花粉症に効くかもしれないという淡い期待を抱き、かれこれ2年くらいヨーグルト食べ続けてますが効果のほどは・・・。でも便秘には確実に効果あるので、ほぼ毎日しっかりヨーグルト食べ続けてますです、はい。

 

 午後はLeMondで18kmほど走行。鎌倉の図書館と藤沢の図書館に行って借りていた本を返し、新しい本を借りました。歩きにくいクリートのついたシューズを履かなきゃ乗れないLeMondに乗るのは面倒でしたが、乗りたい理由がないわけでもなかったので。

 帰宅後、今日の走行記録をつけようとしたらMTB用のサイコンが見あたらず、汗かいたままあちこち捜していたら軽い寒気に襲われました。にもかかわらず、結局サイコンは見つからず。多分またしばらくMTBには乗らないので、少し放っておくことにしよう。そのうちどこかから出てくるでしょう。お願いだから出てきて下さいな。

好きな乗り物

2011年03月19日 | MTB
 今日は午前中に2時間半ほどMTB。4つの山道を繋ぐ周回コースを走った。地震の前にLeMondの整備をしたのだけれども、MTBが楽しめそうなときはついついこっちになってしまう。

 今の僕にとって自転車は親密な、そしてあまりに日常的で自然な乗り物。とはいえ、こんな時期だからか遊ぶときもいつもより気持ちが真剣になっているのかもしれない。少し間があいた割には今日もかなり良い感じで乗れた。もちろん僕にしては、ということですが。 



 上りながら空が近づいてくる。空がひらけてくる。好きな瞬間。







 金曜から日曜が僕の三連休。明日も朝は自転車に乗ろうと思う。自転車、いろいろ利点の多い乗り物ではあるけれども、僕はただ好きだから乗っている。もっとも好きな割には、乗るのが憂鬱だったり面倒だったりするときも多いのですが。。。

眩しく見えるいつもの風景

2011年03月18日 | MTB


 今日は2回の計画停電が予定されている。LeMondで房総に出かけて以来、通勤や買い物以外ではほとんど自転車に乗っていなかったこともあり、「今日の停電中は自転車に乗ろう」と8時過ぎに家を出た。昨夜から今朝にかけての冷え込みは、この時期にしてはかなりだった。富士山はこの通りくっきりだったけれども、被災地の冷え込みがどれほどだったろうと思うと・・・。山道にも久々に霜がはっていた。





 久々のMTBは楽しかった。そして、いつもの風景がいつも以上に眩しく見えた。



 いつもの場所を下ろうと思ったら、こんな木が。ほんのコンマ何秒かのあいだにいくつかのイメージが頭のなかでフラッシュした。そのなかには木の上にタイヤを転がすというのもあったのだけれども、結局右側(写真では向かって左側)に自転車と身体を投げ出した。安定した体勢でラインを変更するまでは体が反応しなかった。くぅ。

 ところで、ここに置かれた木にははっきりした意図があるのだと僕は思う。で、そういったことをされても仕方ない部分もあるのだと僕は思う。



 たとえば、この場所。新しい道がつくられていままでのコースが少し変更になったのだけれども、さっそくタイヤで道がえぐれはじめている。実は僕もここを上ろうとして、土をえぐってしまったことがある。思ったより柔らかく、もろかったのだ。それ以後はラインを変えて走るようになったのだけれども・・・



 1時間半ほどMTB楽しみ、スーパーに寄って帰宅したときには1回目の計画停電は終了していた。

 午後の2回目の停電は中止になったようだった。でも、こちらは予定通り再び出走して2本山道を走った。





 鉄塔周辺の木が伐採されて、いつもと違う景色になっていた。



 以前はこの場所からは多分海は見えなかった。木のなくなった斜面の下りは、開放感がある分いつもより怖く感じた。







 なんだか今日はいつもより真剣にMTBに乗った気がした。頑張って走るというより、精神を集中させるといった感じに。だからか、久し振りのMTBだったけれども、かなり良い感じで乗れた気がした。

輪番停電

2011年03月16日 | 日常生活
 輪番停電というそのことばをはじめて知ったのは、多分半年くらい前のこと。原発テロを題材にした東野圭吾の『天空の蜂』という小説を読んだからだった。

 ニュースで輪番停電の可能性ありということはわかっていたけれども、その晩遅くの地域の防災無線で翌日輪番停電を現実に行なうと知ったときは、本当に非常事態なのだと再認識させられたような気がしてなかなか寝付くことができなかった。

 需要が供給を上回ったとき、突然どこかで停電が発生する。突然ということで、その地域では深刻な事態が避けられない。需給を調整して、そういった事態を避けようとするのが輪番停電である。一方、電気というのは蓄えておくことができないエネルギーである。もちろんわずかな量であれば電池に蓄えることができる。しかし大量の電気を蓄えることは不可能である。であるならば、そのときの需給に問題がなさそうであれば予定していた地域にも電気を送ったほうが良い。でなければ発電した電気はただただ無駄になってしまう。えっと、理解の間違っているところもあるかもしれないけれど、僕はそんなふうに理解した。

 題材に特別な関心があったわけではなく、図書館の棚にあってたまたま手にとった小説だった。そしてサスペンスなのに、(よくあることだけれども)途中の経過や結末をほとんど覚えていない。でも輪番停電に関しては、不思議と記憶に残っている。電気を停めるということがいかに日常の生活に影響を与えるか、そしてそれにもかかわらず輪番停電を行なわざる得ないという決断に至るまでの描写をこちらも結構緊張しながら読んだからだと思う。そのときはまさか現実に輪番停電なんてことが行なわれるなんて思ってもいなかったけれど。

 原発へのテロがどうなったかも実はあまりよく覚えていない。こんなときに不謹慎のような気がするけれど、近いうちに再読しようかなと思う。それから今回の災害とは全然関係ないけれど、こんなときだからこそ再読したくなっている本もあったりする。なんだか不思議なことだけど。

 昨夜は地震の前に借りてあった『シンドラーのリスト』のDVDを部屋のノートパソコンで観た。伊坂幸太郎の何かの小説で、ちょっと意外な誰かが誰かを助けるか心配する場面で、「オレはこう見えても『シンドラーのリスト』に感動したクチなんだよ」みたいなことを言っていたけれど、久々観ましたけど、これはやっぱり感動する映画ですよね。

 ひとつの命を救うものが世界を救う

 きっと、そうなんだと思います。危険を顧みずにいま頑張ってくれている皆さん、本当にありがとうございます。

今はただ願い続ける

2011年03月15日 | 日常生活
 あまりに大きな災害、あまりに痛ましい被害に心を痛めています。失われたもの、そしていま足りないものがあまりに多すぎます。そんななか、自分にできることは何だろうと考えたりしています。

 まずは今起こっていることをしっかり見ること。想像すること。考えること。行動すること。直接的には手助けにはならないかもしれないけれども、できることをしたい。

 簡単なことではないし、もしかしたらおこがましいことかもしれないけれども、被災した方たちの心に気持ちを重ね合わせ、応援し続けたいと思います。今はただただ被災した皆さんが無事であること、そして少しでも今の環境が良くなることを願い続けています。

 今回のひどい被害を(テレビを通してですが)目の当たりにして、自分の想像力が今までいかに足りなかったかを思い知らされたりもしました。遠いからとか被害の範囲が狭いからということで、考えず、想像しなかったことが今まで何度もあったのだと思いました。だからこそ、見続けること、想像し続けること、考え続けることをやめないようにしたいと思います。