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山の記憶 (百名山・二百名山・三百名山)

山スキー、その他の山行もあります。

 百名山の記録 雲取山(2007年)

2014年08月28日 | 日本百名山

  駐車場まで下りて身支度を調え車を走らす。青梅街道は、大菩薩ラインとも呼ばれ山梨県と東京都をつなぐ山間を走る国道。部分的には大変嶮岨な道が続く。山が押し寄せてきそうな威圧感を感じながら渓谷沿いの道を下ると、やや開けた感じのする丹波山村の中心地に入る。集落は川を挟んで寄り添うように展開している。登山口を捜すのだが、百名山を持つ村にしては珍しく標識にぶつからない。うろうろしている間に日も暮れて、仕方なく「のめこい湯」の駐車場に車を入れることにした。湯場は川を隔てた対岸にあり、この駐車場から良く整備された道でつながっている。

 お風呂へ行くと覚しき親子に「雲取山」への登山道について聞くと、「お祭」から林道に入り、その終点から歩けばいいとのアドバイスをもらう。親切にも、道路の様子をわざわざ携帯電話で調べてくれた。どうも道路関係の仕事に従事している人らしく、途中の道路工事の様子など細かく教えてもらう。
 また、この近くには雑貨屋があるだけで、買い物は奥多摩辺りまで出ないといけないなどいろいろと教えられた。食料も尽きかけていたので、夕暮れの青梅街道を下ることにする。奥多摩湖の周囲を周りながら街に入る。しばらくして、奥多摩駅前に着く。東京の奥に、奥多摩という地があることは知っていたが、それにしても山奥の街だと妙に感心したりする。食堂で夕食を済ませ、コンビニで買い物を済ませ、また「のめこい湯」の駐車場まで返る。川向こうの湯場の温泉に浸かりホッとする。今日からしばらくは自動車での泊まりが続きそうだ。蒸し暑く寝苦しい夜を過ごす。
 
 8月29日(水)
 翌朝、青梅街道の「お祭」より林道に入る。丹波山村から雲取山へは、お祭りからと鴨沢の2つが主な登山口のようだが案内板などが少なくどうも良く分からない。
 林道は狭く、対向車でもあったらどうしようかと神経を尖らしながら進む。幸い朝早いためか山から下りてくる人もない。山道は渓流沿いに付けられ、眼下には奥多摩の清流が流れ落ちている。釣りにはいい環境だろうと思った。
 間もなく、駐車場に到着する。先発者のものだろうか、既に2台の車が駐めてあった。さっそく身支度を調えスタート。奥深い深閑とした山道が、素晴らしく整備された山肌を縫い、水源をしっかりと管理しようとする東京都の姿勢が垣間見られる。
 

  「三条の湯」は渓流沿いに登った登山道の途中にひっそりとして建っている。今日は客もいないらしく、人の気配もない。静かに通り過ぎることとし、しばらく行くと、いよいよ本格的な登りに入る。素晴らしい広葉樹の森を登る。途中下山者に出会うが、このルートを利用する登山者はそう多くはないようだ。三条ダルミで尾根に出る。見晴らしの利きそうな場所ではあるが、あいにくの天気で眺望はない。
 最後の急登を越すと明るく開けた頂きに出る。雲取山の頂上である。立派な避難小屋があり、そのすぐ後ろを斜めに登ったところに、一等三角点がある。これは、一時代前の三角点で歴史的な価値のある珍しいものらしい。
 頂上からは、今日は何も見えない。天気が良ければ、富士山、奥多摩、奥秩父などの山々が見渡せるそうだ。写真を撮り、下山にかかる。

                                  頂上は人の姿なし

                                 

                                                              原三角測点

                                   

 

 

 


 

 途中、道を整備する方に出会う。一人黙々と働いておられたが、どうも三条の湯を管理している方らしい。うっそうとした山の中、一人での生活はまさに孤独との戦いだろう。こういう方のお陰で、我々が安心して山へ行けるのだと思う。
 駐車場に帰り着きホッとする。そのためだろうか、ストックを置き忘れたまま出発してしまった。長年使用していたものなのだが、だいぶ後で気がついたため、しようがないとあきらめる。

                                                    (林道奥登山口8:00~14:50下山)
 のめこい湯に浸かり、一休みしてから瑞垣山へと向かう。


 百名山の記録 大菩薩嶺(2007年)

2014年08月28日 | 日本百名山


    2007年8月28日(火)~
   大菩薩嶺~雲取山~瑞垣山~金峰山~甲武信岳~両神山~蓼科山~霧ヶ峰~美ヶ原
   

2007年8月28日(火)
 

   前日、同期の退職者仲間と富士山に登り、夜は山梨県石和温泉泊。山歩きを続けているとめったなことで旅館などには泊まらないのだが、たまにはいいものだ。
 翌朝一同と別れ、大菩薩嶺を目指す。国道20号線から県道215号線の峠道に車を走らす。途中上日川ダムで休憩を取り、ダムの管理人の方から大菩薩嶺に関して丁寧な説明を聞く。
 ダム湖のパンフレットにある写真は、大菩薩嶺からのものらしく富士山を後景にした美しいものだった。 
 

  幾重にも曲がりくねる道もやがて峠に差しかかりるとロッジ長兵衛荘の建物が見えてくる。登山の駐車場はそう広くはないが、今日はかなり暇らしい。小屋脇に流れる水を汲ませてもらいスタート。すぐに登山道は2つに分かれる。私は尾根づたいの道を行くことにする。 しばらくは車道を横に見ながら歩く。すうに本格的な登りとなる。自然保護を訴える看板や脇道へ入るのを規制するロープの張られた道をジグザグと進む。曇りがちの天気だけれど視界はあるようだ。一息ついて目を上げれば、昨日登った富士が遙かに見えてくる。 急登にあえぎながら頂上らしき岩場に出る。雷岩と名付けられたこの地点からの眺望はすばらしいの一言。

   本当の頂上は、ここからしばらく行った林の中にあり、2057mの大菩薩嶺と記した標識が建っている。雷岩まで引き返し休憩とする。眼下に先ほど車を駐めた上日川ダム、そしてその遙か彼方に、幾重にも連なる山脈を前衛にして富士山がゆったりとした姿を際だたせている。
     

                  

    風もなく穏やかな日よりだ。シーズン中なら大変な人出で賑わうことだろうが、今日は至って静かであり、登山者もあまり見かけない。富士の姿を堪能した後、いわゆる大菩薩峠と名付けられた峠に向かう。緩やかな下りには、親不知ノ頭とか賽の河原などと呼ばれる場所があ。しかし、名前の割には何と言うこともない山路だ。間もなく介山荘に着く。改装が始まっているらしく、数名の大工さんが忙しそうに働いておられた。

                                       大菩薩峠

                   


 ビールを飲みながら、「中里介山」の世界を思い起こしてみるけれども何もかも遠い世界のことのように思える。
 売店で日本百名山の「のれん」を買い、介山荘脇の山道を下る。途中、資材を乗せた軽トラックに出会う。道一杯ギリギリの幅の道を小屋まで上がるらしい。恵まれた自然と歴史・文化の詰まったこの山は、都心に近い手軽な山として、今後ますますフアンを増やしていくことだろう。富士山の喧噪を思い出しながら静まりかえった山路を下った。
                                            (登山口10:40~大菩薩嶺12:10~下山14:30)

  大菩薩嶺の次に予定した山は「雲取山」だ。地図によればこれより国道411号線に出て、いわゆる青梅街道を東京方面へ向かうことなる。


 百名山の記録 霧島山(韓国岳)から祖母山(2007年)

2014年08月26日 | 日本百名山

  翌4月1日は韓国岳に登る。

  登山口から頂上まで全てがガスの中。頂上の標識を確認しすぐに下山。五里霧中とはこのことか。とにかく何も見えず、下山後風呂に浸かり一路次の山祖母山を目指すこととした。
 途中、宮崎県高千穂峡を見物し、民俗資料館に立ち寄ったら学芸員の方が、祖母山に登るなら北谷登山口からが一番と大いに進められたのでそうすることにした。祖母山は、宮崎県、熊本県、大分県の3県にまたがる山なので、誰も「オラが国の山」という意識が強いらしい。


 祖母山に近い小高い丘に、ウエストンの記念碑があった。宮崎県五カ所の三秀台だ。ウエストンの祖母山登頂を記念して建てられたものだが、ウエストンは北アルプスに登る前この祖母山に登ったらしい。宮崎県とウエストンとの関わりはよく分からないのだが、何か強いつながりがあったのだろうか。
 山間に開かれた道を進むと、間もなく北谷登山口に到着。トイレ付きの休憩所と駐車場の整備された閑静な場所に車を駐める。この駐車場を今夜の宿泊所とする。夜半雨音を聞きながら眠る。

 4月2日

 今日の天気もあまり芳しくないようだ。天気予報によると曇り時々雨とのこと。それでも、祖母山の方角には薄日が射し、かすかに青空も見える。
 7時スタート。風穴コースを行くことにする。北谷登山口から祖母山への道は2つあり風穴コースは険しいコースとされているが、近道らしい。季節的がら花らしい花も見かけずただひたすら登るばかりだ。沢を渡り、杉林の中に付けられた山道は徐々に険しさを増してくる。ガレ場のような岩の積み重なる道の途中に「風穴」の標識があり、巨岩の隙間の奥に風穴があるらしいがとにかく先を急ぐことにする。
 ササのトンネルを抜ける辺りから視野も開けてくる。スタートから約2時間、やっと祖母山の頂きに出てホッとする。天気は何とか持ちそうだ。
 さほど広くはない頂上からの眺望の中に、古祖母山、大崩山などが見渡せる。風やや強く薄雲り。マンサクの黄色い花がわずかに春の訪れを告げていた。
 帰りはやはり風穴コースを辿ることにする。空身に近い下山は早い。沢近くまで下りた辺りで登山者のグループに出会う。地元山岳会の方たちだろうか、ニッカーズボンにチロリアンハット、洒落たチョッキにザックはミレーか。各人それぞれにダンデーな装いの年配の登山者の一団だった。
 

 11時駐車場着。100名山の九州編はこれで全て終わった。九州にはまだまだ登ってみたい山は沢山あるのだが、今回はこれまでとする。
 帰路の途中、岡城址を見物する。古城に散る桜吹雪は、ひそやかに季節のうつろいを告げていた。

                                                                                                                        


 百名山の記録(その4) 開聞岳・霧島山(2007年)

2014年08月25日 | 日本百名山

 2007年3月30日

 標高924mの開聞岳。100名山の中では2番目に低いのだが、異国からの長い船旅を終えて帰ってきた人たちに与える感動の大きさはいかばかりだろう。それは、私たちが富士山に出会ったときのものに共通するいい知れぬ心の昂ぶりに似ていることだろう。
 登山口は、この「かいもん山麓ふれあい公園」の登山者用駐車場から少しばかり離れた所にあった。
 7時10分スタート。天気は上々、のんびりと登ることにする。この日まで、開聞岳についての知識などほとんど持っておらず、いとも簡単に頂上に達するものとばかり思っていたのだが、いけどもいけども着きそうにない。予想以上に時間が掛かり、その内息も上がってくるし何か調子がおかしい。後で気がついたのだが、開聞岳の登山道はゼンマイのように山を一周して付けられている。一般的に登山道というものは、尾根筋とか沢筋に沿って付けられており、直登とジグザグが普通の形なのだがここのそれは違う。

 蚊取り線香のように、ぐるりと円を描いていて、こんな登山道を歩くのは初めての経験だ。思いの外苦戦しつつ、9時30分に何とか頂上に着く。天気は良さそうなのだが、風とガスの中に期待していた眺望は得られない。宮之浦岳はどの方角だろうか。視線は遙か彼方にあてもなくさ迷うばかり。がっかりして腰を下ろしていると、「開聞岳登頂1000回」を目指すという男性に話しかけられる。何でも、40才の頃から始めて、今回で六百数十回目だそうだ。せっかく登頂したのだから頂上の神社(祠)へ案内してやると言ってヤブの中に案内された。素人にはちょっと分かりにくい場所ではあるが、古びた祠があり拝礼の方法を教わって柏手を打つ。久しぶりにか敬虔な気持ちになったような気がした。
 私を案内してくれた方は、地元の方なのだが、話しぶりからしてどうも神社関係の人のようだった。間もなく、飛ぶようにして下りて行かれた。

 11時50分、登山口着。公園の芝生の上でしばし休憩する。天気も落ち着いたのか春の陽気が気持ち良く、キンポウゲとシロツメクサが風に揺れていた。
 近くの物産館で手打ちのソバを食べる。のんびりとした時間を過ごした後、次に目指す霧島山に向かう。
 霧島山とは、霧島山群のことであり幾つかの山々の総称である。その最高峰が韓国岳だ。しかし、深田久弥の100名山では高千穂峰を中心としているから少なくとも韓国岳と高千穂峰には登らなくてはならない。また、天孫降臨の伝説の地でもあるので、霧島神宮への参拝も欠かせない。
 そういうことで、まず霧島神宮に参拝し神様に登頂のご許可を頂くこととする。霧島神宮に参拝するのはこれで2度目。ニニギノ命を祭るこの地は神道が持つあの独特の雰囲気がいっぱいに張りつめているのを感じさせられる。
 参拝を済ませ、高千穂峰の登山口となる高千穂河原の駐車場に移動する。ここは、旧霧島神宮の跡地でもあるのだが、広い駐車場にビジターセンターがある。ただし、夕刻のこの時間帯は深閑と静まりかえり人一人見えない。
 車を置き、周囲を散策する。鳥居の後ろに大きくそびえる御鉢と呼ばれるなだらかな山は、実は火口のふちの部分だ。山頂はここから見えないのだが、あまりにも立派で優美な山のカーブに、てっきりこれが目指す高千穂峰だと思ってしまった。

 2007年3月31日
 6時40分スタート。少し前に若者が一人頂上に向かっており、さらに、私の後に親子連と思われる2名が準備を整えていた。鳥居の前から横丁に続く登山道は、しばらくはきれいに整備されて歩き良いのだが、間もなく火山特有のガレ場となる。御鉢の端に着いた頃、先行していた若者が引き返してきた。「早いですね」と声を掛けたら、「風が強すぎるので下山します」とのこと。御鉢の端に立つと、周囲の景色が開け、霧島山群の山々が一望できる。進行方向彼方に、厳かに座しているのが高千穂峰。今にも雲を呼びそうな気配だ。反対方向に目をやると、中岳、新燃岳は泣きそうな気配。韓国岳は黒い雲にすっかり被われ姿は見えない。富士山の烈風を思わせるような風が、ごうごうと鳴り渡り山はご機嫌が悪いらしい。ふと見ると、先ほどまで後に付いてきていた親子連れが安全第一とばかり引き返していく。さあどうしようかとしばらく思案したが、ここが頑張りどころと決心し、吹き荒れる風の中、御鉢の縁、馬の背を慎重に歩き始める。火口はポックリと大きな口を開き、アリ地獄が獲物を待つかのような形相だ。左の斜面は、これはもう絶壁をなして切れ落ち、頂上から流れ落ちるような傾斜が谷となり、沢となって彼方へと延びている。
 ストックを頼りに御鉢を抜けると緩やかな下りとなり、小さな祠の前に出る。この頃から風も収まり、いくらか安堵するが雨の心配は相変わらずだ。頂上辺りに掛かる雲が、風に流されて凄い迫力で威圧する。かって、最初の神宮はこの場所にあったらしい。いわゆる原神宮の地であり、登山口にある神宮跡は古神宮と呼ばれているらしい。
 頂上はもう目の前だからとにかく急ぐ。後ろを振り返るともう何も見えず全くのガスの中。8時頂上に着く。ガスの中に「天の逆矛」を見つける。もっと大きなものかと思っていたが意外と小振な矛であった。柄の「人面」も間近に見ながら柏手を打ち、拝礼の後下山することにする。

 先ほどのまで荒れていた天気もいつの間にか穏やかとなり、高千穂峰に見守られるようにして下山した。お陰で貸し切りの高千穂峰を体験するとになった。神様に感謝、感謝。
 頂上から40分程で駐車場に帰り着く。あっという間の出来事のようだった。まあ、こんな100名山もたまにはいいのではないかと思いながら、ザックや体に付着した砂を落とした。砂はパラパラと、足元に落ちて広がり、少し赤茶けて見えるそれは霧島山の誕生の歴史をうかがわせた。


 百名山の記録(その3) 宮之浦岳(2007年)

2014年08月23日 | 日本百名山

2007年3月28日 屋久島から開聞岳へ

  4時30分 新高塚小屋をスタート。星空が見える。予報通り良い天気となりそうだ。昨日確認しておいた道を行く。ヘッドランプの明かりを頼りにしばらく行くと、暗がりの中に光るものを見る。ライトの明かりかと思ったら、何とシカの目玉だった。夜、動物の目が光るのは知っていたが、突然のことでなのでビックリする。シカも驚いたらしく何処かに行ってしまった。明るくなってきた頃、平石岩屋というところに出、間もなく日の出を迎える。
  時計は、6時を少し回っていた。雲の中から、太陽が顔を出す様は雄大そのものだ。雲がなければどんな日の出だったのだろう。新高塚小屋から宮之浦岳繋がる道は、宮之浦岳歩道と呼ばれ、ほぼ尾根筋の見晴らしのよいコースだ。暗闇の中、ひたすら登ってきたのでそれまで何も見えなかったが、いよいよ宮之浦岳らしきピークや永田岳の岩峰が現れはじめた。歩道には、薄い氷が張り足もとが危うい。昨夜はかなりの冷え込みがあったようだ。屋久島が亜熱帯から亜寒帯までの気候を持つことを、身をもって体験させられた。 永田岳を右に見ながらヤクザサの中の道を進むと、分かれに出る。焼野三叉路というそうな。ここで荷物を降ろし、空身で永田岳へ。
                                                                

   ヤクザサの中の道は、水による浸食が進んで歩きづらい。頭上に見上げる岩の上には、すでに数名の登山者が休んでいる。白っぽい岩肌が、青空をバックに美しく、早く、早くと気がせかされる。息を継ぎながらやっとの思いで大岩の上に立つ。 7時50分であった。風は強いが、快晴そのもの。眼下に、永田港であろうか、集落が見え、その向こうは、果てしなく広がる青い海だ。月に35日も雨が降るといわれる屋久島で、こんなに素晴らしい天気に恵まれたことは運が良いとしかいいようがない。ただ感謝。 
 
 頂上での憩いを終え、下山にかかる。しばらく下りた辺りで、窪みを飛び越えて着地した瞬間、足首が「グギッ」と鳴った。しまったと思ったが、その時はもう遅い。あまりの痛さにその場にしゃがみ込んでしまった。痛みが遠ざかるのを待ちながら、足がどうかなってしまったのではないかという不安に襲われた。しばらくの後、恐る恐る足を動かしてみる。骨折はなさそうだが、足首が痛む。ストックで何とか立ち上がるが歩くのはどうだろうか。軽く左足に体重をかけてみる。ゆっくりなら何とか歩けそうだ。
 焼野三叉路まで帰り着き一安心。ゆっくりなら何とか歩くことはできそうだ。一歩一歩と宮之浦岳を目指す。9時20分頂上着。

   先ほど登った永田岳は目の前だが、そちら方向の海は見えない。反対方向に遠く開聞岳が見えると、後から来たパーティーのガイドらしき人が説明しておられたが、目の悪い私にはボヤッとかすんだ島影らしきものを認めたに過ぎない。こんなに天気が良いのも珍しいとのこと。痛い足を引きずりながら花之江河を目指す。気温も上がってきたらしく、凍っていた登山道に水が流れはじめる。
 基盤が花崗岩だから、降った雨はそのまま流れ下り、ある沢では滝となって飛沫を飛ばし、ある沢では河岸を大きく浸食し、青く澄んだ流れはついには大海原へと流れ込むのだろう。名山、名瀑の島、屋久島といったところか。
 宮之浦岳1935mから、栗生岳1867m、翁岳1860m、安房岳1860m、投石岳1830m、そして黒味岳1832mと続く1800m級の山々を登ったり、巻いたりしながら11時50分花之江河に到着する。足の方は思ったほど傷んではないらしく、なんとか歩くことができた。

 
  花之江河とは、変わった名前だと思っていたが、こじんまりとした湿地帯だ。黒味岳を背景に絵はがきのような風景を形ちづくるこの楽園は、シャクナゲの咲く頃に華麗に美しい姿を見せてくれるに違いない。
 木道の上でお茶を沸かす。小屋を出てから、食べ物らしきものを口にしていないのでここで休憩とする。シカの親子がこちらの様子をうかがいながら草を食べていた。のんびりとした午後の一時を過ごした後、淀川小屋に向け出発する。尾根歩きから、原生林の林の中を歩くことになる。13時40分、淀川小屋に着く。足が痛む。淀川小屋も無人小屋だが、宿泊者のザックが幾つか置かれていた。
 
     最後の一頑張りで、ついに車道に出る。淀川小屋登山口だ。時計は14時30分。しかし、バス停まではもうしばらくの歩きだ。これでもう歩くのは終わりと張り切って下ると、何ということだろう、すぐ目の前をバスが発車して行ってしまった。もう数分早かったら間に合ったのにと後悔する。次の駐車場まで歩くが、観光客を乗せた貸し切りバスばかりで乗せてもらえそうにない。仕方なく、近くに止まっていた予約済みタクシーの運転手に、タクシーを一台呼んでもらうことにする。
 ここの駐車場前には、紀元杉の巨木があり、それを見物するために多くの観光客がやってくる。年を経た古木の例に漏れず、その体には何種類かの異なる木々を根付かせている。何やら、「八岐大蛇」を連想させる。見物客にお年寄りが多いのは、バスを降りてからほとんど歩く必要がないからだろう。
 ガイドの説明を聞き、ぐるりと巨木の周りを巡り、記念写真を撮っては帰っていく。そんな、光景を見るとはなしに見、ガイドの話を聞くとはなしに聞きながら車を待った。
 しばらく待たされたが、タクシーが来た。案内慣れした運転手さんに宿泊所をきめてもらい、屋久島の自然や歴史のお話を聞きながらお宿に直行。途中、猿の親子を見る。本土のサルに比べるとちょっと小柄で、おとなしい。これは、観光客がエサを与えないからだと運転手さんのは言う。なるほどと思った。
 

     この日は、安房の民宿「杉の子」に泊まる。したたかに地酒の焼酎を飲み眠り、翌29日、宮之浦港より鹿児島港へ帰る。
 屋久島では、結局3泊したことになるのだがさすが世界遺産登録の島のことだけあって気持ちのよい山旅ができた。もしまた訪れる機会があればその時は花の時期だろうか。
 駐車場の支払いを済ませ、一路開聞岳を目指す。夕方遅く、開聞岳登山口の駐車場に到着。車中泊とする。

                                                              (その3)


 百名山の記録(その1.2) 宮之浦岳 (2007年)

2014年08月22日 | 日本百名山

 はじめに

一つの山に集中していた時代が過ぎ、多くの山々に目が向くようになった頃、いわゆる「深田久弥の日本百名山」と呼ばれる山々の幾つを登ったのか数えてみた。30座とちょっとだった。
  若い頃から、一山一山に集中的に通っていたのだが、そのころは、「深田久弥の百名山」は意識したこともなかった。
 退職も間近となり、古希の先輩と記念の北アルプス縦走を行った。白馬岳から槍ヶ岳までだが、テントと山小屋利用で8泊9日だった。退職の2006年は、単独の南ルプス縦走を行った。夜叉神峠から光岳までで、テントと山小屋利用の9泊10日の山歩きとなった。
 この頃から、登る山の内容より、山の数の方が気になりだした。そこで、本格的な「百名山対策」を考え、一応、南から北へと向かうことにした。南には宮之浦岳があるが、その途中にまだ未踏の百名山が4座あった。開聞岳、霧島山・韓国岳、祖母山である。まず、最南端の山に登り、帰りながら4座に登ることにした。
 これが、私の百名山登山のスタートです。以後、似たようなパターンを繰り返しながら2007年には新たに30座を終えることができた。
 2008年からは、主に東北、北海道方面と徐々に山の数を増やしていった。
  この記録は、私の山行の主に「百名山」を中心としているが、それと関係のない山行の記録も載せている。
  また、自分のこれまでの山行をこの際整理してみたいと思ったからでもある。そして、山とは全く関係のないような「お話」や「記録」なども入れてみた。

 

 百名山スタート


     宮之浦岳~開聞岳~霧島山・韓国岳~祖母山 

 
 2007年3月25日

 松江を発つ。三好から中国縦貫道に乗り、一路南へ。九州への山行は、「久重のミヤマキリシマ」見物以来ということになる。その時は、坊ヶツルでテントを張り、九重連山に登った。山一面を赤く染めて咲くミヤマキリシマの美しさに圧倒された。その時の記憶は未だ鮮烈である。
 百名山は、九州地方には六座あるが、その中の二座(大船山と阿蘇山)は既に登っていたので残りは四座ということになる。
 下関を過ぎ、いよいよ九州に入る。以前、今のように自動車道が整備されていない頃、連休のラッシュにぶつかり大変な目にあったことを思い出した。午前中に到着予定が、午後に大きくずれ込んでの九重入りだった。まだ、ツツジの季節には早かったが、下界のラッシュとは無縁な、ゆったりとした九重の山々を、大いに堪能できた。
 そんな思い出に浸りながら、九州自動車道を一路鹿児島港へと向かう。鹿児島港へは夕刻に到着する。駐車場を捜すのに苦労したが、近くの交番で親切な説明を受け港にある有料駐車場に入る。南の島々からの船が着き、人々がはき出されて行くのを見ていたら、何だか異国に来たような気持ちになった。異国情緒に浸りながら一夜を駐車場で過ごす。


 翌26日は朝から素晴らしい天気だ。雨の屋久島などとの言葉は何処かに飛んでいったようだ。8時30分発のフェリー乗り、屋久島宮ノ浦港着が12時30分(?)。下船後、バスの時間表を確かめて昼食とする。食事は「トビウオ定食」だったが、トビウオは我が山陰では、5月頃でないとお目にかかれない。噛みしめると、南の島の香りが口いっぱいに広がってきた。
  13時36分のバスに乗り、登山口となる白谷雲水峡を目指す。バスの中から、時折海を見る。バスから見る南国の海は、春のおぼろな光を浴びて、何処までも白く光っていた。 白谷雲水峡に着く。観光客の多さはさすがだ。ここから、島第一の観光ポイント「屋久杉」が近いからだろうか。


 案内板に目を通し、ザックを担ぐ。弥生杉を見物し、白谷白水峡を横に見ながら原始林の歩道を歩く。多くの下山者をやり過ごしながら、白谷山荘に着く。水もあり、時間的にもここで一泊とするのも良いのだが、先を急ぐことにする。多分、今夜はテント泊になりそうだと覚悟する。「もののけの森」を抜け、辻峠でしばし休憩。ここから、楠川歩道分岐まで下り、軌道敷の残る水平道をひたすら歩く。日も傾き夕暮れも迫った頃、大株歩道入口に到着。奥まった場所に立派な建物が見える。山小屋?と思い入ってみるに、何と環境に配慮した最新のトイレだ。あまりの立派さに、一瞬、ここを今夜の宿にしようかとさえ思ったほどだが、少々臭いが気になり止めることにする。
 大株歩道入口から急な登りが始まる。今夜の宿泊場所のことを思うと気が急くが、なかなか適当な場所に当たらない。天気も下り坂のようだし、ますます薄暗くなってくる。あせっていると大きな杉の木の下に出た。案内板に「翁杉」とある。すぐ近くに、板敷きの休憩用の台場があり一張りのテントなら張れそうだ。これぞ天助け、翁杉様々と感謝して重い荷物を降ろす。時計は18時20分を指していた。(翁杉はこの数年後倒れた)


 天気は下り坂だったのだが、雲の切れ目から月が出た。千古の時を経た大杉の下で持参した焼酎をチビリチビリ飲む。せせらぎの音が、人の話し声に聞こえる。酔いにまかせて巨木に話しかけてみる。月明かりの下で何も答えない大杉。この林の巨木たちが過ごして来ただろう悠久の時の流れが、今も静かに引き継がれているのを感じた。
 鹿児島港の雑踏の中から、深閑とした屋久島の原始林へとの変化の激しさに戸惑いながら眠りにつく。深夜、雨音を聞く。  (その1)

 

    27日は雨。暗いうちから人の話し声がする。早出の登山者たちの一団がやって来たらしい。聞くと、今朝早く白谷山荘を出発したとのこと。雨にもめげず、元気に登って行った。 簡単な食事を終え、テントをたたむ。雨に濡れたテントは重いが、快適な一夜を過ごせたことに感謝する。翁杉にお礼の挨拶をして別れる。
 すぐに、ウイルソン株の前に出た。とんでもない大きさの杉の木だっただろうが、今は枯れた株が残っているだけだ。株の中にテントでも張れそうだ。
 小雨の中、小さな上り下りを繰り返し、縄文杉に着く。木と板を組み合わせた台場には、既に多くの観光客が集まっていた。記念写真を撮り、先を急ぐ。間もなく、高塚小屋に着く。中は、停滞のための登山者で一杯だった。朝早くから行動していたと見えて、誰も寝袋に入りお休みの様子。二階は空いていたのだが、新高塚小屋を目指す。
 雨は相変わらず降り続け、一向に晴れる様子はない。一応の雨対策はしてきているのだが、気分は重い。水場らしき沢で、鹿に出会う。水を飲みに来ていたらしい。私も水筒に水を詰める。歩き始めるとすぐに山小屋が現れた。新高塚小屋だ。今日の歩きはここまでと中に入る。大きな小屋だが、一階は既に満員。大学生だろうか、ほとんどが若者だ。
 二階に上がり、寝れた荷物を整理する。湿った体が寒いので、お湯を沸かし、焼酎を温める。アルコールが胃袋に流れ込むと、急に空腹を感じピーナツをかじる。
  体も温まり一段落してから、外の様子を調べるため戸外に出る。雨は止んだようだが、一面の霧だ。先ほど聞いたラジオでは、明日は晴天らしい。宮之浦岳への道を確認し小屋に帰る。 (その2)