山の記憶 (百名山・二百名山・三百名山)

山スキー、その他の山行もあります。

 日本最北端 礼文と利尻(予定)

2015年07月18日 | ちょっとそこまで

 暇はありそうなのに、なかなか出れませんでした。しかし、いよいよ出掛けなければ・・・。目的地は、北海道。まずは、若い頃歩き、登った礼文島と利尻島を自転車を利用して巡る計画です。もちろんすべてテント泊で。

 計画は、いつものように、舞鶴港から車を船に乗せ小樽港まで。小樽から稚内まで海岸沿いに北上し、稚内港に車を置き、車に乗せていた自転車を船に乗せて礼文島へ。キャンプ場にテントを張り、自転車を利用して島めぐり。礼文岳は490mと低い山だが、周りにさえぎる物がないから頂上からの景色は良い。前回、この頂上付近でビバークしたら、夜漁り火が綺麗だったのを覚えている。レブンアッモリソウやレブンウスユキソウに出会えればいいが・・・。新鮮な魚介類も食べたい。

 利尻島は、船から見ると島が山、山が島といった感じ。頂上付近一面にトリカブトの紫がきれいだった。途中に避難小屋があったから、あそこで泊まるのも良いかも。

 礼文・利尻が終わったら、オホーツク岸を羅臼まで。途中、道の駅さるふつ公園に泊まりたい。クローバーが一面に咲いていて、その中にテントを張る。贅沢この上もない。ここの道の駅には、風呂もある。羅臼では、海伝いに知床半島を歩いて見たい。本当は、テントを持って突端まで行きたいものだが、ヒグマが気になってどうしたものかと迷っている。「熊よけスプレーを持って行けば良いかも?」

 昨年登った、カムイエクウチカウシ山はもう一度登りたいが、同じルートではおもしろくない。手前の山から縦走して見ようかと思う。これもヒグマが気になる。一度北海道でヒグマの話をしたら、「そんなことでは北海道の山は登れませんよ」と笑われた。地元の人は、意外に気にしていない。北海道の300名山は、すべて登ったが、熊には出会わなかった。心配のしすぎかもしれない。

 カムエクの帰りに、札内川で釣りでもできればいいが・・。

 帰りは、日本海側を南下して、会津朝日岳、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳に登る。8月中頃までには帰らないといけないから、時間的にどうだろう。

                             残雪の鹿島槍          

                    

  無事帰松出来たら、ブログに載せます。


山書散策(その5)

2015年07月17日 | 山の本紹介

 

山書散策の著者の推す本で、比較的近い年に出版された本を紹介します。

   昭和55年    「 栄光の反逆者 」 小西政継の世界           本田靖著     山と渓谷社

   昭和55年    「 狼は帰らず 」   アルピニスト森田勝の生と死    佐瀬稔著    山と渓谷社

 小西政継は、国内はもとより、国外でも名の知られた登山家であり、かっては日本を代表したアルピニスト。彼の栄光の足跡は、我が国の山岳史上永遠に残るものだろう。

 一方、森田勝は不可能と思われていた滝谷第3スラブの登攀で名をあげ、その後、ヨーロッパアルプス、ヒマラヤなどの登攀で有名。特に、RCCⅡによるK2隊に加わるも、第一次アタック隊に選ばれなかったことを不服としてサッサと下山したという出来事は、彼という人間を一層世間に知らしめることになった。

 著者はなぜこの2冊を特に選んだのかその理由はよくわからないが、既成の山岳団体やらその権威に反発して頭角を現した二人の生き様に共感を覚えたのだろうか。小西政継は、登攀の記録を本として多く出版しているので、そちらを読んだ方がおもしろいという意見もある。

 小西政継は、昭和13年11月19日生まれ、森田勝は、昭和12年12月19日生まれだから森田の方が1年ほど年長になる。ほとんど同じ年齢だから、どこかの山で出会っているのかとおもって調べてみたが、どうもよくわからない。ただ、森田は昭和45年1月頃、冬のアイガー北壁登攀の時、同じく北壁の直登を狙う山岳同志会の遠藤二郎等と出会っているがこの時には小西はいない。

 森田勝は、昭和55年2月、グランドジョラスにおいて逝く。43歳である。小西政継は、平成8年マナスル登頂後消息不明。57歳であった。

 明治から大正、さらに昭和にかけて山と云えばほぼ日本山岳会の独壇場ともいえるが、昭和のいつの頃からか、社会人山岳会の活動が活発になる。金もあり暇もある(?)大学山岳部を母体とした日本山岳会に対してあからさまな対抗意識はなかったものの、満たされない何かをを山にかける情熱は、すさまじいものがあったようだ。

 その対象となった山・岩場が谷川岳一の倉沢。東京から近いと云うこともあり、当時大変な賑わいを見せている。小西も森田もこの岩場で山の洗礼を受け、アルプスへヒマラヤへと飛び立ち青春という人生の盛りを山に賭け、そして、山に逝った。この強烈な個性とエネルギーを持った二人は、お互いの名前ぐらいは知っていただろうにと思うのだが、それぞれの本の中には一切出てこない。この辺りが気になり、色々と調べるのだがやはり接点はないようだ。

 小西は、山岳同志会を抜けてから川村晴一等と小さな会社を興している。川村晴一は、我が島根県隠岐郡の出身。小西たちと、ジャヌー、カンチェンジュンガ、チョゴリ、エベレストと頂上を極め、山岳同志会をになうホープだった人物だ。小西たちと立ち上げた「クリエーター9000」という会社のある部門を任されていたのだが、うまくいかなくなり小西に何か言われたようだ。何がどうなったのか定かではないがこれを境に、山から離れていく。岳人備忘録(東京新聞社)に彼の話が載っている。

 この2冊の本を読んで、 「 なぜそこまでやるの?」 といった素直な思いが残る。川村晴一は、岳人備忘録のなかで

次のように言っている。

 「・・・・・。このあいだ、いったい何人山で死んだのか指折り数えてみたら、両手では足りなくて両手が2回でも足りない。自分のまわりをみても、あの人もいない、この人もいない。もうほんとにいませんのでね。・・・。」

 二匹のオオカミの遠吠えが聞こえてきそうです。

 


山書散策(その4)

2015年07月11日 | 山の本紹介

 山書散策には紹介されているが、20+1には推されていないもので気になる本がある。日本の山登りの興隆に大いに寄与したとされるウエストンの「日本アルプス」と志賀重昂の「日本風景論」。2冊とも我が家にあるのだが、ウエストンの方は英語なので宝の持ち腐れとなっている。一方、志賀の方は、漢文・漢文調なのでいくらかは理解できる。                        

                        

 なぜこの本がそれだけ大きな影響を与えたのか不思議に思っていたので、読める範囲で読んでみた。今読んでも意外とおもしろいことがわかった。自然科学的な見地から、我が国土の美しさ、素晴らしさを述べ、その基となるのは山であるということを彼独特の視点から論じている。

 日本という国の特徴を、いくつかの観点から述べ、他国にはない素晴らしさを鼓舞する。かれは、外遊を通して他国には見られない日本の美を再発見したようだ。

 気候、海流の多変多様なる事。

 水蒸気の多量なる事。

 火山岩の多々なる事。

 流水の浸食激烈なる事。

 等々。それに、折々に古人の詠んだ詩がはいる。

 そして、この本の中核となるのが「登山の気風を興作すべし」の部分。

 山、山、その平面世界より超絶する所多々。

 (一)  山は台地の彩色をジュンカン(漢字が見当たらないのでカタカナで)す。

 (二) 雲の美、奇、大は山を得て映発す。 

 (三) 水の美、奇は山を得て大造す。

 (四) 山中の花木は豪健磊落なり 

 登山の気風興作すべし

  況んや山に登るいよいよ高ければ、いよいよ困難に、益々登れば、益々危険に、いよいよ益々万象の変化に遭遇して、いよいよ益々快楽の度合いを加倍す。これを要するに山は自然界の最も興味ある者、最も豪健なる者、最も高潔なる者、最も神聖なる者、登山の気風興作せざるべからず、大いに興作せざるべからず。

 さらに、登山の準備としていくつかの注意点が述べられる。

 草鞋、長靴、靴足袋等々。

 長靴の箇所には、「靴の革を種油又は獣脂にて塗るか、もしくは生卵を割りて靴の中に投じこうして後穿てば足痛すること少なし」とあり、

 靴足袋には、足の痛みを防ぐ方法として、石けんを塗ると良いとか、左右の足袋をはきかえればよいとか、裏返しにしてはくとよいとかいろいろとある。

 食に関しては、「米は大一人一日6合」としているのは興味深い。ペミカンの作り方もある。「その他味噌、塩、漬け物(梅干しを最便とす)缶詰は甚だ切要なりとす」とある。

 ほんの一部分の紹介です。興味ある人は、本屋へ。現代語訳で出版されているようです。この本が出版された年、日本は日清戦争に入った。思うに、当時の様々な世相を反映してのベストセラーだろう。

          本の裏にある貝原 益軒の言葉。     

          

  


山書散策(その3)

2015年07月07日 | 山の本紹介

 山書散策ベスト20+1に出て来る本で、我が家にあったのは、田部重治の関係本とあと2冊だけ。「狼は帰らず」と「栄光の反逆者」。この本の主人公は、そう古い人ではないから珍しくはないかもしれない。それぞれ強烈な個性を持つ人物だが、どちらも山で逝っている。森田勝とは、ヨーロッパアルプスで出会ったことがある。小西政継については本でしか知らない。

 ただ、なぜこの2冊が選ばれているのか疑問に思う。まあ、人それぞれの個性というか趣味というか、あるいは生きてきた人生や物の見方など異なるから、なにを選ぼうがどうでも良いことかもしれない。ただ、限りなく多くの本を集め、読んだ人の推すものなのだからそれなりの重さはあるだろうか。

 以下に、その20+1を紹介します。皆さん、どうですか・?

  

山書散策 河村正之  東京新聞出版局   2001年3月23日 第1刷発行  山書 ベスト20+1


   日本百名谷  関根幸次ほか編集  1983年 白山書房

   新編・山と渓谷 田部重治 1993年 岩波文庫

   山に忘れたパイプ 藤島敏男 1970年  めい?(草かんむりに名)渓堂

      狼は帰らず 佐瀬 稔 1980年 山と渓谷社

   栄光の反逆者 本田靖春 1980年 山と渓谷社

   失われた記録 立田實の生涯 1986年 遠藤甲太 いなほ書房

   私の山谷川岳 杉本光作 1981年 中央公論社

   会心の山 佐伯邦夫 1982年 中央公論社

   我が南会津 佐藤勉  1985年 現代旅行研究所

   見果てぬ山へ   森下道夫遺稿集 1984年 わらじの仲間 西明登高会

   八〇〇〇米の上と下 ヘルマン・ブール 1963年 朋文堂

   渓 16~18 浦和浪漫山岳会の会報

   行雲とともに 高畑練材 1934年 朋文堂

   みなかみ紀行 若山牧水 1993年 中公文庫

   霧の山稜 加藤泰三 1941年 朋文堂

   山の声  辻まこと 1971年 東京新聞出版社

   山と書物 正・続 小林義正 1981年 築地書館新装復刻版

   遠野物語 山の人生 柳田国男 1976年 岩波文庫

   山びとの記 宇江敏勝 1980年 中公新書

   フォールナンバー 1978~86年 白山書房 沢登り専門書

   日本登山体系 前10巻 柏瀬裕之ほか編 1980~82年 白水社  

 いくつかは是非読んでみたいと思うものの、県立図書館は図書の整理(?)でしばらく休館。仕方がないので、「狼は帰らず」と「栄光の反逆者」をもう一度読んでみます。


山書散策(その2) 

2015年07月05日 | 山の本紹介

 田部重治の「日本アルプスと秩父巡礼」は、復刻本が我が家にあったので引っ張り出して読む。山書の著者の推すのは、「新編・山と渓谷 1933年 岩波文庫」だが、中身的にはほぼ同じようなものだろう。ただ、この田部重治の「山と渓谷」は、我々が今も毎月書店で目にするあの「山と渓谷」、いわゆるヤマケイの雑誌名となったという経緯はあるが。

 この本は、田部重治の山行記録だが、当時の様子(明治の終わり頃から大正にかけて)がよくわかるし、文章も読みやすくて大変におもしろい。装備や食料など、今の我々のそれと比べようもないが、米やミソを担ぎ、食事は水を汲くみ薪を集めて火をおこし飯を炊く。これを朝、昼、晩と日に3度繰り返す。こんなスタイルが、当時の山行の一般的だったようである。

 この本の中に、「槍ヶ岳から日本海まで」というのがあるのでそのたどったコースと所要時間などわかる範囲でざっと紹介する。彼(ら)のたどったコースは、現在でも歩かれているが、きちんとした登山道が整備されているはずもない当時としては大変な難行だったことだろう。

 当時の大きな山行・難しそうな山行には、大体ガイドに雇っている。長治郎とか源治郎とかの名前が出て来るのはそのためで、彼らに案内をさせ、必要に応じて荷物や食料を準備させたり、運搬させたりしている。雇った金額のことは出てこないが、相応の支払いはしたことだと思う。まあ、当時の山登りは、暇と金がなければ出来ないことで、大学の学生か由緒ある良家のご子息でなければ出来るはずもない行為だ。

 ただ、この山行は、極力ガイドには頼らず、自分たちだけでやろうとしていたのでそれなりの苦労があったようだ。そのため、荷物の重量を3貫目くらいに押さえないといけないとか、軽いテントを注文しなければいけないとか事前準備にだいぶ苦労したよう様子がうかがえる。しかし、3貫目とは、11,25㎏ほどだから意外に軽い。米は、一人3升(8日分)。1升が1,5㎏だからこれだけで4,5㎏となる。

 水や燃料は現地調達となる。他に食料として、ミソ、削りカツオ、ワカメ、奈良漬、氷砂糖、それにウイスキーを一瓶。「食物はこれだけときめた」と書いている。どうも、食事と云えば、ご飯に味噌汁。昼食にはおかずに奈良漬をたべていたようだ。途中で、「ダケワラビ」を採って食料にしているが、どんな植物だろう。

  松本から島々まで、馬車で行き、島々で1泊してからいよいよ歩き始めることになる。

               

大正2年8月2日 

 朝7時頃島々を出発して徳本峠を越え、夕刻火を灯す頃に上高地温泉に着く。この頃の上高地は、牧場だったらしい。前日の夜、焼岳が爆発したらしい。(梓川がせき止められた大爆発は、大正4年6月6日。それまで、小さな爆発があったらしい。)

 上高地で、画家の茨木猪之吉に出会っているから、上の絵は彼の作品だろう。後が木檜理太郎か?

  8月3日

 この日の計画が凄い。上高地を早朝に発ち、槍を越えて西鎌尾根の途中で泊まる予定なのだが・・・。彼も後で反省しているが、結局槍ヶ岳に登った後、槍の肩に荷物を置いて殺生ノ小屋に泊まっている。田部は、足を痛めていたらしくだいぶ苦しかったようだ。

 8月4日

 6時頃出発。西鎌尾根を双六の池まで。双六の池周辺は、当時では夢のような場所だったらしい。私は、双六へは何度か行ったがいつも残雪期なので雪に埋もれているらしいこの池には出会ったことがない。この日は時間的な余裕があっ。火をたき、ワカメの味噌汁で夕食。夜は少し寒かったらしく、ウイスキーをチビリチビリ。

8月5日

 この日も6時頃出発。双六岳から三俣蓮華を越えて黒部五郎まで行ったのはいいが、ここで霧にまかれ難渋する。やっとルートを見つけ、テントを張ったのは午後6時頃。この辺りは私も、思いで深い場所だ。立山からスキーを引っ張って歩くいわゆる日本オートルートの道筋にあたる。吹雪にあって遭難しそうになったことがある。ワンダリングの末くたびれ果ててしまい、やっと風陰の斜面に穴を掘り、テントをかぶって風が治まるのを待った。夕刻風も止み、ほうほうの体で太郎の小屋まで引き返した。今でも鮮明に覚えている。山でのイヤな体験の一つとなっている。

 8月6日

 この日のスタート地点がはっきりしないが、どうも中俣乗越あたりらしい。そして、赤木岳、北ノ俣岳を越えて太郎兵衛平を過ぎて薬師岳に登り、北薬師岳を越えた辺りにテントを張っている。

 8月7日

 夏とはいえ朝は寒い。昨日流れていた水も凍り飯を炊く水を集めるのに苦労している。「焚火をしながら、流れ跡の溜まり水を星明かりに探して飯の支度を終える」と記している。スゴ乗越しを過ぎ、越中沢岳に立てば五色ヶ原が見える。此処で、中村君と落ち合う。五色ヶ原に着いたのは2時前。荷物を置いてから辺りを散歩する。五色ヶ原はゆったりとした広がりを持つ高原の様な所だ。中村君は、人夫を雇い此処にテントを張って絵を描いていたらしい。田部一行は、このテントに泊まり、ダケ蕨の味噌汁を吸っている。ワカメがなくてもダケ蕨があればそれで代用できるとしているが、ダケ蕨とはどんな植物だろう。

 8月8日

 8時半頃にスタート。立山温泉まで。立山温泉とは、ザラ峠から下りて行くのだがその当時此処が登山の基地でもあったらしい。今はもうなくなっていると思うが・・・。彼らは、此処で宿泊まりで、剣岳への案内役に長治郎と春蔵というガイドを雇っている。食料などの荷物も担がせているだろう。

 8月9日~11日

 立山温泉を立ち、松尾峠に登って室堂に降りる。室堂は多くの人でいっぱいで、特に便所の設備が悪く、すさまじい風景が展開していたようだ。「周囲の汚らしさは言語に絶する」と嘆いて、テント場を別山の麓(今の雷鳥沢辺りか)に求めている。此処に3泊して、立山や浄土ヶ山などに遊び、最後の仕上げに剣岳に登る。剣岳へはあの長治郎雪渓からではなく、現在誰もが利用する嶺づたいのルートを登っている。岩登りの技術もかなり進み、色々な情報を知っていたようだが、彼らは長治郎に引きづリ上げられた様な格好だ。天気は下り坂。

 8月12日  

  雨の中、室堂乗越より早月川を下り馬場島へ。この日、命からがらで馬場島へたどり着く。よほど苦しかったことが伺える。残雪期、スキーで下れば何と言うことはない所なのだが・・・。馬場島から伊織村まで歩き有志宅で泊。

 8月13日

 雨は止んだようで、この日は滑川まで歩く。此処で解散となるが同行した長治郎と春蔵は上市へ、木暮君と中村君は東京へ、そして自分(田部重治)は富山行きの汽車に乗る。

 

                      1915年大正4年)6月6日 - 大爆発を起こし泥流が梓川をせき止め堰止湖である大正池を形成した[12

 

      


山書散策 (その1)

2015年07月02日 | 山の本紹介

 白内障の手術のためあまりバタバタ出来ず、山はせいぜい大山の山開きを見物に行った程度。最近やっと限られた程度ではあるが運動と飲酒もOKとなった。 そろそろ北海道へ行こうと思っているが、我が家に狭い狭い「ソバ打ち」空間を造ることを始めたため完成までもうしばらくかかりそうで出るに出れないような状況で困ったものです。大工さんも、あちこちかけ持ちの仕事があるらしく予定通りに進む見込みがないのはしょうがないとあきらめる。

 それで、暇つぶしに図書館から借りてきた本を読んでいたらおもしろくなり、関係した本を探し出して読んでいるこの頃です。まずはこの「山書散策」。山書という言葉は、あまり耳慣れないように思うが、知る人ぞ知るといったところ。河村正之著、東京新聞出版局です。この本、はじめは「さんか」と呼ばれた特異な人々の集団についてのことが記されている。そして、読み進むにつれて、山に関して出された様々な本・文献等(いわゆる山書)についての紹介となる。一般の人には手にはいらない古書とその大まかな紹介、歴史的な流れの中でそれらの書がどのような意味を持つのか等かなりしつこく書き進められていくのは興味深い。その中には、いわゆる「秘話」とでもいったようなもの、いまなお「タブー視」され続けていることなど改めて知る日本登山史の裏側を知ることも出来ます。

 著者が推薦する21冊の山書の中で、個人的に興味を持った本を図書館から借りたり、購入したきりいっぺんも開いたこともない我が蔵書を引っ張り出したりして読んでいます。図書館から借りてきた本は、若山牧水の「みなかみ紀行」。高畑練材の「行雲とともに」も同時に借りようとしたけどこの本は古い本なので県立図書館にはないとのことでした。

 若山牧水は、登山家ではないが、山野を放浪し、温泉に入り、酒を飲むことに生きがいを感じていたようで、そんな中から「詩(うた)」を読んだ人のようです。酒と旅を愛した漂白の詩人というイメージがぴったりする。

  代表的な詩です。

                                     山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

                                     幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

                                     白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

   うえにある2番目の詩が一番有名のようですが、東京の大学から九州の我が家に帰る途中、中国地方を歩いているときにつくったもの。22歳の時か?

  若くして有名になった人なので、ファンも多く、漂白といってもその土地土地を訪れると大変歓迎されたようです。この点は、啄木とはかなり違う。むしろ、松尾芭蕉の「奥の細道」に通じる所がある。

 「幾山河・・・」の旅の途中に泊まったとされる民家が、島根県の横田町から広島県の福山市に抜ける国道314号線沿いの近くにあったのを覚えている。

 彼の詩に、「空想と願望」というのがある。その一節を紹介します。

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  誰一人知人に会わないで  ふところの心配なしに、 東京中の街から街を歩き、うまいという物を飲み、且つ食って廻り度(た)い。

 遠く望む噴火山のかすかな煙のように、腹這って覗く噴火口の底のうなりの様に、そして、千年も万年も呼吸を続ける歌が詠み度い。

 咲き散り、咲き散る とりどりの花のすがたを、まばたきもせずに見ていたい。萌えては枯れ、枯れては落つる。落葉樹の葉のすがたも、また。

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 自分のうしろ姿が、いつでも見えているように 生き度い。

 窓といふ 窓をあけ放っても、蚊や 虫の 入ってこない、夏はないかなア。

 死火山、活火山、火山から 火山の、裾野から 裾野を、天幕を担いで、寝て歩きたい。

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 庭の畑の 野菜に、 どうか、虫よ、附かんで呉れ。

 麦酒が いつも、冷えていると、いい。

 

  彼は、肝硬変で死んだ。死んでも死臭がでず、アルコール漬けのせいではないかと医者が言ったとか・・・。