山の記憶 (百名山・二百名山・三百名山)

山スキー、その他の山行もあります。

線の記

2021年02月26日 | 山の本紹介

点の記は新田次郎。線の記は?

 隣のおじさんに借りました。剱岳に最初に登頂した人は誰か?。長年にわたって調べた結果分かったことの記録です。

剱岳を登る人は多い。岩の殿堂とも言われ山になれない人に取っては難所でしょう。点の記では、最初に登った人は、長治郎雪渓からのように書いているが、線の記では、早月尾根だ。

 どちらが正しいか、多分、線の記を読む限り早月尾根だろう。しかし、本当のことは分からないのではないかと思う。

これは、単なる想像ではなくて実際に剱に登った体験、感覚からそう思う。早月尾根は、かなり以前(平安時代頃)には山伏たちによって登られていたようだ。「点の記」も「線の記」も、現在の一般ルートから頂上を目指すコースを「無理だ」として除外している。本当に無理なのかは自分自身が登ってみなければ分からない。

              

 現在、剱沢を起点として多くの人が登っているこのコース。お盆休みなどには、お祭り騒ぎで難所では順番待ちも甚だしい。そのため、かなり以前から安全対策を兼ねて登攀ルートの整備がなされている。確かに、今では誰でも(?)登れるようになってきた。しかし、昔はどうか?本当に手も足も出ない岩壁だったのだろうか?

 全くの素人は別にして、いくらか山の岩をよじた経験のある者なら鎖や、ハーケンなどに頼らなくてもあのコースは登れると思う。それだけホールド、スタンスがあるからだ。

 自分の経験を少しお話しします。

 もうかなり以前、剱に最初に登った時のこと。一般ルートで剱沢に入り、いわゆる「カニのたてばい」までいきました。話には聞いていたけど、やはり登るのには順番待ちです。かなりの人数で混雑模様。しばらく眺めていたが、ふと左手斜面を見ると登れそうな岩壁があります。それで、ガレ場を少し詰めてその岩にとりつきました。後で思えば無謀な行為です。しかし、特に困難な箇所はなくていわゆる「カニの横ばい」のすぐ右手にたどり着きました。そこから頂上はすぐです。

 自分は、一応岩の経験はあるけどこの新ルート(?)はさほど困難なものではなかった。(今は登れるかどうか自信がない・・・ 

 言いたいことは、山伏と呼ばれる人たちは、様々な修練を重ねておられるようです。その中の修練に危険な岩壁を登ったりすることもあったと思う。危険な岸壁の洞に、仏様が安置されているのを見かけたことがあります。こんな危険な所に良くもまあ・・・。感心させられたことがありますが、山伏と呼ばれる人たちは危険な行為を(・・・修行)通して心身を鍛えていたようです。

 そんなことを思うと、剱の岩(カニのたてばい)など何でも無いのではなかろうかとつい思ったりします。

「線の記」はよく調べられた良書です。作者(筆者)の地道な検証の結果、古い時代には、山伏たちは早月尾根から剱の頂上を目指していたことが示されます。奈良・平安時代には、仏経の影響は大きくて、山伏と呼ばれる修験者たちにも影響を及ぼしていきます。仏経の法具・宝具、仏像などを、あの遙か彼方にそびえる頂上に置いてみたいと思うのは至極当たり前のことだったかもしれません。だた、その行為には絶えず「生と死」ギリギリの場が待っていたことでしょうが・・・。

 「点の記」は、作家により書かれた作品。作家とは、どうしても空想力を働かせて、面白く作り上げなければいけないという使命があります。「線の記」の作者は、作家ではあるけれど、歴史的な事実を調べ上げて実証的に物事を積み重ねていくタイプ。どちらも面白いです。 山に関心のある方は、是非一読を。 

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年末から年始の山とスキー(その4) かぐらスキー場

2016年01月12日 | 山の本紹介

 1月3日(日)

 谷川岳の登山は意外とあっさり終わった。有名な山だがこの季節に登ったのは始めて。島根県から近ければゆっくりと様々なルートから登る事も出来るのだが・・・。若い頃に、一の倉沢なども一本ぐらいは登っておきたかった。今では無理だろうから、せめて谷川連峰の縦走でもしたいものだ。

  例年、谷川の後は苗場かかぐらスキー場へ行くことにしているので、今年もそうすることにした。その前に、水上温泉に入る。水上は、温泉が有名で多くのホテルが建っている。一般用の日帰り入浴が出来る町の銭湯があるのでそこへ行くことにした。ホテルの風呂も良いのだが、少し気も引けるから。

 汗を流し、また関越自動車道に入る。谷川PA、土樽PAを過ぎれば湯沢。此処もなぜかホテルが乱立している。そして、必ず近くにスキー場がある。雪は何とかありそうだがお客さんはどうだろう。いらない心配をしながら湯沢ICを降り、かぐらスキー場へ。夕刻でも、駐車場は満杯状態。それでも、ポツポツと帰り支度の車もあり、空も目立ってきた。このスキー場で泊まるのも何度目だろう?

1月4日(月)

 ゆっくりとした朝を過ごしたので、リフト券を買いに行く頃は駐車場はほぼ満杯。シニア券は、今年は500円しか割引がない。逆に、19歳と20歳の若者は無料とあった。若者のスキー離れへの対策らしいがこれはしょうが無い。

 リフト券を求めてからロープウエイに乗ろうとしてびっくり仰天。見たこともないような長蛇の列が・・・。建物の向こうの行列に気づかなかった訳だが、こんなに長い列は今まで体験したこともない。最後尾まで行って並んだものの、一体どれくらい待たされるだろうかと優うっになった。都会の人は、並ぶことにはなれているらしい・・・。

  やっとロープウエイに乗り込み、かぐらスキー場へ着く。後は、リフトの乗り継ぎで(ここからは待ち時間も少ない)。スキー場の一番上まで行く。絶好のスキー日よりです。以前、ここから神楽ヶ峰を経て苗場山に登った。あのときも天気は良かったが、但し季節は春でした。

                       かぐらスキー場の一番上あたり

                     

 

                              

   下の写真は、2014年春にかぐらスキー場から苗場山に登った時のものです。

                          

 かぐらスキー場から、苗場スキー場までリフトやゴンドラでつながって大変滑りがいがあります。しかし、この日は途中まで行って引き返しました。明日の予定もあるので・・・。

 3時頃、駐車場に戻り明日の目的地妙高スキー場を目指します。一旦湯沢まで戻り、津南町から野沢温泉村を横に見て道の駅「千曲川」まで。この頃(この辺り)から空模様もおかしくなります。気温が高いせいか雪ならぬ小雨模様です。

                  

 翌4日、天気はあまり良くなくて、朝からもやのようなものがかかっています。それが逆に風景に味を出しています。

                       

                                        千曲川沿、河川敷も幻想的でした。

                    

 久しぶりに道の駅で朝食を済ませ、妙高スキー場に向かうことにしたが、途中から雨。売店の情報では、雪は無い(少ない?)とのこと。あきらめて、帰松とする。延々12時間ほど掛けて夜8時過ぎに我が家に帰りました。

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礼文島の観光ポスターなど

2015年08月18日 | 山の本紹介

       香深港のフェリーターミナルの中に素晴らしい写真が展示してありました。どれも実物より綺麗なので写真に撮りました。          

                           エゾノハクサンイチゲと夕暮れの利尻島

                       

                                  これが、レブンアツモリ

                  

                 レブンウスユキソウも実物より綺麗  ハヤチネウスユキソウとどうだろうか?

              

                      ゴロタ岬辺り(?)から見たスコトン岬 礼文島8時間コースのフィナーレ

             

              レブンソウ マメ化の花なので何処にもありそうですが、全体に薄い毛が生えているのが特徴

             

                ターミナルの中にあった食堂のメニュー。 スコトン岬では、ウニ丼は3,400円だった

                  

 スコトン岬の食堂のウニ丼は、取り立てのような新鮮なウニが使ってあった。眺めていたら、店員に勧められたけど、やめてコンブをすり込んだソフトクリームで我慢した。ターミナルの食堂では、ホッケ定食を食べた。サンマを大きくしたようなどでかい焼きホッケが出てきた。味は、少々水っぽくて大味です。周りを見たが、ウニ丼を食べている人はいなくてラーメンを食べていた。

 昔から言われているが、北海道の味は全体に大味。但し、新鮮で量も豊富。   

 

 

 

  

 

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礼文岳

2015年08月15日 | 山の本紹介

 礼文岳への登山口は、船泊から香深辺引き返した内路という小さな港・集落にある。朝から、久しぶりの晴天に恵まれる。テントをたたみ、ザックを背負って自転車で出発。海辺の道路沿いでは、昆布干し。家中の者総出で、忙しそう。

                            

                               

 

                            

                                      

    昆布漁を見ながら、内路の登山口まで行く。大きな看板と、東屋の様な休憩所がありそこに余分な荷物は置く。いよいよ礼文岳へ登る。

                             

 以前、礼文岳へ登った時はもう一つ別の登山口からだった。こちらからは初めて。最初から急な登りがあり、一息着いて後ろを見るとあおい海に内路港。炎天下の登山となって今日も暑い。日陰で休みながら登る。

 後で分かったことだが、ここがもう一つの登山道と交差する地点。写真左手の藪の中に道らしきものが見えた。しかし、今は廃道になっているらしい。

                  

                間もなく眺望も開けて来る。                             頂上は近い

           

 以前ビバークしたのはどこら辺だろうか。夜、漁り火が見えた。この道のどこかだが・・・。

                                   やれやれで到着 490mの山頂

             

 全島ぐるりと見渡せる。天気は良いが少し暑い。贅沢かもしれないが・・・。今日はまだ誰も登っていないので気分がいい。

                                    久種湖と船泊が見える

               

                                   あれに見えるは、ゴロタ岬

            

 写真を撮って下山。登り2時間ちょっと、下り1時間程か。

                                    内路の港にはカモメが群れて

                 

 この後、香深井の緑が丘キャンプ場へ行きテントを張る。風呂(フェリーーターミナルの横)とお店は少し離れた所にあるが、キャンプ場はこじんまりとしていて感じがいい。

                     黄色いテントは、先に来ておられた青木さんのテント。その隣は荷物用のテント。左に炊事場。奥はトイレ。

                                 

  先着しておられた青木さんという方に礼文島のことを色々聞く。この方は、毎年礼文島に来られていて、いつも此処で数週間過ごされるそうです。自転車はレンタルで、風呂は近くの体育館のシャワー(無料)を使うとのこと。島のことを本当によく知っておられた。驚いたのことは、荷物は郵送しておられること。そんなことが出来るとは知らなかった。帰りももちろん郵送で。スキーの板など宿に郵送はするが、キャンプ道具をキャンプ場へ郵送出来るとは知らなかった。 三重県の方で、汽車で来ると3日くらいかかるそうです。

 

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山書散策(その5)

2015年07月17日 | 山の本紹介

 

山書散策の著者の推す本で、比較的近い年に出版された本を紹介します。

   昭和55年    「 栄光の反逆者 」 小西政継の世界           本田靖著     山と渓谷社

   昭和55年    「 狼は帰らず 」   アルピニスト森田勝の生と死    佐瀬稔著    山と渓谷社

 小西政継は、国内はもとより、国外でも名の知られた登山家であり、かっては日本を代表したアルピニスト。彼の栄光の足跡は、我が国の山岳史上永遠に残るものだろう。

 一方、森田勝は不可能と思われていた滝谷第3スラブの登攀で名をあげ、その後、ヨーロッパアルプス、ヒマラヤなどの登攀で有名。特に、RCCⅡによるK2隊に加わるも、第一次アタック隊に選ばれなかったことを不服としてサッサと下山したという出来事は、彼という人間を一層世間に知らしめることになった。

 著者はなぜこの2冊を特に選んだのかその理由はよくわからないが、既成の山岳団体やらその権威に反発して頭角を現した二人の生き様に共感を覚えたのだろうか。小西政継は、登攀の記録を本として多く出版しているので、そちらを読んだ方がおもしろいという意見もある。

 小西政継は、昭和13年11月19日生まれ、森田勝は、昭和12年12月19日生まれだから森田の方が1年ほど年長になる。ほとんど同じ年齢だから、どこかの山で出会っているのかとおもって調べてみたが、どうもよくわからない。ただ、森田は昭和45年1月頃、冬のアイガー北壁登攀の時、同じく北壁の直登を狙う山岳同志会の遠藤二郎等と出会っているがこの時には小西はいない。

 森田勝は、昭和55年2月、グランドジョラスにおいて逝く。43歳である。小西政継は、平成8年マナスル登頂後消息不明。57歳であった。

 明治から大正、さらに昭和にかけて山と云えばほぼ日本山岳会の独壇場ともいえるが、昭和のいつの頃からか、社会人山岳会の活動が活発になる。金もあり暇もある(?)大学山岳部を母体とした日本山岳会に対してあからさまな対抗意識はなかったものの、満たされない何かをを山にかける情熱は、すさまじいものがあったようだ。

 その対象となった山・岩場が谷川岳一の倉沢。東京から近いと云うこともあり、当時大変な賑わいを見せている。小西も森田もこの岩場で山の洗礼を受け、アルプスへヒマラヤへと飛び立ち青春という人生の盛りを山に賭け、そして、山に逝った。この強烈な個性とエネルギーを持った二人は、お互いの名前ぐらいは知っていただろうにと思うのだが、それぞれの本の中には一切出てこない。この辺りが気になり、色々と調べるのだがやはり接点はないようだ。

 小西は、山岳同志会を抜けてから川村晴一等と小さな会社を興している。川村晴一は、我が島根県隠岐郡の出身。小西たちと、ジャヌー、カンチェンジュンガ、チョゴリ、エベレストと頂上を極め、山岳同志会をになうホープだった人物だ。小西たちと立ち上げた「クリエーター9000」という会社のある部門を任されていたのだが、うまくいかなくなり小西に何か言われたようだ。何がどうなったのか定かではないがこれを境に、山から離れていく。岳人備忘録(東京新聞社)に彼の話が載っている。

 この2冊の本を読んで、 「 なぜそこまでやるの?」 といった素直な思いが残る。川村晴一は、岳人備忘録のなかで

次のように言っている。

 「・・・・・。このあいだ、いったい何人山で死んだのか指折り数えてみたら、両手では足りなくて両手が2回でも足りない。自分のまわりをみても、あの人もいない、この人もいない。もうほんとにいませんのでね。・・・。」

 二匹のオオカミの遠吠えが聞こえてきそうです。

 

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山書散策(その4)

2015年07月11日 | 山の本紹介

 山書散策には紹介されているが、20+1には推されていないもので気になる本がある。日本の山登りの興隆に大いに寄与したとされるウエストンの「日本アルプス」と志賀重昂の「日本風景論」。2冊とも我が家にあるのだが、ウエストンの方は英語なので宝の持ち腐れとなっている。一方、志賀の方は、漢文・漢文調なのでいくらかは理解できる。                        

                        

 なぜこの本がそれだけ大きな影響を与えたのか不思議に思っていたので、読める範囲で読んでみた。今読んでも意外とおもしろいことがわかった。自然科学的な見地から、我が国土の美しさ、素晴らしさを述べ、その基となるのは山であるということを彼独特の視点から論じている。

 日本という国の特徴を、いくつかの観点から述べ、他国にはない素晴らしさを鼓舞する。かれは、外遊を通して他国には見られない日本の美を再発見したようだ。

 気候、海流の多変多様なる事。

 水蒸気の多量なる事。

 火山岩の多々なる事。

 流水の浸食激烈なる事。

 等々。それに、折々に古人の詠んだ詩がはいる。

 そして、この本の中核となるのが「登山の気風を興作すべし」の部分。

 山、山、その平面世界より超絶する所多々。

 (一)  山は台地の彩色をジュンカン(漢字が見当たらないのでカタカナで)す。

 (二) 雲の美、奇、大は山を得て映発す。 

 (三) 水の美、奇は山を得て大造す。

 (四) 山中の花木は豪健磊落なり 

 登山の気風興作すべし

  況んや山に登るいよいよ高ければ、いよいよ困難に、益々登れば、益々危険に、いよいよ益々万象の変化に遭遇して、いよいよ益々快楽の度合いを加倍す。これを要するに山は自然界の最も興味ある者、最も豪健なる者、最も高潔なる者、最も神聖なる者、登山の気風興作せざるべからず、大いに興作せざるべからず。

 さらに、登山の準備としていくつかの注意点が述べられる。

 草鞋、長靴、靴足袋等々。

 長靴の箇所には、「靴の革を種油又は獣脂にて塗るか、もしくは生卵を割りて靴の中に投じこうして後穿てば足痛すること少なし」とあり、

 靴足袋には、足の痛みを防ぐ方法として、石けんを塗ると良いとか、左右の足袋をはきかえればよいとか、裏返しにしてはくとよいとかいろいろとある。

 食に関しては、「米は大一人一日6合」としているのは興味深い。ペミカンの作り方もある。「その他味噌、塩、漬け物(梅干しを最便とす)缶詰は甚だ切要なりとす」とある。

 ほんの一部分の紹介です。興味ある人は、本屋へ。現代語訳で出版されているようです。この本が出版された年、日本は日清戦争に入った。思うに、当時の様々な世相を反映してのベストセラーだろう。

          本の裏にある貝原 益軒の言葉。     

          

  

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山書散策(その3)

2015年07月07日 | 山の本紹介

 山書散策ベスト20+1に出て来る本で、我が家にあったのは、田部重治の関係本とあと2冊だけ。「狼は帰らず」と「栄光の反逆者」。この本の主人公は、そう古い人ではないから珍しくはないかもしれない。それぞれ強烈な個性を持つ人物だが、どちらも山で逝っている。森田勝とは、ヨーロッパアルプスで出会ったことがある。小西政継については本でしか知らない。

 ただ、なぜこの2冊が選ばれているのか疑問に思う。まあ、人それぞれの個性というか趣味というか、あるいは生きてきた人生や物の見方など異なるから、なにを選ぼうがどうでも良いことかもしれない。ただ、限りなく多くの本を集め、読んだ人の推すものなのだからそれなりの重さはあるだろうか。

 以下に、その20+1を紹介します。皆さん、どうですか・?

  

山書散策 河村正之  東京新聞出版局   2001年3月23日 第1刷発行  山書 ベスト20+1


   日本百名谷  関根幸次ほか編集  1983年 白山書房

   新編・山と渓谷 田部重治 1993年 岩波文庫

   山に忘れたパイプ 藤島敏男 1970年  めい?(草かんむりに名)渓堂

      狼は帰らず 佐瀬 稔 1980年 山と渓谷社

   栄光の反逆者 本田靖春 1980年 山と渓谷社

   失われた記録 立田實の生涯 1986年 遠藤甲太 いなほ書房

   私の山谷川岳 杉本光作 1981年 中央公論社

   会心の山 佐伯邦夫 1982年 中央公論社

   我が南会津 佐藤勉  1985年 現代旅行研究所

   見果てぬ山へ   森下道夫遺稿集 1984年 わらじの仲間 西明登高会

   八〇〇〇米の上と下 ヘルマン・ブール 1963年 朋文堂

   渓 16~18 浦和浪漫山岳会の会報

   行雲とともに 高畑練材 1934年 朋文堂

   みなかみ紀行 若山牧水 1993年 中公文庫

   霧の山稜 加藤泰三 1941年 朋文堂

   山の声  辻まこと 1971年 東京新聞出版社

   山と書物 正・続 小林義正 1981年 築地書館新装復刻版

   遠野物語 山の人生 柳田国男 1976年 岩波文庫

   山びとの記 宇江敏勝 1980年 中公新書

   フォールナンバー 1978~86年 白山書房 沢登り専門書

   日本登山体系 前10巻 柏瀬裕之ほか編 1980~82年 白水社  

 いくつかは是非読んでみたいと思うものの、県立図書館は図書の整理(?)でしばらく休館。仕方がないので、「狼は帰らず」と「栄光の反逆者」をもう一度読んでみます。

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山書散策(その2) 

2015年07月05日 | 山の本紹介

 田部重治の「日本アルプスと秩父巡礼」は、復刻本が我が家にあったので引っ張り出して読む。山書の著者の推すのは、「新編・山と渓谷 1933年 岩波文庫」だが、中身的にはほぼ同じようなものだろう。ただ、この田部重治の「山と渓谷」は、我々が今も毎月書店で目にするあの「山と渓谷」、いわゆるヤマケイの雑誌名となったという経緯はあるが。

 この本は、田部重治の山行記録だが、当時の様子(明治の終わり頃から大正にかけて)がよくわかるし、文章も読みやすくて大変におもしろい。装備や食料など、今の我々のそれと比べようもないが、米やミソを担ぎ、食事は水を汲くみ薪を集めて火をおこし飯を炊く。これを朝、昼、晩と日に3度繰り返す。こんなスタイルが、当時の山行の一般的だったようである。

 この本の中に、「槍ヶ岳から日本海まで」というのがあるのでそのたどったコースと所要時間などわかる範囲でざっと紹介する。彼(ら)のたどったコースは、現在でも歩かれているが、きちんとした登山道が整備されているはずもない当時としては大変な難行だったことだろう。

 当時の大きな山行・難しそうな山行には、大体ガイドに雇っている。長治郎とか源治郎とかの名前が出て来るのはそのためで、彼らに案内をさせ、必要に応じて荷物や食料を準備させたり、運搬させたりしている。雇った金額のことは出てこないが、相応の支払いはしたことだと思う。まあ、当時の山登りは、暇と金がなければ出来ないことで、大学の学生か由緒ある良家のご子息でなければ出来るはずもない行為だ。

 ただ、この山行は、極力ガイドには頼らず、自分たちだけでやろうとしていたのでそれなりの苦労があったようだ。そのため、荷物の重量を3貫目くらいに押さえないといけないとか、軽いテントを注文しなければいけないとか事前準備にだいぶ苦労したよう様子がうかがえる。しかし、3貫目とは、11,25㎏ほどだから意外に軽い。米は、一人3升(8日分)。1升が1,5㎏だからこれだけで4,5㎏となる。

 水や燃料は現地調達となる。他に食料として、ミソ、削りカツオ、ワカメ、奈良漬、氷砂糖、それにウイスキーを一瓶。「食物はこれだけときめた」と書いている。どうも、食事と云えば、ご飯に味噌汁。昼食にはおかずに奈良漬をたべていたようだ。途中で、「ダケワラビ」を採って食料にしているが、どんな植物だろう。

  松本から島々まで、馬車で行き、島々で1泊してからいよいよ歩き始めることになる。

               

大正2年8月2日 

 朝7時頃島々を出発して徳本峠を越え、夕刻火を灯す頃に上高地温泉に着く。この頃の上高地は、牧場だったらしい。前日の夜、焼岳が爆発したらしい。(梓川がせき止められた大爆発は、大正4年6月6日。それまで、小さな爆発があったらしい。)

 上高地で、画家の茨木猪之吉に出会っているから、上の絵は彼の作品だろう。後が木檜理太郎か?

  8月3日

 この日の計画が凄い。上高地を早朝に発ち、槍を越えて西鎌尾根の途中で泊まる予定なのだが・・・。彼も後で反省しているが、結局槍ヶ岳に登った後、槍の肩に荷物を置いて殺生ノ小屋に泊まっている。田部は、足を痛めていたらしくだいぶ苦しかったようだ。

 8月4日

 6時頃出発。西鎌尾根を双六の池まで。双六の池周辺は、当時では夢のような場所だったらしい。私は、双六へは何度か行ったがいつも残雪期なので雪に埋もれているらしいこの池には出会ったことがない。この日は時間的な余裕があっ。火をたき、ワカメの味噌汁で夕食。夜は少し寒かったらしく、ウイスキーをチビリチビリ。

8月5日

 この日も6時頃出発。双六岳から三俣蓮華を越えて黒部五郎まで行ったのはいいが、ここで霧にまかれ難渋する。やっとルートを見つけ、テントを張ったのは午後6時頃。この辺りは私も、思いで深い場所だ。立山からスキーを引っ張って歩くいわゆる日本オートルートの道筋にあたる。吹雪にあって遭難しそうになったことがある。ワンダリングの末くたびれ果ててしまい、やっと風陰の斜面に穴を掘り、テントをかぶって風が治まるのを待った。夕刻風も止み、ほうほうの体で太郎の小屋まで引き返した。今でも鮮明に覚えている。山でのイヤな体験の一つとなっている。

 8月6日

 この日のスタート地点がはっきりしないが、どうも中俣乗越あたりらしい。そして、赤木岳、北ノ俣岳を越えて太郎兵衛平を過ぎて薬師岳に登り、北薬師岳を越えた辺りにテントを張っている。

 8月7日

 夏とはいえ朝は寒い。昨日流れていた水も凍り飯を炊く水を集めるのに苦労している。「焚火をしながら、流れ跡の溜まり水を星明かりに探して飯の支度を終える」と記している。スゴ乗越しを過ぎ、越中沢岳に立てば五色ヶ原が見える。此処で、中村君と落ち合う。五色ヶ原に着いたのは2時前。荷物を置いてから辺りを散歩する。五色ヶ原はゆったりとした広がりを持つ高原の様な所だ。中村君は、人夫を雇い此処にテントを張って絵を描いていたらしい。田部一行は、このテントに泊まり、ダケ蕨の味噌汁を吸っている。ワカメがなくてもダケ蕨があればそれで代用できるとしているが、ダケ蕨とはどんな植物だろう。

 8月8日

 8時半頃にスタート。立山温泉まで。立山温泉とは、ザラ峠から下りて行くのだがその当時此処が登山の基地でもあったらしい。今はもうなくなっていると思うが・・・。彼らは、此処で宿泊まりで、剣岳への案内役に長治郎と春蔵というガイドを雇っている。食料などの荷物も担がせているだろう。

 8月9日~11日

 立山温泉を立ち、松尾峠に登って室堂に降りる。室堂は多くの人でいっぱいで、特に便所の設備が悪く、すさまじい風景が展開していたようだ。「周囲の汚らしさは言語に絶する」と嘆いて、テント場を別山の麓(今の雷鳥沢辺りか)に求めている。此処に3泊して、立山や浄土ヶ山などに遊び、最後の仕上げに剣岳に登る。剣岳へはあの長治郎雪渓からではなく、現在誰もが利用する嶺づたいのルートを登っている。岩登りの技術もかなり進み、色々な情報を知っていたようだが、彼らは長治郎に引きづリ上げられた様な格好だ。天気は下り坂。

 8月12日  

  雨の中、室堂乗越より早月川を下り馬場島へ。この日、命からがらで馬場島へたどり着く。よほど苦しかったことが伺える。残雪期、スキーで下れば何と言うことはない所なのだが・・・。馬場島から伊織村まで歩き有志宅で泊。

 8月13日

 雨は止んだようで、この日は滑川まで歩く。此処で解散となるが同行した長治郎と春蔵は上市へ、木暮君と中村君は東京へ、そして自分(田部重治)は富山行きの汽車に乗る。

 

                      1915年大正4年)6月6日 - 大爆発を起こし泥流が梓川をせき止め堰止湖である大正池を形成した[12

 

      

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山書散策 (その1)

2015年07月02日 | 山の本紹介

 白内障の手術のためあまりバタバタ出来ず、山はせいぜい大山の山開きを見物に行った程度。最近やっと限られた程度ではあるが運動と飲酒もOKとなった。 そろそろ北海道へ行こうと思っているが、我が家に狭い狭い「ソバ打ち」空間を造ることを始めたため完成までもうしばらくかかりそうで出るに出れないような状況で困ったものです。大工さんも、あちこちかけ持ちの仕事があるらしく予定通りに進む見込みがないのはしょうがないとあきらめる。

 それで、暇つぶしに図書館から借りてきた本を読んでいたらおもしろくなり、関係した本を探し出して読んでいるこの頃です。まずはこの「山書散策」。山書という言葉は、あまり耳慣れないように思うが、知る人ぞ知るといったところ。河村正之著、東京新聞出版局です。この本、はじめは「さんか」と呼ばれた特異な人々の集団についてのことが記されている。そして、読み進むにつれて、山に関して出された様々な本・文献等(いわゆる山書)についての紹介となる。一般の人には手にはいらない古書とその大まかな紹介、歴史的な流れの中でそれらの書がどのような意味を持つのか等かなりしつこく書き進められていくのは興味深い。その中には、いわゆる「秘話」とでもいったようなもの、いまなお「タブー視」され続けていることなど改めて知る日本登山史の裏側を知ることも出来ます。

 著者が推薦する21冊の山書の中で、個人的に興味を持った本を図書館から借りたり、購入したきりいっぺんも開いたこともない我が蔵書を引っ張り出したりして読んでいます。図書館から借りてきた本は、若山牧水の「みなかみ紀行」。高畑練材の「行雲とともに」も同時に借りようとしたけどこの本は古い本なので県立図書館にはないとのことでした。

 若山牧水は、登山家ではないが、山野を放浪し、温泉に入り、酒を飲むことに生きがいを感じていたようで、そんな中から「詩(うた)」を読んだ人のようです。酒と旅を愛した漂白の詩人というイメージがぴったりする。

  代表的な詩です。

                                     山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

                                     幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

                                     白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

   うえにある2番目の詩が一番有名のようですが、東京の大学から九州の我が家に帰る途中、中国地方を歩いているときにつくったもの。22歳の時か?

  若くして有名になった人なので、ファンも多く、漂白といってもその土地土地を訪れると大変歓迎されたようです。この点は、啄木とはかなり違う。むしろ、松尾芭蕉の「奥の細道」に通じる所がある。

 「幾山河・・・」の旅の途中に泊まったとされる民家が、島根県の横田町から広島県の福山市に抜ける国道314号線沿いの近くにあったのを覚えている。

 彼の詩に、「空想と願望」というのがある。その一節を紹介します。

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  誰一人知人に会わないで  ふところの心配なしに、 東京中の街から街を歩き、うまいという物を飲み、且つ食って廻り度(た)い。

 遠く望む噴火山のかすかな煙のように、腹這って覗く噴火口の底のうなりの様に、そして、千年も万年も呼吸を続ける歌が詠み度い。

 咲き散り、咲き散る とりどりの花のすがたを、まばたきもせずに見ていたい。萌えては枯れ、枯れては落つる。落葉樹の葉のすがたも、また。

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 自分のうしろ姿が、いつでも見えているように 生き度い。

 窓といふ 窓をあけ放っても、蚊や 虫の 入ってこない、夏はないかなア。

 死火山、活火山、火山から 火山の、裾野から 裾野を、天幕を担いで、寝て歩きたい。

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 庭の畑の 野菜に、 どうか、虫よ、附かんで呉れ。

 麦酒が いつも、冷えていると、いい。

 

  彼は、肝硬変で死んだ。死んでも死臭がでず、アルコール漬けのせいではないかと医者が言ったとか・・・。

 

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