いつの日だったか、高倉健さんの訃報を聞いて、TSUTAYAに行った。するとすでにお店の一角の目立つ場所に高倉健コーナーが設けられていた。そして出演作のDVDがズラ~ッと並べられていたが、ほとんど借り出されていた日が何日も続いていた。その中の一つに山田洋次監督「幸福の黄色いハンカチ」がある。
今日の行き先はその撮影地・夕張に行くことにする。次男の家から車で約1時間の行程。
幸福のシンボルカラーは、9月の風にはためいていた。
この車に武田鉄也さんと桃井かおりさんが乗ってそして出所直後の高倉健さんを乗せる、のが筋書きであったと思う。
監督が伝えたかったことは、このことであったろう。
3.11ですべて流された仙台市若林区荒浜の忠魂碑傍に数箇所、黄色いハンカチが今日と同じように風に揺れていたことを思い出す。
札幌市から夕張市へと抜ける途中の栗山町、そこに流れる川が
ヤリキレナイはアイヌ語だと説明書きにある。
特に夕張市からの帰り道であったから、なおさらだったのかもしれない。「平家物語」ではないが、おごれる者久しからずや・・・。かつて(1892年・明治25年)北海道炭鉱鉄道会社夕張採炭所として生産を開始した。厚い炭層、緩やかな傾斜、優良な原料炭など採掘条件が有利であることを背景に昭和に入り、西の三池炭鉱、東の夕張炭鉱として隆盛を極めていたが、諸条件の悪化により昭和52年に閉山した。(以上資料による)かつてのヤマで働く人の多かった時に比べると、今の夕張は栄枯盛衰を思わざるを得ない。
メタセコイヤの堆積した化石が、博物館の前にある。
「五千万年にわたる自然の営みの上に、百年に及ぶ石炭生産の痕跡があり、わずか三十年で終わった観光開発の結末がある。」(そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト2015)の資料より。夕張市は19年に財政再建団体に指定された。炭鉱から観光へとシフトする予定がそれすら頓挫することになった。炭鉱の記憶が破却されたうえにレジャーランド施設も開発を途中で止めた。石炭の歴史が残る残骸とその上を覆いかぶせるようにして建設した娯楽施設も残骸となっている。夕張駅から見える街筋は、ゴーストタウンのようであり、大きなホテルの背後にみえるスキー場だけが威容な姿を誇っている。この街は、つい、この間まで炭鉱で就労する人たちで賑わい汗が飛び散っていたんだろうと・・想像をする。
現代の人たち、また未来の人たちは、過去に寄り添って生きて行かなければならないのだろうか・・・と思いながらのヤリキレナイ川に道3号線が続く。
終着駅の夕張駅
駅には異様な景色として映るホテルマウントレースイがたつ。そしてやっぱりここでは
でしょうね。
でも途中で北海道88ヶ所のお寺の隣に「坂本九思い出記念館」を見つけた。ハテな?
この施設は、障害者が就労する施設である。
知らなかった。今日初めて知ったのは、坂本九さんは障害児に対して各地で寄り添い支援をしておられた方だとはじめて知った。歌い手坂本九、日航墜落で亡くなった坂本九、くらいの知識しかなかったけれど、見えないところで障害者に対してサポートしていられた方であったことに自分は恥じた。こころねの優しい人であったことが館内の展示物で理解できた。
今日の行き先はその撮影地・夕張に行くことにする。次男の家から車で約1時間の行程。
幸福のシンボルカラーは、9月の風にはためいていた。
この車に武田鉄也さんと桃井かおりさんが乗ってそして出所直後の高倉健さんを乗せる、のが筋書きであったと思う。
監督が伝えたかったことは、このことであったろう。
3.11ですべて流された仙台市若林区荒浜の忠魂碑傍に数箇所、黄色いハンカチが今日と同じように風に揺れていたことを思い出す。
札幌市から夕張市へと抜ける途中の栗山町、そこに流れる川が
ヤリキレナイはアイヌ語だと説明書きにある。
特に夕張市からの帰り道であったから、なおさらだったのかもしれない。「平家物語」ではないが、おごれる者久しからずや・・・。かつて(1892年・明治25年)北海道炭鉱鉄道会社夕張採炭所として生産を開始した。厚い炭層、緩やかな傾斜、優良な原料炭など採掘条件が有利であることを背景に昭和に入り、西の三池炭鉱、東の夕張炭鉱として隆盛を極めていたが、諸条件の悪化により昭和52年に閉山した。(以上資料による)かつてのヤマで働く人の多かった時に比べると、今の夕張は栄枯盛衰を思わざるを得ない。
メタセコイヤの堆積した化石が、博物館の前にある。
「五千万年にわたる自然の営みの上に、百年に及ぶ石炭生産の痕跡があり、わずか三十年で終わった観光開発の結末がある。」(そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト2015)の資料より。夕張市は19年に財政再建団体に指定された。炭鉱から観光へとシフトする予定がそれすら頓挫することになった。炭鉱の記憶が破却されたうえにレジャーランド施設も開発を途中で止めた。石炭の歴史が残る残骸とその上を覆いかぶせるようにして建設した娯楽施設も残骸となっている。夕張駅から見える街筋は、ゴーストタウンのようであり、大きなホテルの背後にみえるスキー場だけが威容な姿を誇っている。この街は、つい、この間まで炭鉱で就労する人たちで賑わい汗が飛び散っていたんだろうと・・想像をする。
現代の人たち、また未来の人たちは、過去に寄り添って生きて行かなければならないのだろうか・・・と思いながらのヤリキレナイ川に道3号線が続く。
終着駅の夕張駅
駅には異様な景色として映るホテルマウントレースイがたつ。そしてやっぱりここでは
でしょうね。
でも途中で北海道88ヶ所のお寺の隣に「坂本九思い出記念館」を見つけた。ハテな?
この施設は、障害者が就労する施設である。
知らなかった。今日初めて知ったのは、坂本九さんは障害児に対して各地で寄り添い支援をしておられた方だとはじめて知った。歌い手坂本九、日航墜落で亡くなった坂本九、くらいの知識しかなかったけれど、見えないところで障害者に対してサポートしていられた方であったことに自分は恥じた。こころねの優しい人であったことが館内の展示物で理解できた。
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