暘州通信

日本の山車

35000 勾玉

2008年07月05日 | 日本の山車
35000 勾玉
勾玉(まがたま)は「曲玉」とも書かれ、古代の装身具のひとつで、起源は縄文時代初期までさかのぼり、その歴史は三千年を超え、耳飾、首飾りなどとして用いられたと考えられている。
形状は丸い部分に尾状部がつく。
材質は、翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)、水晶、滑石、土器製もある。
近年までわが国には翡翠の産出記録がなかったため、翡翠は渡来したものと考えられた時期があったが、北陸の姫川の支流である小滝川の流域で原石が見つかり、新潟で発見された翡翠の勾玉は小滝川の産出と比定された。ただ古墳出土の勾玉には色は同じように見えても翡翠(硬玉)に対し翡翠ではない軟玉のものが混じる。
姫川、親不知、宮崎海岸にはまれに翡翠が見つかっており、以前富山市内で、おばあさんの形見というおおきな翡翠原石の指輪をしている娘さんを見かけたことがある。
勾玉の使用目的は疑問とされ、諸説があるが、筆者は次のように推定している。
人間はその所有権をひろげてゆく本能があり、領土権はそのなかでも最たるものといえると考える。領土を広げる覇権の争いは終わりなきものであり、領土拡大は大きな争いとなるが、古代においてある部族が他の部族の領土を武力で侵奪したとき、相手の族長の犬歯を抜いて穴を穿ち首にかけて示威の象徴とした。多くの部族を従えた首長は多くの勾玉を首にかけることになった。
神社の社紋は右三ツ巴であるが、勾玉三個を組み合わせた形である。逸脱するが、神社の社紋を左三ツ巴とする例が多く見られ、ときに両方混在する例も多く見かける。


02397 天津司の舞

2008年07月05日 | 日本の山車
02397 天津司の舞
山梨県甲府市小瀬町
天津司神社
山梨県甲府市下鍛冶屋町
鈴宮諏訪神社
□祭は四月上旬。
お船で人形がによる天津司の舞が行われる。
□汎論
天津司神社と鈴宮諏訪神社にかかる神事。「オテヅシさん、デッツクさん」と呼んでいる。お天津司さん、お木偶さんの意である。
天津司社に安置された等身大の依代である九体の人形は、面を赤布で覆い、世話人の方らにより天津司神社から下鍛冶屋町の鈴宮諏訪神社につづく「お成り道」を神幸し、境内の御船とよぶ幕内にはいると赤面布をはずし、太鼓、鼓、ササラどにより田楽舞を行う。
人形は藝装束に袴、赤い打ち掛けに身をつつむお姫様、明るい雰囲気の鬼などである。
天津司神社の社記によると、小瀬一帯は古くは湖沼地帯だったころ、十二体の天津神が天から降り舞をして遊んでいたが、そのうちの二神は天に帰り、一神は亡くなった。あとの九神の像を造って小瀬村の諏訪神社に祀ったのがはじまりだという。
田楽舞いを人形に演じさせる民俗は珍しく、重要無形民俗文化財の指定を受けている。
『甲斐国志』によると、旧暦七月十九日に、小瀬村の十七戸によって行われていたとある。現在は四月上旬に天津司の舞保存会によって行われている。
天津司神社の社紋は九耀星でるが、この九神をあらわすという。
舞が終わると人形は天津司神社に還御となる。諏訪神社のお船は白い幕による幕囲いであるが、長野県穂高神社、松本市の和田神社などで見られる御船を意識したもので、天津司の舞とよぶ田楽は諏訪神社に奉納される。人形の面を覆うのは富山県高岡市の御車山祭でもみられる。