暘州通信

日本の山車

38226 弁韓

2008年07月06日 | 日本の山車
38226 弁韓
弁韓 (べんかん)は、朝鮮半島南部にあった「三韓」のひとつである、弁韓(べんかん)が存在したのは、紀元前二世紀から四世紀ごろとされ、およそ六百年位の歴史があるとされる。その存在した時期は馬韓とほぼ重なり、馬韓とは複雑な国境線が引かれていた。十二国に分かれていた。後に成立する「任那(みまな)」と地域がほぼ重なる。





38225 馬韓

2008年07月06日 | 日本の山車
38225 馬韓
朝鮮半島南部にあった「三韓」のひとつである、馬韓(ばかん)が存在したのは、紀元前二世紀から四世紀ごろとされ、およそ六百年位の歴史がある。
、五十余国(州)にわかれ、各部族には首長がいて、臣智(しんち)、次席に邑借(ゆうしゃく)と呼ぶ職階があったことが知られている。のちに成立した百済は馬韓にあった伯済国が発展したとの説がある。

32887 古代の道

2008年07月06日 | 日本の山車
32887 古代の道
意識、無意識を問わずにいえば、人間の行動心理は、東から西へ、北から南への移動が多く見られる。
日本の古代の道を推理すると、大まかに次のようになろうか。
一、樺太方面から北海道を経て東北、関東、北陸と南下する。東流日(つがる)。
例として樺太を経て南下したアイヌ民族。
二、大陸から能登半島を経て南下する。
例として渤海、北欧系、モンゴロイド。
三、朝鮮半島から九州、山陰、若狭へと南下する。
例として、高麗、百済、新羅、任那など朝鮮系の民族。魏志倭人伝にみられる中国漢代の道。
四、東南アジア、中国、沖縄、奄美大島を経て九州南部、九州北部へと北上する。
例として、秋田県の民俗行事である「なまはげ」は沖縄の「来訪人」に通じるものがあるという。また北海道の縄文遺跡から、沖縄方面に生息する貝を細工した工芸品が出土している。

36144 弥生時代

2008年07月06日 | 日本の山車
36144 弥生時代
弥生時代を大きく位置づけるのは稲作である。狩猟等による採集生活様式が、農産物の収穫による生活様式に変貌していった、それはまた縄文時代の終焉でもある。
異論もあろうが、縄文時代をきづいた縄文人と、稲作をはじめた弥生人はあきらかに異民族である。しかし、縄文人を駆逐しそのあとに弥生文化をきづいたのかといえば疑問が残る。縄文時代末期には弥生文化を受け入れ土地に定着する生活をはじめ、弥生人たちと同化していった痕跡がわずかながらみとめられる。
つまり、縄文遺跡と弥生遺跡が複合するところでは馴化していった過程と遺物が認められる。
弥生時代はおおむね紀元前十世紀から三世紀ころまで約千三百年、すこし幅をひろげれば千五百年くらいつづいたと推定されるが、各地から発掘される遺物をみると、二千年をこえるのではないだろうか。
そしてこの時代は、日本語がほぼ定着した時代だったと推定する。
ここで考えなければならないのは「古代の道」であろう。


35000 勾玉

2008年07月05日 | 日本の山車
35000 勾玉
勾玉(まがたま)は「曲玉」とも書かれ、古代の装身具のひとつで、起源は縄文時代初期までさかのぼり、その歴史は三千年を超え、耳飾、首飾りなどとして用いられたと考えられている。
形状は丸い部分に尾状部がつく。
材質は、翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)、水晶、滑石、土器製もある。
近年までわが国には翡翠の産出記録がなかったため、翡翠は渡来したものと考えられた時期があったが、北陸の姫川の支流である小滝川の流域で原石が見つかり、新潟で発見された翡翠の勾玉は小滝川の産出と比定された。ただ古墳出土の勾玉には色は同じように見えても翡翠(硬玉)に対し翡翠ではない軟玉のものが混じる。
姫川、親不知、宮崎海岸にはまれに翡翠が見つかっており、以前富山市内で、おばあさんの形見というおおきな翡翠原石の指輪をしている娘さんを見かけたことがある。
勾玉の使用目的は疑問とされ、諸説があるが、筆者は次のように推定している。
人間はその所有権をひろげてゆく本能があり、領土権はそのなかでも最たるものといえると考える。領土を広げる覇権の争いは終わりなきものであり、領土拡大は大きな争いとなるが、古代においてある部族が他の部族の領土を武力で侵奪したとき、相手の族長の犬歯を抜いて穴を穿ち首にかけて示威の象徴とした。多くの部族を従えた首長は多くの勾玉を首にかけることになった。
神社の社紋は右三ツ巴であるが、勾玉三個を組み合わせた形である。逸脱するが、神社の社紋を左三ツ巴とする例が多く見られ、ときに両方混在する例も多く見かける。


02397 天津司の舞

2008年07月05日 | 日本の山車
02397 天津司の舞
山梨県甲府市小瀬町
天津司神社
山梨県甲府市下鍛冶屋町
鈴宮諏訪神社
□祭は四月上旬。
お船で人形がによる天津司の舞が行われる。
□汎論
天津司神社と鈴宮諏訪神社にかかる神事。「オテヅシさん、デッツクさん」と呼んでいる。お天津司さん、お木偶さんの意である。
天津司社に安置された等身大の依代である九体の人形は、面を赤布で覆い、世話人の方らにより天津司神社から下鍛冶屋町の鈴宮諏訪神社につづく「お成り道」を神幸し、境内の御船とよぶ幕内にはいると赤面布をはずし、太鼓、鼓、ササラどにより田楽舞を行う。
人形は藝装束に袴、赤い打ち掛けに身をつつむお姫様、明るい雰囲気の鬼などである。
天津司神社の社記によると、小瀬一帯は古くは湖沼地帯だったころ、十二体の天津神が天から降り舞をして遊んでいたが、そのうちの二神は天に帰り、一神は亡くなった。あとの九神の像を造って小瀬村の諏訪神社に祀ったのがはじまりだという。
田楽舞いを人形に演じさせる民俗は珍しく、重要無形民俗文化財の指定を受けている。
『甲斐国志』によると、旧暦七月十九日に、小瀬村の十七戸によって行われていたとある。現在は四月上旬に天津司の舞保存会によって行われている。
天津司神社の社紋は九耀星でるが、この九神をあらわすという。
舞が終わると人形は天津司神社に還御となる。諏訪神社のお船は白い幕による幕囲いであるが、長野県穂高神社、松本市の和田神社などで見られる御船を意識したもので、天津司の舞とよぶ田楽は諏訪神社に奉納される。人形の面を覆うのは富山県高岡市の御車山祭でもみられる。




34422 神賑行事

2008年07月04日 | 日本の山車
34422 神賑行事
「神賑」ということばがある。祭は地域の産土神と住民が会し、神に神饌を供え神賑行事を行う。神と人とが同じものを飲食する。「饗(なおらい)」ともいう。
武士による治世の歴史が長く続いた時代は民にとっては抑圧の時代であり、その制圧から解き放たれるのが「氏神の祭」であり、祭と山車はそのような背景から発展してきた。
神を建前にした振る舞いには為政者も目をつむることが多く、酒の上の狼藉なども平素では考えられないほど寛大であった。
山車を荘厳する気風は各地にめばえ、木工、彫刻、漆塗、織物、染色、絵画、金工などの意匠、など工芸技術の発展を促し、神と人のあるところから、神楽、田楽、猿楽、能、狂言、歌舞伎、手古前、長唄、清元、常磐津、新内、浄瑠璃、端唄、民謡、祭囃子などを山車に取り入れてきた。山車には、「藝屋臺」、「藝座(下座)」のように、所作や藝能を演じる目的で作られたものも多数ある。
祭に山車を曳くという行事は一言で言えばときに宗教をはなれた大きな楽しみであった。『古事記』に、天の岩屋戸のまえでアメノウズメミコト(天鈿女命)が酒樽のうえで半裸になって踊り、諸神がよろこんで賑わい囃す神賑わいの有様は、いまもそのまま各地の祭に生き続けている。
謹厳な宗教行事を超えた一面があり、かくがゆえに、祭は楽しく人々を無我にする。

02653 安田八幡宮十五夜祭

2008年07月02日 | 日本の山車
02653 安田八幡宮十五夜祭
新潟県阿賀野市(旧安田町)
保田〈やすだ〉
安田八幡宮
□祭神
ホムダワケノミコト 誉田別尊
合祀
オオヤマツミノミコト 大山祇命
コノハナサクヤヒメノミコト 木花咲耶姫命
境内社
粟嶋社
祓戸神社

□祭は九月中旬。
子供たちが小型の山車を曳く。

□山車
・神楽組
・太刀組
・棒組
・長刀組
いずれも休臺。

□汎論
安田八幡宮は長徳三年(九九七)の創祀と伝え、安田(保田)の産土神。本殿は文政十年(一八二七)の建造で、由緒ある茅葺きで重厚な趣がある。
小路連、長刀組などの山車組(若衆組)があって山車を曳いていたといわれるが、老朽により次第に廃臺となり休止状態が続いている。




03873 白根神社祭

2008年07月02日 | 日本の山車
03873 白根神社祭
新潟市南区白根一ノ町
白根神社(しろねじんじゃ)
□祭神
境内社
三山神社
稲荷神社
□祭は八月下旬。
山車(燈籠)十数臺がでる。
□山車(燈籠)
自治会
□汎論
白根神社は,旧白根市街の南端,「一ノ町」に鎮座する。
永禄五年五月の創祀で、祭神は建御名方命を祀る諏訪神社だったが,幕末の慶応四年に白根神社に改まっている。本殿の社紋は諏訪梶である。
明治維新期に従来の諏訪神社が白根神社となった。白根神社の祭神はヤマトタケルノミコトとされている神社が多い。
近くの弥彦神社ほか近隣にも燈籠が出る地区が多くある。
地区では白根大凧合戦が行われる。白根地区と味方地区で六月上旬に開かれる凧祭。両地区が中ノ口川をはさん両岸から畳二十四畳もある大凧を揚げ、凧の綱が切れるまで引き合う大凧合戦が行われる。