暘州通信

日本の山車

◆倭王 卑弥呼死す

2018年04月22日 | 日本山車論
◆倭王 卑弥呼死す

 不穏な倭國内対立を抱えるなか、倭王 卑弥呼が死去した。
 國中喪に服する中、塚が作られた。その大きさは径百歩ほど、多くの奴碑が殉死した。

 国情不安定ななかで、男王が、卑弥呼のあとを襲い新王となった。ところが、國中の臣民がこれに従わず、互いに殺し合う邪馬臺國内乱の騒擾となった。
 そこでまだ若い十三歳の少女【臺與(原文では壹與)を着位させたところ、ようやく内乱は収まった。この決定は帯方郡の太守の認めた。
 臺與は、倭の大夫である、率善中郎將の掖邪狗ら二〇人を魏に派遣し、張政らが洛陽に還るのを見送るとともに、魏の京都にのぼり、男女生口三〇人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二〇匹を貢獻したのであった。

【私論 魏志倭人傳】

◆狗奴國との不和

2018年04月22日 | 日本山車論
◆狗奴國との不和

 正始八年(二四八)、朝鮮半島にある魏の帯方郡の太守が異動となり、新しい太守として王□(□は文字なし)が着任した。

 倭の女王の卑彌呼と、狗奴國の男王の卑彌弓呼はかねてより不和であったが、倭の卑弥呼は、載斯、烏越たちを帯方郡に遣わし、両國が不和であることを報告した。
 帯方郡の太守は、塞曹掾史の張政たちを邪馬臺國に遣わして、狗奴國に対して、魏の國威をもって邪馬臺國の卑弥呼女王は、倭国の王であり、難升米は、魏の将軍であり、魏の軍旗が下賜される詔が発せられていることを告げて心得違いを諭し、邪馬臺國に従順に従うよう伝えた。

【私論 魏志倭人傳】

◆再び魏に使者を送る

2018年04月22日 | 日本山車論
◆再び魏に使者を送る

 正始四年(二四四)、倭王卑弥呼は魏王からの使者と贈物の返禮と友好國としての礼儀を示すため、大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を魏に派遣した、このときの献納品は、生口、倭錦、絳青、緜衣、帛布、丹木、短弓矢などであった。
 使者の掖邪狗たちに対しては魏王より善中郎將に叙するとともに印綬の下賜があった。

【私論 魏志倭人傳】

◆魏使、帯方郡梯儁らの邪馬臺國正式訪問

2018年04月22日 | 日本山車論
◆魏使、帯方郡梯儁らの邪馬臺國正式訪問

 景初二年(二三八)から二年後の、 正始元年(二四〇)、帯方郡太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わして、倭に到り、詔書、印綬を奉じ、倭王卑弥呼に拝謁した。このとき、使者は、金帛、錦、刀、鏡、采物を献納した。
 倭王、卑弥呼はこれを慶んで受納し、謝恩の上表文を詔したのであった。

【私論 魏志倭人傳】

◆卑弥呼は倭の女王に叙される

2018年04月22日 | 日本山車論
◆卑弥呼は倭の女王に叙される

 景初二年(二三八)十二月、魏王は、京都、洛陽より卑弥呼のもとに詔書を発した。この証書は甚だ重要な文書である。
 その詔書の大意は、
 親魏に親しく国交を求める【倭王 卑弥呼】よ、そちは、我が國帯方の太守である、劉夏を通じて、汝の國の大夫である、難升米と、次使である、都市牛利を魏に使を遣わし、男性の生口を四人、女性の生口六人、ならびに、班布二匹、二丈を献納品として納め、余は相違なく受納した。
 そちの國は、わが都である洛陽からはるかな遠方にあるにもかかわらずその遠きをいとわず余のもとに、使を遣わし貢献する汝の忠誠にたいしては大いに心を動かされれた。
 余は汝の誠実な態度に対し、いま即をもって、ここに、そちを【親魏倭王】の称号を授け、【金印紫綬】を与えることを決定した。そこで、帯方の太守を経由して、そちにこれを正式に伝達するものである。
 これらが届いたら、汝はこれまで以上に人々を綏撫するとともに、魏に対しては孝順をいたせ。
 汝の使である、難升米、牛利は遠きを渉り、遠路をいとわずそちに代わって立派に使者を務め、恭順を示したのははなはだ立派な心掛けである。そこで、難升米には、魏の将の位である率善中老将を授ける。また、牛利は率善校尉の位を授けることとした。そこで、その印として【銀印青綬】を下賜する。副賞として、絳地交龍錦を五匹、絳地□粟□十張(□は文字なし)、□絳五十匹(□は文字なし)、紺青五十匹をもって、汝の献ずる所の貢に対する我が国の鄭重なる答禮とする。
 また、そちに対しては、特に、紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を下賜することとする、これらはすべて丁重に包装し、難升米と、牛利に託することとする。これをもって、貴意に対する我が魏の鄭重なる答禮とする。
 かれらが無事に帰國したときは、照合と記録をし、悉く、そちの国中の人々にこれを示すがよかろう。

 景初二年(二三八)十二月、邪馬臺國の女王卑弥呼は、外国人である魏王によって、【九州の邪馬臺國の女王】であると同時に、およそ七〇國の頂点に立つ【倭の女王】として認められたのであった。

【私論 魏志倭人傳】