◆臺岐國に至る
對馬國からまた海を渡る。この海を「(かんかい)」とよぶ。
瀚海を渡ること一〇〇〇里にして「一大國」に至る。この一大國とは、臺岐國のことで、一大國と記述したのはおそらく誤記であろうとされている。しかし、元の名称が一大國であり、のちに一支國(臺岐國)になったかもしれない。
私的には、臺岐國の名称は、宗像大社、邊津宮 の祭神である、イチキシマヒメノミコト(臺杵島媛命)を祭神とする島だったのにちなむのではないかと考えている。
官制度が定められていて、
大官は、卑狗(ひこ)
副官は卑奴母離(ひなもり)
とよばれるのは、對馬國と同じである。
海中の絶島で四方、三〇〇余里ほどの広さがあり、竹や樹木が叢生している。戸数は三〇〇〇余戸ある。島は對馬國の四分の三ほどと小さいのに、人口はおよそ三倍の三〇〇〇人ほどが暮らしている。しかし、良田が少ないので食が不足している。
臺岐國には、對馬國とおなじように、南北岸には市が立つ。
【私論 魏志倭人傳】
對馬國からまた海を渡る。この海を「(かんかい)」とよぶ。
瀚海を渡ること一〇〇〇里にして「一大國」に至る。この一大國とは、臺岐國のことで、一大國と記述したのはおそらく誤記であろうとされている。しかし、元の名称が一大國であり、のちに一支國(臺岐國)になったかもしれない。
私的には、臺岐國の名称は、宗像大社、邊津宮 の祭神である、イチキシマヒメノミコト(臺杵島媛命)を祭神とする島だったのにちなむのではないかと考えている。
官制度が定められていて、
大官は、卑狗(ひこ)
副官は卑奴母離(ひなもり)
とよばれるのは、對馬國と同じである。
海中の絶島で四方、三〇〇余里ほどの広さがあり、竹や樹木が叢生している。戸数は三〇〇〇余戸ある。島は對馬國の四分の三ほどと小さいのに、人口はおよそ三倍の三〇〇〇人ほどが暮らしている。しかし、良田が少ないので食が不足している。
臺岐國には、對馬國とおなじように、南北岸には市が立つ。
【私論 魏志倭人傳】