暘州通信

日本の山車

◆卑弥呼は倭の女王に叙される

2018年04月22日 | 日本山車論
◆卑弥呼は倭の女王に叙される

 景初二年(二三八)十二月、魏王は、京都、洛陽より卑弥呼のもとに詔書を発した。この証書は甚だ重要な文書である。
 その詔書の大意は、
 親魏に親しく国交を求める【倭王 卑弥呼】よ、そちは、我が國帯方の太守である、劉夏を通じて、汝の國の大夫である、難升米と、次使である、都市牛利を魏に使を遣わし、男性の生口を四人、女性の生口六人、ならびに、班布二匹、二丈を献納品として納め、余は相違なく受納した。
 そちの國は、わが都である洛陽からはるかな遠方にあるにもかかわらずその遠きをいとわず余のもとに、使を遣わし貢献する汝の忠誠にたいしては大いに心を動かされれた。
 余は汝の誠実な態度に対し、いま即をもって、ここに、そちを【親魏倭王】の称号を授け、【金印紫綬】を与えることを決定した。そこで、帯方の太守を経由して、そちにこれを正式に伝達するものである。
 これらが届いたら、汝はこれまで以上に人々を綏撫するとともに、魏に対しては孝順をいたせ。
 汝の使である、難升米、牛利は遠きを渉り、遠路をいとわずそちに代わって立派に使者を務め、恭順を示したのははなはだ立派な心掛けである。そこで、難升米には、魏の将の位である率善中老将を授ける。また、牛利は率善校尉の位を授けることとした。そこで、その印として【銀印青綬】を下賜する。副賞として、絳地交龍錦を五匹、絳地□粟□十張(□は文字なし)、□絳五十匹(□は文字なし)、紺青五十匹をもって、汝の献ずる所の貢に対する我が国の鄭重なる答禮とする。
 また、そちに対しては、特に、紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を下賜することとする、これらはすべて丁重に包装し、難升米と、牛利に託することとする。これをもって、貴意に対する我が魏の鄭重なる答禮とする。
 かれらが無事に帰國したときは、照合と記録をし、悉く、そちの国中の人々にこれを示すがよかろう。

 景初二年(二三八)十二月、邪馬臺國の女王卑弥呼は、外国人である魏王によって、【九州の邪馬臺國の女王】であると同時に、およそ七〇國の頂点に立つ【倭の女王】として認められたのであった。

【私論 魏志倭人傳】



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